My violin & My life/ Life is a Bumpy road

スタートラインはいつもそこにある!
Life is Impermanent.

高田郁 作「あい」を読んでいます。

2022年05月15日 | 読む☆考える(^O^)/

「人が生きる上で本当に取り返しがつかないことは、実のところ、そう多くはないかもしれない。あいはふと、そんなことを思うのだった。」

冒頭の一節は、主人公あいが、夫のために着物を縫おうとしていたとき、裁断の仕方を間違えて男物に仕立てられないと気づいたとき、いやこれは、すこし光方が派手であったし、夫の母の着物にした方が喜んでくれるであろうと、考えを転換して嬉しい気持ちになる様子。。これはそのとき悩んでいたことをこの布の断ち間違いになぞらえて総括して、ポジティブになっていく聡明さの場面です。

洋裁や和裁をするとき、布にハサミを入れる瞬間の緊張。そんなときに悩み事など有ると、つい失敗もあるかと。今はもう自分で作ることはないのだけれど、今も和裁をする友人がいるので、彼女のことを思い浮かべたりも。

取り返しのつかないこと、、、、、無いわけではないけど、そう多くもない。φ(.. )

                 ****************

和裁の友人とは別の友人に借りている本、高田郁さんの「あい」を読んでいます。

時は1839年(天保10)主人公の少女「あい」5歳。ところは上総国山辺郡前の内村の木立の中で、家族を探し歩いている時に、偶然或る少年の姿を目撃します。その場面はそこで終わり、山桃の若木のそばで少年が醸し出していた深い哀しみの印象だけ記憶し、年月が経ちます。

結局のところ、縁あって、愛は後年その少年と結婚することになります。(盛大に端折ってますw)

昔々のお話という時代背景に、その社会通念や雰囲気が今の自分にはすこしなじめないかなと思い読み進めていますが、万延元年頃のあいの考え方まで読んでいくと、その心の強さとひたむきな生き方に引き込まれています。

あいの夫寛齋は、農家の生まれ。その後医者になり、あいと結婚します。。当時の感覚では、身分の低い家から医者を出すことの色々な大変さが記されていますが、彼の才はそれらを凌いでいました。そして結婚後も江戸に勉強に行きます。さて、14代将軍が家茂になったとき、長崎でコレラがはやり、ついに江戸にも広がりました。そのときの混乱の描写は、10年ほど前にみたドラマ「JIN」を思い出しました。(南方仁先生:大沢たかおさん♪なつかしい)

そんなこんなで、夫、推挙され今度はオランダ人から医学を学ぶため長崎に勉強に行くことになります。そ間子供と一緒にずっと夫とは別居!上総の家を守るあい。(う~。)そしてさらに、期間を終えてあいのもとにもどった夫に手紙。「もう5年長崎のオランダ人から学んで、日本の医学に貢献してほしい」的な内容。しかしそのとき別案件あり。「阿波徳島藩主、蜂須賀斉裕公の国詰め侍医に推挙された。」(斉裕さんて、徳川家斉さんのお子さんらしい)へえ、、、藩の、ご典医ということですか。

(もう!どこでもいいよ、一緒に連れて行ってほしいものですよね、、、ココロの声私。)

と。夫寛齋悩み中。というころまで読み進んでおりますが、、、

                    ***********

それまでにも艱難辛苦、そんな中、またしても決断が迫られる。こんな背景があって、,あいは注意力散漫になっていたのでしょう。人が生きていく上で、という一文に今日は心揺れて,記憶にとどめたく備忘の為に書きました。(*^_^*)

友人は、このあとの展開で確かめたい部分があるらしいので,今日急ぎ読んでしまう予定です(*^_^*)

 

 

 

 


 


神秘なるもの

2019年03月07日 | 読む☆考える(^O^)/
今自分が置かれている地点、環境は、様々な要因が寄り集まっている。その地点にたまたま私が存在している。
その地点は、ずっとそこにあるのではなく、
時々刻々過ぎると同時に変化改変を繰り返している。
私自身はその変化の最中に、実は、例えば撹拌される諸構成要素の一つであるのだと思う。

そう思うと、自分の置かれている状況、これまでの人生、これから体験する未来、それらを、なぜこうなったのだろう、と、
これは否定的に疑問を持つ場合の、なぜ?が多分大方だと思う。

