ニューヨークの想い出

ニューヨーク生活20年間の想い出を書いていこうと思います。

128、シェイ・スタジアム

2008年04月18日 | Weblog
シェイ・スタジアムは大リーグニューヨーク・メッツの本拠地で、マンハッタンから6マイル(約10キロ)東にあります。
マンハッタンから車で行くにはミッドタウン・トンネルを潜ってI-495(ロングアイランド・エクスプレスウェイ)やクイーンズボロー・ブリッジを渡ってノーザン・ブルバードを走ります。

グランドセントラル駅始発のロングアイランド鉄道(LIRR)でも行けますが、地下鉄7番線で行くのが便利です。
7番線は42nd St(タイムズスクエア駅)からクイーンズ区のフラッシング駅まで走っていて、途中グランドセントラル駅を通過します。
マンハッタンから乗り換え無しで30分ほどでWillets Point-Shea Stadium駅に着きます。
(終点フラッシング駅の1つ手前)
試合がある日はメッツのユニフォームを着た人や、グローブを持つ人などを電車の中で見ることができます。
それぞれのスタイルでベースボールを楽しみます。
駅の北にシェイ・スタジアムがあり、南にはテニスの4大大会の1つUSオープンが行われるUSTAナショナル・テニスセンターがあります。
すぐ近くにラガーディア空港があり時々離着陸する旅客機の爆音が響きわたります。
これはナショナル・テニスセンターでも同じです。

ニューヨークには以前ドジャースやジャイアンツも本拠を置いていましたが1957年カリフォルニアに移ってしまいました。
ニューヨークの球団がヤンキースだけになってしまい、1962年にナショナルリーグのチームとしてメッツが新設され、ユニフォームにはドジャース、ジャイアンツのチームカラー、ブルーとオレンジを採り入れました。

1962年の発足1年目はメジャー最低の40勝120敗を喫します。
その後も成績は芳しくなく4年連続で100敗以上を喫し、最下位が続いてお荷物球団といわれていました。
この弱さが反って憎めない愛すべきチームとしてファンが増え、常勝球団ヤンキースと人気を二分するようになります。
そんなメッツに奇跡が起こります。
1969年には初めてリーグ優勝し、ワールドシリーズでも「ボルチモア・オリオールズ有利」の予想を覆し、4勝1敗でワールドチャンピオンに輝き「ミラクル・メッツ」と呼ばれました。
ブロードウエイでは盛大な優勝パレードが行われ、当日の天気予報はニューヨークの天気を「晴れ、ところにより紙吹雪」と粋に祝福しました。
私はこのときの優勝は日本で新聞で知りましたが、ニューヨークでは相当盛り上がったようです。
アメリカ人の友人は「ミラクル・メッツ」の優勝とパレードのことをいつも興奮しながら話していました。

その後再び低迷が続きますが1986年2度目のミラクルが起こります。
この年はエースのドワイト・グッデン、主砲のダリル・ストロベリーなど若い世代の選手が活躍しました。
ワールドシリーズでは、ボストン・レッドソックスに2勝3敗と王手をかけられてシェイ・スタジアムに戻ってきました。
第6戦も敗北まで「あと1球」と追い込まれながらも逆転優勝し「ミラクル・メッツ」、「アメージング・メッツ」と呼ばれ17年ぶり2回目のワールド・チャンピョンになりました。
この試合は歴史に残る熱戦となり後々までの語り草になりました。
3対3のまま延長戦となり、レッドソックスは10回表に2点をリードします。
この時点で敗北を覚悟し、10回裏のメッツの攻撃が始まる前に多くのメッツファンはスタジアムを後にしました。
レッドソックスは2アウトを取り、68年ぶりのワールドチャンピオンまであとアウト1つと迫りました。
しかしメッツは粘りを見せ、2アウト2ストライクからゲーリー・カーターがレフト前にヒットを放ち、代打ケビン・ミッチェルも2ストライクと追い込まれながらセンター前にヒットを放って続きます。
さらにレイ・ナイトも2ストライクに追い込まれながらセンター前にタイムリーヒットを放ち、1点差に詰め寄ります。
次打者ムーキー・ウィルソンも追い込まれながらファウルで粘り、7球目がワイルドピッチとなってミッチェルが還り5-5の同点に追いつきます。
ウィルソンは10球目をファーストへの高いバウンドのゴロを打ちます。
この打球が沈むように微妙にバウンドが変わって一塁手が痛恨のトンネル、打球がファウルグラウンドを転々と転がる間に二塁からナイトがホームに還り、メッツが劇的なサヨナラ勝ちを収めます。
ナイトはホームインと同時にベンチを飛び出したメッツナインにもみくちゃにされました。
メッツは第7戦も勝って2度目のワールド・チャンピョンになりました。

9部9厘手中にしたワールド・チャンピョンを逃したレッドソックスは「バンビーノの呪い」にかけられていると言われ、痛恨の出来事でした。
レッドソックスが「バンビーノの呪い」から開放され、ワールド・チャンピョンになるのはそれから18年後の2004年です。
2007年にも松坂大輔、岡島秀樹選手等の活躍でワールド・チャンピョンに輝いたのは記憶に新しいところです。

この「さよなら勝ち」のシーンははっきり覚えています。
職場のワールド・トレード・センターにはいつも車で通っていましたが、この日はたまたま地下鉄の7ラインで行きました。
仕事が終わって帰る途中、地下鉄の窓からシェイ・スタジアムのライトが輝いているのが見えたので試合をしているのが分かりました。
終点のフラッシングで降りてバスを待っているとき、バス停前の店のラジオが試合の実況放送をしていました。
対戦成績2章3敗で第六戦も2点リードされた10回2死でランナー無しで「メッツは負けた」と思いました。
そこからの逆転は上述した通りで、興奮した状態でバスに乗ったのを覚えています。
(私の家はフラッシングから東北へ5キロくらい行ったところでした。)

その後再び低迷が続いていましたが、2000年には、14年ぶりにリーグを制し、
ワールドシリーズでヤンキースと「サブウエイシリーズ」を戦いましたが1勝4敗で3度目の軌跡は起こりませんでした。
これはワールドシリーズで行われた唯一の「サブウエイシリーズ」です。
21、サブウエイシリーズ」を参照
ちなみにメッツとはメトロポリタンズ(都会っ子)を縮めた言い方です。