Retrospective...

イラストレーター/ライター遠藤イヅルの困った嗜好をばらす場所

江戸の町にタイムスリップ!

2006-11-16 | 江戸時代に憧れる。
これまたちょっと古い話なのですが、
日曜日は「江戸東京博物館」へ行ってきました。

浮世絵の肉筆画展、アラーキーの写真展などもしていたのと、
前々から「江戸時代」好きとしては行かずにはいられない!ところでった行ったのでした。


見所が多かったので、すんごく端折りますが、
ひとことで言うならこの博物館、「模型」がすごい。
なので今日はその模型たちをご紹介。

日本橋たもとの町の様子です。1/30サイズ。

被写界深度が浅いので奥まで見えませんが、一人一人が
まるで動き出しそうな、素晴らしいストーリーを持っています。
立ち話をするもの、橋の下をながめるものなどなど...
これ作った人、スタジオジブリのモブシーン
(群衆の、ひとりひとりに違う動き与える!)が描けますよ(^^


棒手振り(ぼてふり=売り子)がいっぱい。
商家の屋根には「うだつ」が立ち並び、その店の勢いを競っています。
(「うだつがあがらない」という成句は、このうだつから来ています)。


晩年の北斎の家!リアル杉です。


栄華を誇った大店(おおだな)、越後屋呉服店の模型。
軒はカットされていて、店の中が見えるようになっています。
商談、品定め、反物を運ぶ丁稚...みんな生きているようです。


見せ物小屋などが立ち並び、繁華街となっていた両国橋。
その模型です。これまた人がちゃんと「何かをしています」。


川には舟が沢山出ていますね。


今で言う、屋形船のようなものでしょう。
屋根上で風情を楽しむ男衆、屋根の下で宴を楽しむ女たち。
丁寧に、履き物まで脱いでいる様がわかります。


江戸の町では、今よりもきっとゆっくり毎日が過ぎていたのでしょう。
ファッションを楽しみ、見せ物や歌舞伎を楽しみ、初物を待ち、屋台で腹鼓。
季節の移り変わりをビンカンに受け止め、それを上手に暮らしにとけ込ませ、
そしてそれを楽しむ...
やはりこれこそが日本人らしさであり、忘れてはいけないことだと思うのです。
そして、統一された美しい江戸の町...。
すべてが自然のものだけで出来た、でも人口100万人もの人が住んでいた大都市の姿に、
今夜も思いを馳せるのでした。




>>いやはや、圧巻でした。
ちゃんとオペラグラスも用意されているので、町人達の暮らしが楽しめました。


>>おまけ...籠に乗って大名気分♪

それにしても小さい!こんなので何百キロも...大変だったでしょうねえ...。




コメント (15)
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藍色

2006-09-14 | 江戸時代に憧れる。



古来の日本の色は、その微妙さ、名前の美しさ、どれも大好きなのですが
なかでも「藍色」というのは響き・色ともにいいですよね。


染め物の藍色はほんとうに深い青。
ラフカディオ・ハーンは、日本に来たときに
日本の印象を「青の溢れる国」と評したといいます。
手拭い、袴、着物、暖簾...見渡す限りの藍色が町に溢れていた江戸時代、
調度の整った建物とともに、美しい景観を作り出していたことでしょう。

ところで「藍」藍の色素は、インジゴ(インジゴチン)と呼ばれています。
そう、インディゴですね。
インジゴは、本来はインドで栽培されている天然藍(インド藍)のことを指すので、
「インドからきたもの」というのが本来の意味のようです。
日本では、タデアイというタデ科の植物から藍が作られています。
藍染めは平安時代に端を発するようですが、全盛期は江戸時代だそうです。

なおジーンズなどに使用されているのも要は藍染めですが、こちらは
19世紀以降、合成インジゴ(成分は天然インジゴと同じ)が大量に生産できるように
なったのでそれを使用しているとのこと。

でも同じ藍染めでも、日本の藍色は奥深く、奥ゆかしい感じがしますよね。
綿の肌触りと色合い。そんなこんなで藍染め製品が大好きなieなのでした。



>>日本の伝統色が一覧できるサイトをご紹介します。
上から下までスクロールしてみて下さい。
突き刺さるような色がありません。これを見ると、ほんとうに日本の色は美しい...

