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紅葉の宇治~京都~奈良 原点へ(その3)

京都 2016年11月22日

京都平安ホテル 庭
江戸期の池泉式回遊庭園を小川治兵衛が改修したとのこと


御所
少しだけお散歩


京都市役所
野暮用で一寸立ち寄る


インクライン ねじりまんぼ


南禅寺 方丈
方丈庭園は小堀遠州作とされる江戸期の庭






方丈北側の庭


妙喜庵
利休作と考えうる唯一の茶室遺構・待庵へ


写真撮影禁止につき


慈照寺
室町期の建築はこの銀閣と東求堂のみが残る


庭園は江戸期に復興されたもの


東求堂
内部に書院造の原型と言われる同仁斎がある


東求堂の正面部分に室町期の石組みが残っていると言われる


銀沙灘
銀閣と言えば銀沙灘だが、成立は江戸後期で東山文化とは全く関係がない


ボンボンカフェ
銀行をリノベしたカフェ。リノベ系おしゃれカフェのはしり

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紅葉の宇治~京都~奈良 原点へ(その2)

京都・東福寺 2016年11月21日
宇治から東福寺へ。午後は重森三玲作庭の庭を中心に廻ります。

東福寺 一華院
三玲の孫である作庭家・重森千青氏による庭園から見学スタート。





東福寺 龍吟庵
写真からアクが強い印象を持っていましたが、動きと落ち着きが共存する魅力的な庭でした。









東福寺 即宗院
室町時代の池泉式回遊庭園の遺構と言われています。





東福寺 方丈庭園
大変な人出なので今回はパスしようかと思いつつ、やはり立ち寄ってしましました。









東福寺 光明院
東福寺の閉門の後に滑り込みました。石が離散的に配置されている、とても不思議な印象の庭園です。





東福寺の後は市内へ。友人と町屋を再生したギャラリーで待ち合わせた後、こちらでのんびりしました。








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紅葉の宇治~京都~奈良 原点へ

宇治 2016年11月20・21日

京都から宇治へ。まずは自転車で宇治川を遡上して煉瓦建築を愛で、夜の平等院へ。その後は知人と伏見でひと風呂浴びて一献。やわらかな酔いを楽しむ。











平等院内部拝観の後、知人の手がけた住宅へ。大正から昭和、平成へと住み継ぐ住まい。歴史の地で新たな時の鼓動を感じる。











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何だかんだで結局デル

パソコンの起動がやたら遅くて、何だか心配な状態になってしまいました。
改めて確認してみると、今のパソコンは2011年8月に購入ということで、5年も現役だったのね。
うーん、そろそろ更新時期かなぁ。

今回は置き場の問題もあってノートPCにしようと思って候補の選定に入ったのだけれども、
5年も経つと、パソコン事情もイロイロ変わっていますね...。
特にノートPCは

・記憶媒体がHDDからSSDに(データ保存はPC内からクラウドへ・・データ通信環境の日常化が背景?)
・ディスプレイのタッチパネル化(Win8の遺産?)
・光学ドライブなどはスッパリ切り捨て

と、ハードの在り様の変化が目覚ましく...。
以前はノートPCも含めると、2~3年おきにパソコンを買っていた気がするのだけれども、
前にノートPCを買ったのはもっと前の2009年だし、本当に浦島状態ですわ。

で、ノートPCでは上記の最新トレンドに対応したモバイルノート(あるいはタブレットをノート的に拡張したもの)に
面白そうな製品が出ていて、色々浮気したくなってフラフラしたんですが、
一応デスクトップの更新という位置づけだし、そもそも高いし、なので、
結局Dellの14インチノートと言う微妙な選択にしてみました。
記憶媒体はHDD、ディスプレイはタッチパネル、光学ドライブ付です。
2.2kgもあるから普段持ち運ぶ気にはなりませんが、持ち運べないことはないという感じでしょうか(笑)

前回納期の件でヤキモキさせられたDellですが、最近は少し評判が落ち着いているようです。
さてさて、何時到着するかなぁ。
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雨の中の横浜

横浜で開催された、とあるイベント
紅葉ヶ丘・野毛山、丘を巡る・切通しを下る
雨の中のまち歩き、その徒然に













野毛は安くて旨い
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ワスレタコロニケイタイカエタ

携帯電話の機種変更をしました。
前のエントリー「ケイタイカエタ」(2009年8月11日)から7年。凄くない?

