My violin & My life/ Life is a Bumpy road

スタートラインはいつもそこにある!
Life is Impermanent.

お見舞いに

2006年08月08日 | 或る日或るとき
義母の入院している病院に着く。

娘の仕度が長引いたのと、私も調子が出なくて、バンバンせかすこともできず、家を出るのが遅れた。高速を使い、1時間30分くらいかかり3時15分。3時30分には面会時間終了と聞いているからあせった。娘は車酔いをしてぐったり。駐車場から玄関までどんどん歩いて行く私。「ママ、もっとゆっくり歩いて~。」との娘の懇願をよそに「時間ないのっ!」」私自身の体調がいいんだか悪いんだか、不思議。

幸い、今日から義母はICUから普通の病室に移されたらしく、看護師さんが案内してくれたのは4人部屋だった。ということは、面会の時間制限がゆるくなり助かった。

「あちらの窓側にいらっしゃいますよ。」

どこ?

名前のプレートを見て確認するまでわからなかった。
つい3週間前にであった義母とは雰囲気が違っていたせいだ。いつもまとめ髪で、小ぶりのヘアピースをつけて、センスのいい身なりで、手製のペンダントをしていた義母が、髪をほどいて、寝巻き姿で、鼻に流動食の管を通されて、左向きに横たわっていたのだから。右手がベッドの手すりにつながれている。
「おかあさま」と声をかけると
私達が来たことはわかってくれた。

看護士さんに私達の関係を訊かれた。「息子の嫁です。」というと、「ご家族の方にサインして頂きたいのです」と、同意書を見せられた。

それは、右の手をを拘束しても良いという、家族の了解をもとめるためのもの、のようだった。
鼻に通した管から、1日3回、7時半、11時半、5時半に、栄養を流す。傍に、点滴と同じようなバッグ釣り下がっていた。そのたびには管を取り外さずに、ずっとつけたままだという。左半身不随なので、義母は自由な方の右手で、無意識にその管をはずしてしまったそうである。栄養を流している時にそういう事があると、気管に入ったりして、窒息の恐れがあるため「やむをえず」(らしい)右手をベッドにつないで、顔に手をやれないようにしたそうだが・・・。家族のものが傍に要るときは注意していれば繋いだ紐を解いても良いそうである。
義兄は今日まだ、そのことを知らないらしい。
私がサインするよりはと思い、しばらくすると来るはずの義兄にお願いすることにしたが。
「では傍にいらっしゃれるなら、はずしましょう。」と、看護師さんは義母の右手を自由にしてくれた。

「いやだったでしょう。」と私は、ベッド脇にしゃがんで、目線を同じにして義母の右手をなでた。私は実の娘ではないし、生活を共にしているわけでもないから、いささか少し、遠慮があったが。
でも、そうしているうちに、義母は鼻に手をやってしまった。
「あ、すみません!はずさないで。」私は慌て制御した。こんどはちょっとその手を押えてしまった。
義母はかすれた声でこう言った。
「病気は・・・いやだね。・・・。」
「・・・そうですね。」
「なんにも・・・できない。」
「・・・・。」

今まで義母は、とてつもなく多い仕事をきっぱりとこなし、寸暇を惜しんで趣味を楽しんできた。ずっと現役選手だった。「老い」など微塵も感じられない、瑞々しい感覚を持っていた。美人で優秀で、いつも笑顔で、そして頼りがいがあった。その人はいま、苦痛と戦っている。
・・・・・義母の気持ちがわかる。胸が痛んだ。

こんなことを、不特定多数の方々に公開してよいのか迷ったが、私は今日の事を忘れないでおきたく、書いておきたかった。じっと真摯に、誠実に生きてきた義母が、病に倒れてなお、気持ちは常に現役なのだ。置かれた状況に甘んじない。
どのような状態にあっても美しさを損なわない。
そのような人のことを、知らせたい思いもある・・・・。
私など、ダメ嫁だ。足元にも及ばない。


娘に後を任せて電話をかけに行き、夫と落ち合って病室に戻ると、看護師さんが来ていた。義母はリハビリ室に行くために車椅子に乗せられていた。
夫が、もう帰ると言うので、そこでお別れした。

玄関に行く途中、横浜の義兄とばったり。しばらく世話をしていてくれている様子。
私が挨拶をしていると、義兄は離れて向こうを向いている娘に気づき声をかけようとしたが、「じゃあ…」と手を振ってリハビリ室のほうへ歩いて行った。

娘が、泣いていたから。
・・・ショックだったのかな。


お元気になりますように。

その時

2006年08月08日 | 或る日或るとき
実は私が熱を出していたとき、
義姉から電話があったのだった。

重い声。直接夫に話があるらしく、すぐに取り次いだ。
その日の電話の内容は、義母が転んで、どこかを打ったらしく、救急車で病院へ運んだが、足が麻痺しているとのこと。また連絡する由。
・・・いやな予感。転んだ・・・?