>>フランスの伝統色も興味深いです。落ち着いた色が多いのがいいですね。


>>ところで、「藍色」は一応どんな色か決めてあるらしく、
webなどで使う16進法ですと#OF5474、RGBでは15.84.116、
CMYKの場合は94.64.35.17とのことです。

>>宮里藍の「あい」は、五十音で一番最初に来る名前だから...
一番を目指す名前なのだそうです。すごいですねー。
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東海道を歩いてみたい(ちょっとだけ^^;

2006-06-29 | 江戸時代に憧れる。


つい先日まで、NHKで街道てくてく旅という番組をやっていました。
元サッカー選手が東海道を歩いて京都へ、数週間かけてゆっくりと進んで行ったのですが、
道中とても気になったのが静岡県内。
というのも義理の父の墓参りなどで頻繁に遠州に帰りますし、
嫁様の実家があった場所が、東海道五十三次の宿場、磐田・見附のそばだからなのです。

気にはしていたけど、東海道にかかわる場所にちゃんと行ったことが無いなあ...。
そう思うと、全区間歩くつもりは(ヘタレなのでw)有りませんが
要所要所には行ってみたくなりました。


たとえば、今なお江戸時代の道がそのまま残る箱根~三島の旧道。
旧国道1号ではなくて、まさしく旧東海道です。
静岡から岡部に抜ける宇津ノ谷峠でも、わずかながら昔のままの道があるらしい。

それから、順番は前後しますが静岡市内の丸子(まりこと読みます)。
旧街道には昔ながらの町並みがあって、
しかもここには芭蕉も歌に詠んだという丁字屋というとろろ汁のお店があります。



それ以外にも見所はいっぱい。
越すに越されぬ大井川と謳われた交通の難所、大井川。
「川越(かわごし)人夫」たちの番宿や商いの店が並び賑わった当時を再現した
「大井川川越(かわごし)遺跡の街並み」があるそうです。行きたいなあ~。




それから国道1号でもさくっと越えてしまう岡部にも、古い街並みがあるそうで、
ここには岡部宿 大旅籠柏屋なる江戸末期の旅籠が残っているとか!見たい!
この界隈にある日坂宿も見所多く、
明治・大正・昭和の各時代に作られたトンネルが並ぶなど、
江戸時代の雰囲気以外にも楽しめそうな場所です。


ここで古い写真をいくつか。

明治初期の沼津。


箱根宿。


こういう景色が当たり前だった時代を想像しただけで、僕は得も言われぬ気持ちになります。
今から何年も前、たしかにその場所を、その時代の人々が行ききしていたのです。
その瞬間が確かにあった。時代劇でしか見られないような瞬間が、そこに...。






>>以前はお金を浮かすために東京~御殿場以外は国道1号で行き来した東京~遠州間も、
ここのところ往復高速でビューンと行ってしまうので尚更「東海道」とは縁遠くなって
いました。
でも今度帰省するときは、往復に時間をかけて「今更ながら」静岡に残る江戸時代の姿を
堪能しようと思います。

>>ところでこういう古写真を見たり、昭和初期の暮らしを調べたりするにつけ、
実はここ数十年...戦後を境にしたあたりまで、実は日本人のくらしは江戸時代と
あんまり変わらなかったのかもしれませんね。







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2006-04-12 | 江戸時代に憧れる。





3年前、福井で行われたフレンチトーストピクニックに行ったときのことです。
イベントを楽しみ、帰りは嬉しい後泊をしました。
場所は、白川郷
合掌造で有名な場所です。

民宿は無論、合掌造を選びました。
歴史を感じるたてものの中で美味しい夕飯を頂いたあと、僕はR18&R4乗りのKT君と
宿の近くにある公共温泉に歩いていくことにしました。

5月の夜ですが、少し肌寒い中を宿の外へ。
街道に出て、僕らははたと気が付いた。
信号機やその周囲の街灯、それとわずかな家々の明かりが目立つほどに真っ暗なのです。
山間部ならどこでも...かもしれません。
でも、観光地で、昼間はそこそこの密集した家々のあるエリアなのに
想像以上に暗かった。


