Retrospective...

イラストレーター/ライター遠藤イヅルの困った嗜好をばらす場所

【てつどう】満鉄の行き残り「プレニ」を見に行く。

2009-07-05 | てつどう。

満鉄生き残りの蒸気(プレニ)が日本にある...

そんな情報を手に入れ(って全然シークレットな情報では無いんですがw)、
向かったのは茨城県伊奈町の「きらくやま公園」...


ってなんでこんなところに、な気持ちはありましたが、
たしかに、いました。プレニが!





プレニ、は「プレーリー型二番機」の意味です。
日本でいえばプレニの役割に相当するのはC56や、C11といった
入れ替えや支線用の小型機とでもいうポジション。

でも満鉄は標準軌なので、入換機なのにでかいでかい...





ちなみにプレニには日本製と現地製があって、
この保存機がどちらかは厳密にはわからないそうです。
説明板には「日本車輛製」ってありますが。





独特のテンダ(スローピングバック・テンダ)。
大連埠頭での入れ替え用につくられたプレニには必須の、後進時の視界確保を考えた設計。
C56のテンダも同様の思想です。



ちなみに「満鉄」ですが。


南満州鉄道 株式会社
(みなみまんしゅうてつどう、略称:満鉄、英語名:South Manchuria Railways Co.)は、
日露戦争後の1906年(明治39年)に設立され、
1945年(昭和20年)の第二次世界大戦の終結まで中国東北部(旧満州)に存在した
日本の国策会社である。
鉄道事業を中心にするが、きわめて広範囲にわたる事業を展開し、満州経営の中核となった。
大連、のちに新京に本社がおかれ、東京に支社が置かれた。最盛期には80余りの関連企業を持った。

(wikipedia「南満州鉄道」より)


歴史的な問題はここではおいておき、
日本が満州で行った「先進的な事業の数々」に、
我が国の「すごさ」を垣間見れる気がするのです。


満鉄は鉄道事業だけをしていたのではなく、あの当時から高速道路(未成だが)や
ダムを建築するなど、インフラの整備も行っていました
(その技術や整備されたものは今でも中国東北部が重工業で盛んになった礎となっています)。
要するに、技術を持っていても、小さな島国・日本では出来なかった。
そこで、大陸規模に合わせてそれを思う存分に具現化出来たのが満州。
「壮大な日本の実験場」と言うことが出来るのかもしれない。


だから、満鉄は、すごかった。
カーブが多く、トンネルや橋梁がないとまっすぐ線路も敷けず、
1067ミリの狭軌で車体設計や最高速度に制限もある日本では出来なかったことを
思いきり形にしているのではと思います。
超特急構想が新幹線開業30年以上前に具現化していたのですから
(そう思うと戦後20年内に新幹線を開業させていることもすごい)。

一例が、超特急「あじあ号」。大陸縦貫特急ともいえましょう。
海外列強に日本の技術力を見せつけるように、
大連-新京を平均時速82.5km/h・最高時速120km/hで走り抜けました。
当時の日本国内最速の列車は平均時速60.2km/h、最高時速95km/hですから、
その違いは明らか。
最高速度などが技術力の指針だったころ、
日本の鉄道技術は世界に通用するのだと訴えるには日本国内の列車では不可能だったのですね。

機関車「パシナ」は全長25m、高さ4.8m、動輪直径2m、全備重量200t(!)を超える超大型機。
しかもあじあ号の客車は密閉窓で冷暖房完備!
あの当時で、です。
日本、すげえ。


>>ちなみに、この公園、すごくわかりにくい場所にあります...(涙

>>プレニ、自重90tもあるそうです。これって87tのD51よりも重い!
す、すげえな大陸蒸気(涙
コメント (4)
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