私の熱はどんどん上がっていて、駆けつけたくとも無理があり、結局夫が一人で行くことにしたが、夫は仕事が詰まっており翌々日に・・・。

やはり予感は当たり、脳溢血だった。
転んだのはめまいがしたからでそれは直接の原因ではなかった。義母は、転んだひょうしに動けなくなったのだと思って、家人にそう言ったのだろう。

夫が見舞った時、義母はICUにいて、面会は家族だけ、それも、病室に入るのは、1回につき面会人は2人。手を洗って、マスクをしてから。
面会時間は3時から30分、7時から30分の1日2回だけ。
もう三鷹の義兄が駆けつけていていた。意識はあるが、あいている目は動かなく宙を見ている感じで、痛ましい状態だったそうだ。。
8月2日から3日が峠で、それを過ぎると、症状が安定する、でなければ…緊急の事態になるということだった。症状が安定したとしても。元通りに回復することは望めないという。

夫は、連絡を待つしかないと言った。風邪をひいている私が行かなくて、かえって正解だった…とも。
その時はどうなるのか、あまり良い想像は出来なかったが、安定期を待つしかなかった。同居の義兄からはその後連絡がなかった。連絡がないのは良いこと、と解釈することにして、あまり余計な電話は控えようという事にした。傍にいるものは忙しいのだから。

私は、熱も下がらず、なかなか体調が戻らず、寝ていても寝苦しく、なにもできず、体温計ばかり気にして眠れぬ時間を過ごしていたが、同時期に義母が生死の境をさまよっているのだと思うと、いつかは熱が下がり、元の生活に戻れる希望のある自分が何もしてあげられない状況。ボーっとした頭で申しわけないなと思った。心配が募る。


6日。夫はようやく義弟の方に電話をかけた。峠は越せたらしい。が、予断は許せないとのこと。それでも一応ほっとした。
7日は、夫私も仕事だったから今日、8日の夫の休みを利用して義母を見舞うことにした。
・・・。夫に仕事が入る。別々に行き、3時の面会時間に合流することに。
車の運転。正直まだつらい。昨日のの仕事には、運転して行ったのだが腰と首が痛かった。
娘を連れて、高速道路を使い、義母の病院へ。



弾きたいけれど。

2006年08月07日 | 或る日或るとき
38度なんていう地方もあった昨今。…台風も近づく。
それでも体温は保たれるのが、われら恒温動物…。ハァ…。それらの地方の方には申しわけないが、日頃寒々しいこの地では気温30度を超えるのはとてもつらいのだ。

仕事が早く終わって帰宅。(もはや、普通の生活は始まった・・・)
ふときがつけば、汚れた玄関、靴が一杯、なお暑い。

すっきり、清潔、夏のポイント。。(それはいつもでしょ!って言わないでね~わかってる

見ると、我が家の小さな玄関の、壁が薄汚れていて見苦しい。マンション備え付けの白い靴箱も何故か泥はね(?)などで汚れている。
(下駄箱、と、言いたくなる古い人間です。今風のしゃれた言い方もあるの?箪笥に当たるのが、クローゼットだっていう事くらいはわかるが…。)

玄関掃除開始。
日頃から端のめくれがなおらないマットの青色が暑苦しいので、これを機会に捨てた。
マットの下の細かい黒い砂みたいなものを吸い取り。靴もしまって拭き掃除。時に壁の下のほうは念入りにこすって、なんとか白さを取り返した感じ。

スッキリ。

そう、たまに熱を出したくらいで、そのことをアピールしても始まらないから、快適生活を自ら作らねば。。これはリハビリと思おう!動けるって幸せ~

夕食後。
痛い。右脇腹の筋肉が痛い。息が出来ない。しゃがんで玄関の床と壁の境目を熱心にこするという動作が原因だった。そこだけ、特に筋肉を使っていたらしい。いかに体がなまっているかと言う証拠だが。手首も痛い。情けない。ううう、と声がでるほど。ほんとに痛い。
バイオリン・・・・・弾くの無理。

ナサケナイ。
なのに
今回、葉月さんは我慢強くて丈夫な人、という烙印を、お医者様に押されてしまった。そんな~・・・・何故?このエピソードは絶対書くわっ。

ここはどこ

2006年08月06日 | 或る日或るとき
連日30度。
ここ、北海道のはず・・・なんだけれど。暑い~~。
クーラー嫌いですが、つけてもなかなか冷えないわ。
マンションの3階、熱がこもるのか。
その前は9階建ての2階。河の傍でしたからふきぬける風は涼しかった。。

京都で暮らした時のことが甦る。その時は、4階建ての4階でしたので、もっとひどかったけれど。天井が直接暖まって夜にすごく熱気が来たようです。
そういえば、熱帯夜がフツウでしたけどね。
生まれたばかりの長男の汗が、拭いても拭いても玉のように出ていた。
(そういえば、とっても可愛かったあの頃の長男。あ、関係ないけれど。)
もちろんクーラーは必需品でしたし。

ここに来てからそんなものを体験するとは。
やはり地球温暖化か。

でも、京都の暑さに比べればまだまだね。
あの頃、祇園さんが終わったら恐怖。でしたから。

熱は下がったのに気温が上がった。・・・。

ふつうのせいかつ

2006年08月03日 | 或る日或るとき
みなさまご心配をおかけいたしました。

熱も下がり、腹痛も治まり、今日から、やっと普通程度の?生活にもどれました。
でも寝てばかりいたので、だるいです。
バイオリンも持てません~。
家事はしますが。
洗濯は、娘に任せていました。部活を休んでしてくれました。
態度がちっとも優しくないのですけどネ。

おかげさまで一応回復です。
コメント欄へは、これから、ぼちぼちと、書こうと思います。