僕はふと思った。
薄ぼんやりと路面を照らし出す家々の明かりに反射して僅かに浮かび上がる
江戸時代から建つたてものと、それ以外を包む夜の重々しい帳。
それらがもたらす、まるでタイムスリップしたような錯覚とともに。



...闇がある。この町には、江戸時代のままの闇が。



このたてものたちが見てきたその昔、
ひとびとにとって闇はどれほど恐ろしいものであったか。








想像しただけでも怖いです。
今の時代だって、電灯もない夜道は怖い。
山道など歩けません。
でも昔は、街も真っ暗だった。
路面を照らすのは月か、提灯くらいなものだったでしょう。
柳は風に揺れ、木々はざわざわと囁くように葉をかすれさせる。
行く人もいない。
闇は、人々の恐怖心をかき立てた事でしょう。
何が出てもおかしくないと思ってしまう。


そして、実際、闇には何かがきっと潜んでいたに違いないと思うのです。
もし今住んでいる街のあかりがすべて消えたら、どれだけ怖いか...
まあ、一番怖いのは魑魅魍魎ではなく、闇を利用して悪さする人間だと思うのですが(^^;




>>宮部みゆきの作品の中に、「幻色江戸ごよみ」という珠玉の短編集があります。
12編のストーリーに生きる、ごく一般的なひとびとの暮らしを怪異的なストーリーで
まとめた、大好きな本です。

>>この中にも、「闇」は効果的に使われています。
闇が怖いと直接的に書かれているわけではないのですが、
でも闇が人々にもたらす恐怖心、闇が生み出す不安感などが描き出されてます。


>>あ、ちなみに白川郷は夜が怖いというわけではありませんので、ご心配なく!

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江戸時代の物流(1) 飛脚

2006-04-04 | 江戸時代に憧れる。

くるまも鉄道も無かった江戸時代。
いつも気になるのは、物流はどうなっていたのだろう、ということです。
そこで、数回に分けて江戸時代における遠隔地間のものの流れを書いてみようと思います。

第1回は、飛脚。



江戸時代、今の郵便や電話の役目をしていたのが飛脚です。

江戸時代になって五街道や宿場が整備されると同時に、
飛脚による通信制度も発展していきました。

ひとことで飛脚といっても、継飛脚(つぎびきゃく)と呼ばれる公儀の飛脚、
各藩が江戸藩邸を結んで走らせた大名飛脚、
そして一般大衆が利用出来るように作られた町飛脚などの種類がありました。


それでは彼等はどのように、そのくらいの時間で届けていたのでしょうか。

基本的には江戸~大坂まで片道30日かかるのがフツウだったそうで、
これを「並便り」と称しました。
早く届けたい場合などには、現在の宅配便にもみられるように
速達便が存在し、所要10日の「十日限」(とうかぎり)、
6日の「六日限」あるいは「早便り」などがありました。
でも実際は宿場での停留や物流の物理的増加により
2~3日の延着は当たり前で確実性に欠くため、
江戸~大坂を6日間できっちり走りきる定期便(!)、
「定飛脚(じょうびきゃく)」が登場し、
これらは「定六」または「正六」と呼ばれました。

さらに早い飛脚には「四日限仕立飛脚」を選ぶことが出来ましたが、
料金は相当高かったとのこと。今も昔も、速達に追加料金を出すのは同じなんですね。


でも一番速かったのは前述の公儀の飛脚、継飛脚。
彼等は二人一組で宿駅ごとにリレーして走り、
一番速い場合では江戸~京都間は片道70時間ほどで結んだそうです。


その後明治時代に入っても飛脚は手紙・小荷物の輸送を続けていましたが、
明治4年(1871)に郵便制度が発足したことで手紙や書状の輸送が出来なくなり、
飛脚業者は結束して陸運会社を設立していったとのことでした。