理不尽に出逢う、不幸に遭遇する、失望を感じる、その時に「なぜこうなった?」と、検証したくなる。
これは反省につながる場合と、そうでないと場合とがあると思う。

肯定的疑問が起こる場合。これもある。
満足いく状態を思うとき、願っていた事が叶った時、失望から抜け出した時。
でも、この場合は、疑問としては投げかけられない事が多いだろう。
そこに、嬉しいという感覚がある。嬉しい、は一過性である。しばらくしたら忘れてしまう。なかなか長く続かない。

けれど、その嬉しさに導いてくれた様々な要因を考えていくと、嬉しさは長続きする。
わかり良い言葉を探すと、感謝のきもちが嬉しさの持続につながるということ。
すると何度でもその嬉しさを思い出すことができる。
そして、肯定的疑問にいたる。
何故こういう嬉しい結果が出たのかを考える。
と、色々考えても、いくつか思い当たることしか浮かばず、
何かに導かれていたのかもしれないと言う結論にいたる。そこに、目に見えない計り知れない要因が想像できる。
それは、たまたま、「神秘」という言葉に繋げていく事も出来る。
「神秘」は否定的感覚からは生まれず、さりとて現象をあからさまに分解することを、半ば拒んでできた表現かもしれない。
調べたわけではないけれど。

神秘と言う言葉を使わずに考えた場合、あるいは無味乾燥に思え、希望とかロマンと言った感情を追いやって、そんなのはツマラナイと感じるならば、

それは、不可思議、
こう言い換えることかできる。

私たちの考えの遠く及ばない世界。

そう、私たちは、ほんとうは謎が好き。
全ては謎解きの途中です。
不思議の世界に生きている。

王様のくびかざり

2017年12月03日 | 読む☆考える(^O^)/
図書館の読み聞かせボランティア。
10月は、いわむらかずお作の
ねずみのいもほり
を読みました。図書館の大型絵本を使いました。
子供達が、「これだいすきな絵本だあ!」と言ったので嬉しかった。大型なので迫力あって楽しい絵本でした。

11月は、
今度は趣きを替えて、「王様のくびかざり」(那須田稔 作 田中清代 絵)を
読みました。
実はもう一つ、朝から近所でお寺に集まる子供の集いがあり、これに参加していて、その合間を30分抜けて読んできたのでした。読んだらすぐ戻りました。


那須田稔のものがたり絵本。
図書館にある絵本ですが、今この本は絶版のようです。素敵な絵本なんだけどなあ。ヤフオクには出品されていました。

ふとしたことから鈴のついた綺麗なくびかざりを見つけた鹿のリンリン。それを自ら王様のくびかざりとしてツノにつけましたが、猟犬に追われてしまいます。仲間を守るために危険をおかし、自分を犠牲にしようとして走り抜けるシカの王様ですが、
なかなかスリリングなお話の運びになっています。
写実的な挿し絵が、また良い。鹿のような動物に感じる、ある種の孤高さがあります。リンリンの、颯爽とした立ち姿の美しさ。

短いお話の中に、
若い鹿、若者ならではの躍動的な美しさと、若さの奢り、そして厳しい現実と自身の反省とが織り込まれていて、
ちょっとドキドキします。
最後は、主人公のリンリンがピンチに追い込まれた時に自分の事よりも、仲間の安全を考えてエネルギーを使いきろうとし、見事によい方向に展開するというハッピーエンドになります。
あーよかった!という終わり方です。

子供さん達もよく集中して聴いてくれました。

どんな事を思ったでしょうね。


因みに、「ねずみのいもほり」はこれでした。↓






京阪稲荷&はしだのりひこさん

2017年12月02日 | 読む☆考える(^O^)/
大学時代は京都の伏見稲荷のすぐ近くに住んでいました。
京阪稲荷の踏み切りをわたったか、その前あたりに、はしだのりひこさんのご実家があり、いつもその前を通っていました。
随分昔のことだから、地図で確かめないと地理的配置は曖昧で、場面としての記憶しかありません。
近くに、タカラブネというケーキ屋さんがあり、そこでロンロンソフトっていうソフトクリームをよく買いました。
前にも書いたかもしれない。

端田と確か看板があった、雑貨屋さんのようなお土産屋さんのような佇まいの商店でした。今色々と記事を見たら、化粧品店だったそうですね。
お買い物はあまりしませんでしたが。