実は今回ですら機種変更する気はあまりなくて、
iPadとかのタブレットを買い足してガラケーと2台体制にするつもりで
SIMフリーにした時の費用やら回線業者まで結構調べたのです。
でも、お店でiPad見たりいじったりしてたら実はアンマリ欲しくない気がしちゃって(笑)

で、結局デザイン的に物欲をそそるiPhone SEの64GB(色はスペーシアグレー)を買う事にして
(老眼なんで小さいスマホじゃ見えない、ということからのタブレットの検討だったのに)
ノートPCを別途検討して、必要に応じ出先でデザリングで対応しようという方向(って言うか気分)になりました。
SEは確かに小さくて老眼には優しくないんですが、しかしその小ささが良いのですよねー、カチッとしてて。


長年よく働いてくれた830SHsと。感謝感謝。

今後のiPhoneの運用の課題は、携帯音楽プレーヤーとしてiPod Classic(160GB)とどう使い分けるか。
ロスレスとかにはしていないんで、音楽データは50GB位しかないんですが、
流石に64GBのiPhoneにこれら全てを入れる訳にもいかず。
取り敢えず「新着」プレイリスト(150曲くらい)のみ手動でiPhoneに送ることにして、様子を見てみます、が、
プラナリアはこの他にもコンデジなんかも持ち歩いているので、
iPod Classicは事務所専用となって、外には持ち出さなくなるかも...。


取り敢えず保護フィルムだけは貼った。

あと今回の機種変更で驚いたのは、9/1に機種変更=今は亡き料金プラン「オレンジプラン」の変更だったのですが、
通話料金のプランって月末まで適用なんだそうで、9月いっぱいオレンジプランなんだそうだ。
(通信は月初に遡って適用とのこと、日割りじゃないのね??)
実は繰り越し通話料が残っていて、ちょっと勿体ないと思っていたので良かったです。
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千駄ヶ谷の空

千駄ヶ谷で夕暮れの空を撮った










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校舎の風景

昔々通った小学校が改築される


卒業制作


下駄箱


階段


チョーク入れ


教室


黒板





水飲


掃除当番


向日葵
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パルコ ザ・ラスト

渋谷のパルコが消える
(写真をクリックすると拡大します)

高校生の時に、友達を誘ってここの劇場に『モンティ・パイソン』を観に来た。
それ以来ハマった、と言えば感度良い感じだが、当時はさっぱりわからず「???」であった。
その後『未来世紀ブラジル』でようやくテリー・ギリアムを認識した。
練馬の田舎高校生にとっては渋谷はお洒落で先端な大都会。
池袋が「池西」の破竹の進撃で消費文化を牽引するようになる、そのちょっとだけ前の話だ。



今は映画館になっている『SPACE PART3』には、大学生の頃によく通った。
最初にビスコンティを見たのは池袋の文芸坐(『家族の肖像』と『イノセント』)
次は銀座の並木座で『山猫』、これは多分高校生の頃。
大学生になって、パルコの特集上映でかなりの数のビスコンティ作品を集中して観た。
若き日の野村萬斎のパフォーマンスもここで観た。



最近はたまに地下のギャラリーやブックセンターに来るくらい。
今日は本屋でバーゲンになっている洋書を買った。改めて良い本屋だと思った。
パルコで洋服を買った記憶はない。
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柳と柳田の「民」の交差するところ


神奈川近代文学館「「生誕140年 柳田國男展 日本人を戦慄せしめよ」」のつれづれに

民俗学の柳田國男(1875-1962)と民藝の柳宗悦(1989-1961)。

この二人の大思想家、昔、「民」と「柳」が同じと言うだけで、
自分の中では何となく同じジャンルに区分されていたことを白状しておきます(苦笑)。
と言いつつ、どちらも東京帝大出の文学青年だったり、
30代半ばで本格的に「民・・」の活動をスタートさせたり
(「遠野物語」柳田35歳、柳が「民藝」という言葉を創案したのは36歳)
と言った共通点も、ない訳ではない、のです、はい...。<無理矢理

その14歳違いの両者ですが、雑誌「月刊民藝」のための対談を1940年と言う微妙な時期に、
しかも式場隆三郎の司会で行っているそうだ(柳が対談に招いたということですね、式場は編集長)。
ところがこの対談、どうもあんまりいい雰囲気にならなかったらしい。、
そして、それ以降、ほぼ同じころに亡くなるまでの間、両者はついに接点を持たなかったようだ。
おなじ「民」の中にある「もの」や「こと」、「ことば」に着目し、
しかも国粋主義の盛んな戦中に伝統と言う危険なテーマを取り扱っていた両者が、
それぞれの学問が自由に羽ばたいた戦後に交流しなかったのは、何とも惜しい気がしますね。

*対談については、詳しくはリンク先のBLOG「田原書店外伝」の20070902の記事を参照。

ところで柳田が貴族院の書記官を辞めたのは44歳の時だそうだが、
柳も同じく貴族院の書記官だった、という記述をネットで見かけた。
であれば、結構な共通項があることになるが(我田引水?当時の帝大出なら当然の進路かも)、
日本民藝館のHPにある略歴などでは、役所勤めのことは書かれていない。
となると、卒業後、柳は宗教哲学の研究だけで御飯食べれていたのか知らん??
まぁ、柳田と違ってなかなかの資産家だったらしいから、働く必要はなかったのかもしれない。
(京都大学HPの記述によると、1919年に東洋大学教授に就任している。
 ただ、1923年の関東大震災で被災して京都に移転したそうなので(1924)、
 その時点で教授職は辞したのかもしれない)
そして一見なんだか貴族的なイメージの柳田、実は生家は知識階級でありながら貧しく、
苦労して勉学に励んだというのはちょっと意外。
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