>>素朴な疑問...なぜ馬を使わなかったのでしょうね。
馬なら、もっと早く届けられたと思うのですが...。
鎌倉時代には鎌倉飛脚・六波羅飛脚(ろくばらひきゃく)などがあり、
これらの飛脚は馬を用いていたそうですが...。

>>ちなみに全区間通しで一人で走る飛脚もいたそうな...って
片道500キロ以上!間寛平も真っ青です@o@
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適塾に行ってみたい

2005-12-05 | 江戸時代に憧れる。


手塚治虫の著作の中でも、
僕は「陽だまりの樹」が相当好きです。

時は幕末、時代の大きな荒波の中で生きる
架空の人物ですが不器用だけどまっすぐな武士と、
手塚治虫の先祖で、ちょっと軽い蘭方医(実在した)のふたりを中心とした物語です。
西郷隆盛、福沢諭吉、勝海舟、山岡鉄太郎、井伊直弼、坂本龍馬などの
時代を動かしたビッグネームが次から次へと登場しながら、
明治へと突き進んで揺れ動く江戸時代の姿を描いた畢生の大作です。
単行本版だと8巻あります(^^

その中で、先生が描く江戸の町、そして人々の暮らしの
鮮やかな描写には目を見張ります。
四季の美しさ、建物の静謐さ、朝の爽やかさ、夕焼けの切なさ。
それはまるで、先生の柔らかい線が描き出す一幅の時代絵巻を見るようです。

この中で、
主人公のひとりで、先生の先祖にあたる手塚良仙は
勉学のために大阪(大坂)にある「適塾(てきじゅく)」に入ります。
緒方洪庵という蘭学者が開いた
今で言う大学のゼミのような私塾(兼住居)でした。
橋本左内・大村益次郎・佐野常民・杉亨二・箕作秋坪・大鳥圭介・長与専斎・福沢諭吉
などを輩出したことで知られています。

最近、この適塾が当時もそのままに保存されていることを知りました。
うぉぉ、これは見に行かなくては(^^
ちなみに中には、マンガのカットと手塚治虫先生の写真が額縁の中に飾られているらしいです。



>>併せて京都にも行きたいなあ。
しのぶさん、その時は宜しくお願いいたします~(汗

>>それと、関西といえば...近鉄・阪急・南海・阪神・山陽に乗って...
って、結局最後は鉄ちゃんなのね(泣
でも関西私鉄は関東とは「異なる文化」なので、魅力的なのです...




>>はーい、今日のアニス。
きかん坊になりつつあるアニス。
こんなことではいかんと、「待て」を覚えさせることに。
ご飯はダメだけど、おやつの時は待てが出来るようになりました(多分

>>その姿。懸命にがまん中。
尻尾が高速回転してるので(笑)写ってませんね(^^;

毛が伸び放題で襟からはみ出てるのだけど、
それにしても頭でかいなあアニス...(泣

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ワープしたい

2005-10-13 | 江戸時代に憧れる。

行ってみたいところ数あれど、
ここは特に気になるところ。

それが、ワープステーション江戸


場所は筑波郡伊奈町。谷田部ICからすぐ。近い!
ここは、江戸城大手門、武家屋敷、長屋門、見附などの景観を楽しめる江戸城ゾーン、
日本橋を中心とした大店街や町屋、廻船問屋などの賑わいを楽しめる江戸の町ゾーンで
構成されているとのこと。ほほう。

ちなみに茨城県南・県西地域は都心から近く、自然や歴史的建造物などロケの適所が多く、
映画のロケを積極的に誘致する「フィルムコミッション」の活動が盛んです。
そのため、今茨城県では多くの映画やドラマが撮影されています。

このワープステーションも時代劇に多用されているそうです。
たけしの座頭市とか。
ここを持つ伊奈町は、エキストラの会があって、
町のみなさんが頻繁にエキストラとして映画に出演するのを楽しみにしているそうです。
楽しそうですねえ(羨






>>江戸時代、そして江戸の街並みを歩いてみたい自分には、
京都の太秦と並んでとっても魅力的。
東京から近いのもいいですよね。
いつ江戸にワープしにいこうかなあ(ワクワク