はしださんの訃報を知り、あの橋の近くのお店の風景が思い出されました。はしださんのご自宅は友人の家の近くだったと、つい先日昔話の折に聞いたばかりでした。
寂しいような、懐かしいような。

かぎりある命の儚さと、想い出として記憶に刻まれることの連続性とが、一瞬一瞬、また明日に向けての止まることのない時間の流れにスッと滑り込んでいきます。

ずっと忘れていましたが、
「花嫁」は、”はしだのりひことクライマックス''の曲だったのでしたね。
素敵な曲でした。
いい歌をたくさんありがとうございました。だからかな、学生時代が良い想い出ばかりにおもえてきました。
ほんとは良い事ばかりじゃなかったような気もするけれどね。色んな事が忘却の彼方になっていますから、もういいや。良い事だけ思い出せばよいです。

https://youtu.be/m_CFnreaOes
貼り付け方を忘れてしまいましたが、花嫁、紅白に出たんですね。↑


あら、この歌まだ大学に入る何年も前の曲だったんですね。高校にさえ入ってない。
そうだったのか。子供のとき実家で聴いていたのかー。(*⁰▿⁰*)
大学時代聴いたのかとすっかり錯覚していました。だんだん思い出しました。

遠い遠い昔に出会えたいい歌でした。



ポーラー・ボルテックスか。

2016年02月01日 | 読む☆考える(^O^)/
連日の寒さ。ぶるっ。
この冬は、通常雪の降らないところが大雪になったり、先週から大混乱でしたね。
当地は、全国ニュースになるほどの厳寒大雪地帯の一部ではありますか、なぜか
今は穏やかスポットになっています。
でも広範囲の移動はやはり厳しい。隣町でも気象条件が全く違います。

零下何度になったとかなんとかでは、毎年のことですのでさして驚きもないのですが、、、身にはこたえています。寄る年波。

今年のこの世界規模の寒波は「ポーラー・ボルテックス(極渦(きょくうず)」の影響だと言われているそうですが。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160124-00000504-san-soci
北極の上空にできる巨大な気流の渦がその源?よくわからないけど。普段シベリアや中国上空で止まっているのが、今季は日本にまで寒気が流れ込んでいる、そのせいだが、
流れてきた原因はわかっていないらしい。

原因はさておき、とにかく寒い!それのみ。( ̄▽ ̄)
血圧上昇の誘引でもあるのね。


新しいことをする☆ 朗読。

2016年01月10日 | 読む☆考える(^O^)/
新年を迎えて、第一弾の新メニューというか、来月初挑戦することがあります。

朗読ボランティア。
初のコンサート主催が終わり、気が抜けたら嫌だなと思いましたので、その数日後に、決めました。で、図書館に行き、登録。半ば発作的にですけど。(笑)
それよりバイオリンの練習どうなってる?の次元ですよね。うーむ。あのその、、、先の見えない私の曲、気持ちが煮詰まっているので、常に気分を変えていたいのですよ。
(仕事のほうも、幾つか新しい試みをしていますが、どんなに頑張っても成果は先の方にあるし、粛々と事務的な事がたまって、変化なく楽しくない。)

年に何回か行われる図書館の催しの朗読会に回り番で当たるらしいので、ずっと先かなと思い、すっかり忘れていました。
が、程なくして年末に電話が。あら。
2月の朗読会に出でくださいとのことでした。戸惑いましたわ。でも即受けました。

年明けてから図書館に行く約束だったので一昨日電話連絡しましたら、読む本を持参して来てください、と。

図書館に行くと、別室が用意されていて、そこで読みました。
エレベーターまで行く途中、歩きながら
「今までに朗読の経験はありますか?」と、聞かれ
「ありません。」

読む本を実はその日行く直前に決め、
付け焼き刃でしたが、3作選んでいき私はそれぞれのまことしやかな選択の理由を述べて(出たとこ勝負の習性なの。)担当の方と話し合い、その方に選んでいただきました。

随分早いペースで読んでしまい、10分の持ち時間のところ、5分で終わってしまいました。あららー^^;

一部分を担当の方が読んでみてくださり、なるほど!と思いました。
その方のアドバイスは、
段落以外でも、文の終わりに「ため」を充分に取る。スピードを変える。話すときは、2メートル向こうのひとに話す感じで、声は張り上げなくても、届くような気持ちで。複式呼吸でやると良い。など。

「本番の前に一回練習しますか?」と聞かれたので、
私はなぜか演奏会当日のゲネプロを連想し、早めにいくのかな?と思ったら、違いました。^^;
別の日に時間を取るそうな。

担当者曰く「2月の朗読会があなたのデビューということになります。」

え。デビュー?
ってなに、いきなりですか(笑)




目にみえないもの

2015年06月16日 | 読む☆考える(^O^)/
気をはっていたせいか先週からのタイトな日程を滞りなくこなせたので、昨日はぼんやり過ごし、録画の整理がてらTV視聴。

Eテレの、こころの時代、だったか(流し見して消したので忘れたけど)万葉集。
対談の学者先生の、
目にはみえないものを伝えようとするとき、うたができる。
というような話がありました。で、万葉集のあれこれに話が進んでいました。
目にはみえないもの。
思いとか、こころの襞ということでしょうか。

考えてみると、反対に、では目に見えるものとは何かしら、などと思いました。

いま目でみているものはなにか?
ということをです。
嬉しい悲しい怖いとかの感情ともべつに、見えている物とか、景色とか。

あそこが山だ、とか、ここにあるのはお茶碗だ、とか、
それらは光がそれに当たっているから見える存在で、しかも名前がついているんですね。
その名前と物が自分のなかでどう一致させているのでしょうね。

このように書いていると、認知行動の領域からの視点もでてきますが、広げるときりがなくなるので、割愛。^^;

やはり生まれてこのかた、自然にことばを習得する過程には、親や周りの大人から学んでいるという縁があって、その上で物事を理解してきた私がいるのだと実感します。

そこで話は目に見えないもののこと。共通概念のあることばはごく最小限で、ことばとことばの間にある伝達の妙なる空間が、目には見えない、なにやらとてもいとおしい。
なんとかしてそれを伝えたくなるのですね。

見えているように思えて見えていないもの。
そういうものだらけの生活の歩み。
そんな中で少しでも今の自分がどのような場所に立っているのか、わかりたい。

膨大な縁によって変幻自在に動く、寧ろ動かされてしまう「私」を、「連続した自分」と考える反面、それは点と点で出来ているようにも見えるのです。
だから、何か確固たるものをもたないあやふやな存在であることに不安を抱きつつも、であるなら、いついかなる時でも修正がきくんだ。と、私は解釈しています。うまくいけばね。
ということを考えるに至っています。

あーなんだか本当はもっとロマンのあることを書きたかったのかもしれない。理屈っぼいかも。^^;

そう、
尽きせぬ思いは、うたを詠んで伝えたい、できることなら。

むむ、あまりに無骨でうたにならないな。

本日はこれを書いている途中に、おもいきり練習して疲れました。
なんとかがんばりました。






あれっ。

2012年01月28日 | 読む☆考える(^O^)/
小説「プラチナデータ」(東圭吾圭吾)が映画がされるらしい。
ふむふむ、近頃巷では東野さんの小説への注目度がすごいなと思う。
私としては少し印象の薄い作品だったので、内容を全部忘却していた。
なので気になって、娘が前に読んで置いて行った単行本を、今日ちょっと読み返してみた。
少し読んで、だんだん思い出したわ。そうだった、犯罪捜査に使用する目的で国民のDNAのデータを収集してファイル化するという近未来小説的、な内容。
アマゾンのレビューを見てみたらその作品評はおおざっぱにいえば賛否二分されていた。
まあ私にはそれぞれの方々の感想には特に気持ちが動くことはなくて、自分では賛も否もないのだった。
しいていえば、過去に刊行された「パラレルワールドラブストーリー」「秘密」などの傾向の作品に感じたという方がいて、そうだなと思った。「変身」もそんな感じかな。そういうのが下敷きになって、またひとひねり加えられたのが「プラチナ~」かしら。
と思いつつなんとはなしに読み進めたのだけれど、前とは少し読み方が変わって、ちょっと他のいろんなことを考えながら読んでしまった。
自分の記憶と潜在意識と自分の記憶選別を。
登場人物にそれほど感情移入しないで、ストーリーにはあまり関係ないところで文字を追っている、そんな読み方も時にはあるなと思う。見方によってはつまらない読み方かもしれないけれど、
なんとなくそれで満足した。