>>ちなみにヤマトは、ようわかりません。
ただ、個人的にはこの人に注目




真田さん...なんでまゆ無いんだよ(笑
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十三夜

2005-09-20 | 江戸時代に憧れる。
先日9月18日は、十五夜でした。
すっかり澄んだ秋の空、とってもキレイでしたね。
ちなみに十五夜は陰暦の8月15日です。

ところで。
十五夜以外の「夜」にも名前があるのをご存じですか。


まずは、十三夜。
じゅうさんや、と読みます。
陰暦の毎月13日の夜のことですが、とくに、陰暦9月13日の月を指すことがあります。
それで、8月15日に対して「後の月(のちのつき)」とも呼ばれます。
なお、8月15日は「芋名月(いもめいげつ)」の別名がありますが、
それに対する十三夜を「豆名月、栗名月」と呼んで、月見を楽しんだそうです。

ちなみに、江戸時代には十五夜の月を見たら、「後の月」である十三夜の月も必ず見るもので
「片見月(かたみつき)」はしませんでした。風流ですね。


十五夜を過ぎると、次の夜は十六夜。いざよい、と読みます。
そして、今日は、十七夜。この夜の月の別名は、「立待月(たちまちづき)」。
さらに、十八夜は「居待月(いまちづき)」。
それぞれ、いざよいながら(ためらいながら)上る月、
日没後立って待っていれば上がる月、
座って待っていると上がる月、ということが名前の由来です。

まだまだ続きます(笑
十九夜は「寝待月(ねまちづき...月の出る時間が遅いので、寝て待つ)」、
陰暦二十日頃の月は「更待月(ふけまちづき...夜が更けるころ上るので)」。


などなど...月の呼び方でさえこの種類の多さ、ことばの美しさ。
ほんとうに、日本という国の風習とことばは、綺麗です。




>>陰暦23日に月を待つと、願いが叶うという言い伝えがあります。
R19がFBMまでに治るように、午前零時頃、月を待ってみようかなあ。

>>現在の月見は、すすきと月見団子を供えますが、
団子を供えるのは江戸後期から始まったようです。
それより前...天保年間より以前においては、主食であった里芋を供えていたようです。



>>なお、「片見月」は不吉なものとして忌み嫌われていたそうですから、
来月の陰暦13日には、13個の団子を添えて、もういちどお花見しましょうね(^^
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見事、江戸の街

2005-09-02 | 江戸時代に憧れる。
僕が江戸時代に憧れるもののひとつに、街の統一感があります。

江戸の市街は17世紀末には約44万平方メートルの規模があったといいます。
同じ頃、欧州いちの都市ローマは約15万平方メートル、
ロンドンは約9万平方メートル、パリは約6万平方メートルだったそうですよ。



江戸の市街地における緑の比率も世界一だったそうですから
すべてが建物だったわけではないにせよ、ほとんど同じような造り方の
建物がその規模で並んでいたのですから、ドキドキします。
僕ってヘン?


ということで、幕末の愛宕山(あたごやま)からの江戸大俯瞰をご覧下さい
(クリックすると、かなり大きな画像が出ます)。
見事な都市景観です。










>>火事や地震への対応を考えると決して強く理想的ではない日本家屋ですが、
もし、耐震・耐火の技術が
「この江戸の時代の姿をとどめるために」
使われていたとしたら、日本はもっと美しい街であったかもしれません。

>>それにしても、この写真を見たときは鳥肌が立ちました。
時代劇や映画で、そしてセットで見たことあるものではない
「ホンモノ」の江戸の景観のもつ凄さに、です。
たしかにこの写真を撮ったこの瞬間、江戸表の人々は普通に暮らしていたんですものね...。

「写真」の持つチカラの凄さを再確認しました。

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明治維新は小さな変化?

2005-08-18 | 江戸時代に憧れる。
ところで日本の歴史は、「古代」(~平安時代)、「中世」(鎌倉・室町時代)、
「近世」(安土・桃山~江戸時代)、「近代」(明治~戦前期)、
「現代」(戦後期)と分けるのが一般的です。

僕たちの一般的な認識では、江戸時代~明治維新の変化はとても大きく、
今の現代に近い生活背景が成立したと思われがちです。
でも、最近は「江戸時代」は近代の足がかりであって、
理解不能なまったく異質の文化では無いのだという認識が広まっているようです。
この考え方によれば、大きな革命だと思われがちな明治維新の変化は、
小さな変化だと思うことが出来るのです。では、それは何故なのでしょう。

明治維新の変化は、確かに生活様式や考え方に大きな変革を与えました。
文明開化は、文明革命でもありました。
だけれど、基本的な「人が生活する」スタンスには、実は大きな変化は無いのです。



大きな変化。それは、「中世から近世への変化」。
これこそ日本の歴史で一番大きな変化であると言われています。

中世と近世以降の大きな違い、まずひとつは「神仏に頼っていた考え方の衰退」です。
小さな争い、対立、戦争などの時、中世では占いや神懸かり的なまじないなどで
その判断をしていました。つまり、非現実的な物だったのです。
つまりは、評定は神や仏のお告げであるわけで、
ひとびとは「大いなる畏怖すべきチカラ」の精神的支配下にあったのです。
それがひとびとを統治するチカラそのものになりました。


ですが、やがて戦国時代になり、統一国家や「権力」が発生していきます。
もはや評定に神仏はいません。人が人を裁いていくようになりました。
そこにあるのは、現実的な判断力です。


そして、暮らしにも大きな変化が訪れました。
中世までの住居は「集落」として、谷沿いに場所に作られることが多かったのです。
なぜなら、平野の大きな川とその周囲は治水されることもなく暴れ放題で、
とても人が住める場所では無かったらしい。

だがしかし。
やがて戦国時代になって地域を支配する戦国大名が登場すると、
彼らは河川を治水し、川沿いの平野を切り開いて田とし
国力増強のために生産力をあげていきました。
こうなると、もはや山間部での生活では支配には不利な時代となっていきました。
つまり、ひとびとは現在と同じように平野での生活を基本とし、
中核たる城も、それまでの山の上の城ではなく平野部に置くようになったのですね。

 この「ひとと、それを包む自然との関係、考え方の変化」を見ると、
江戸時代が明治時代と、そして現代と大きくは変わらないことが解ります。
江戸時代ではもはや呪術で支配することもなく、とても現実的に物事を着る時代になったのです。

この考えは現在でも変わらないのですから、
「江戸時代」と「現代」はまったく違う時代ではなく、
連続した時代なのだと言えるというわけなのです。


>>子供心に「なぜ、大昔の人は山の中に住んでいたのだろう」って
思ったことがあります。
そのひとつの答えが「川」だったと知ったとき、
川は平定されていて当たり前ということが
かつては常識ではなかったんだなあと思いました。

>>歴史は僕らの「あたりまえの考え」だけでは判断出来ない。
いつか僕らのくらしも、後世のひとびとに「?」って思われる日が
来るのでしょうか。
R19?なんだこりゃ?って感じでしょうね(泣
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ウ○コが商品

2005-08-03 | 江戸時代に憧れる。
江戸時代は、まさにリサイクル社会でした。
モノが少なかった、といえばそれまでですが、徹底的に最後まで使い切る姿勢は、
現代人も見習うところがあるかもしれません。

ほとんどのモノ(鍋や桶などの生活用品)に、それぞれ修理業者・回収・再生業者がいて、
巡回して商売していたそうです。
現在では絶対に商売になりません(^^
でもそれは基本的にすべて自然素材で出来ているからなのですね。


そして、僕が感心するのが衣類と「排泄物」のリサイクル。
衣類は、最後古着やぞうきんとして、使い切りました。
中でも古着業者は多かったそうです。

衣類は現在と異なり、たいへんな貴重品でした。全部手縫いですから、当然といえば当然ですね。
なので、衣類は徹底的に使い切っていました。古着商人が発達したのも頷けます。
そして、古着はさらに使われ、着られなくなったら
ボロ切れ、雑巾、他の衣類用のあて布などになっていったのです。

そして「排泄物」、要するにウンコですね(すみません汗
でもこれが凄かった。欧州では垂れ流しだった糞尿は、
日本では江戸時代、すでにリサイクルの主要品になっていたのです。

では江戸の町から出る排泄物は何に使われていたのでしょうか。
そう、おわかりかと思います。
100万人の排泄物は、江戸の周囲に広がっていた広大な畑や田んぼで
野菜・稲の栄養になったのです。
そして排泄物の水分も泥のろ過作用によって、きれいな地下水になって江戸に帰ってきました。
                        
意外なことですが当時、欧州では、排泄物ををコヤシに使うという発想がなかった。
先ほども書きましたが、垂れ流し。
なので都市ではコレラなどの伝染病が流行したのです。
でも、江戸では、コレラはほとんど発生しませんでした。これってスゴイと思うのです。                 完全なリサイクルですよね。

当時、都市部から排泄物を買い取り、田舎の農家まで荷車に乗せて運び、
売って儲けていた中間業者もいたそうです。

しかも、江戸長屋では大家が住人の排泄物の面倒を見る権利があったそうで、
そうなると彼らもまた排泄物を農家に売る業者になり、
なんと年収20~30両程度になった!大家ウハウハですね。
ウンコは商品だったのだ!元手ゼロの!



>>そう思うと、現在では排泄物はわざわざお金と電力をかけて分解していますけど、
なんかもったいない気がしませんか?
ウンコとわからないように脱臭、粉末化するなどしたら最高の肥料になると思うの
だけど...。

>>ウンコウンコと、食事中の方すみません(←って言いながら書いてるじゃん^^
でも連呼するとなんかスッキリする(汗
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江戸時代に憧れる

2005-07-25 | 江戸時代に憧れる。
こっそり新カテゴリを追加しました。

その名も、「江戸時代に憧れる」。

フランス車バカな僕ですが、日本の風情、情感は大好きです。
日本人ですものね。

そんな中、いにしえの文化や景色、そしてその時代が持っていた技術などが
急速な勢いで失われ続けていることに、実はずっと前から危惧を抱いていました。
そして失われつつあるのは文化だけでなく、考え方すらもそうです。

そんな昨今は浴衣や着物ブーム、ロハスという概念が実は本来の日本文化に近いのだという
認識も拡がって、日本を見直そう!という感じになっているのは素晴らしいことです。

ところで、実は、江戸時代は海外では非常に高く評価されています。
知られていないことですが、江戸時代の江戸にはすでに
上水道が整備され(ロンドンなどでは近代までなかった)、
一方、下水はすべて肥料として農村に還元されるなど、生活水準の高さだけでなく、
265年間平和を維持し続けたことによる文化自体の爛熟。
数学などは西欧並みに発達していた(ドイツ人科学者よりも早く微分積分を解明している)
していたりするなど、とても先進的だったのですね。

そして、あたりまえですけどすべてが「オーガニック」であり、
すべてが「本物」の時代でもあります。
そして、モノがない分、様々な智慧、工夫で寒暖を乗り切り、
風情を楽しむ、こころの文化でもありました。

たしかに、モノとしての成熟度や物質的な豊かさでは、無論比較するまでもなく現代が上。
それに、多くの人は貧しかったし、生活は不便だったろうし、
男尊女卑、武士の圧倒的な立場の強さ、鎖国によるガチガチに固まった思想...
など苦しいことや大変なことも沢山あったでしょう。

でも、江戸...いやいにしえの日本文化が持っていた「心の豊かさ」は
決して現代人も忘れてはならないと思うのです。




>>追々、江戸時代についての様々なお話をしていこうと思っています。
ご期待?下さい。

>>物質社会を否定せず、便利なものは受け入れる。
我慢せずに日常を過ごせる範囲で実行するエコ、それがロハス。
本来日本家屋が持っている涼の性能、
無駄なく水を使えるお風呂という習慣、昔からの智慧などは、
前述したとおり日本の本来もっている文化がいかにロハス的か気が付かさせてくれます。

>>自然で気持ちよく、暮らす。江戸時代には、
それを実現するためのエッセンスが溢れているのです!

>>という記事を書いていた今日、杉浦日向子さんが亡くなりました。
こころからご冥福をお祈りいたします...。


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