読みながら思っていたこと…。
わたしはこれまでずっと、前だけ見て進んできて、過去を振り返らなかった。
何か嫌なことがあったり、ピンチが訪れたら、できるだけ早く気持ちを転換して
気分を変えてきた。なのできっといつも楽しそうな人のように見えたかも。まあそう見えたことも、事実本当のことで、私は楽しいと思える習慣が日に一秒でもなかったら生きられない。逆をいえばそれが一秒でもあれば一日を乗り切れる経済的な性格かも。

私が振り返らなかったその過去は、どうでもよいこともあれば、嬉しかったこともあるのだけれど、思い出したくないことも十分含まれている。だから、総合的に見ても、「昔は良かった」と思うことはない。なので良かったことまで封印したかもしれないなあ。
それほど後悔したりするようなこともないのだけれど、
ただ、無防備にものを考えていたころの私、を思い出したら、
あまりにも自由すぎてあまりにも青くて不憫なのだものね。
昔、なんてものを思い出したら、いもずる式に「あの無防備な私」まで再現されてくるような気がして、きっとそれに耐えることができないだけなんだけど。
それはとりもなおさず、実はその過去の自分をほんとうは好きだから、なんだと思う。
でもどんどん、見向きもしないで、置き去ってきた。
ところが置き去ったように見えて、ひょっとして今も過去の私はそばにあるのかもしれない。

あらぁ、ストーリーに関係ないことをどんどん考えてしまったわ。東野さんがBGMになってしまった。
意味不明なことを書いてしまったね。
すみまっせーん~(誰に・・・
非常に恥ずかしい気分。(笑)
もっとわかる文章目ざしてるのについ。まあいいかな、、、投稿ボタン押すわね。
あ、でも今日はレッスン日記を書くつもりが。やったこと忘れる!
これは思い出さなくっちゃならん重要事項だわ。

図書館移転

2012年01月24日 | 読む☆考える(^O^)/
市の図書館が移転し、貸出方法も方法もリニューアルしました。
以前の場所も好きだったのですが今度のところもなかなか良いです。
児童図書とおとなの本は別の階にありましたが今度はワンフロアです。
本は探しやすくなりました。
今までのシステムでは面倒だった色々も解消され、入館者が増えたようです。

残念ながらゆっくり時間が取れないので、急いで1冊借りるだけにしました。

目に留まったのが
安藤和津さんの「オムツをはいたママ」2004グラフ社
脳腫瘍になり寝たきりになった母親を自宅介護するなかで、
ご自身の親子関係を改めて問い直して行く、
その中では和津さんの出生の事情にも拘わる壮絶なお母さんの半生も描かれていました。
エッセイスト、コメンテーターなどの傍ら、文部科学省の審議員などを務め、俳優奥田英二さんの妻でもある安藤和津さんの人生は、凡人の私などからははるかにかけ離れた世界でもありますが、
ご自分と母親との間にある距離感、母に求めるもの、求めて得られなかったもの、葛藤、
そのすべての「思い」には共感してしまいました。筆者の泣くところも怒るところも。
理解と受容がどんなに大変かが伝わります。視点を変えるて今までの自分の考えを問い直す素直さが
安藤さんの良いところだなと感じました。
文章にスピード感あり、ささっと読み進めるエッセイでした。一読オススメデス。

ちょうど、最近私は自分の母とのかかわり方に、いったん終止符を打ったところでした。
それは自分の中ではちょっとした勇気と決断のいることで、
今もまだ完全に割り切れたわけではありませんが、徐々に
私自身で決めた方向に慣れようとしているところです。そして少しさびしい思いもあるのです。
母は高齢ですが、べつに寝たきりというわけではなく、普通の生活(に見える)をしています。
私は黒子になって、その生活をときどきサポートしています。
(やったことが目立ってはだめなんですよね。いつのまにか~というのが上手くいく…)

そんなとき出逢った一冊でした。


議論のルール

2011年10月28日 | 読む☆考える(^O^)/
人形作家の高山美香さんを検索した時に出遭ったブログで興味深い記事がありました。
http://mimibana.exblog.jp/9404197/

札幌在住のフリーライター佐藤優子さんの「耳にバナナが」という
ブログなのですが、伊丹十三さんの著作をブログタイトルにしていらしてすてき。
その佐藤さんがツイッタ―で知ったと言う、
フインランドの小学生が作った議論のルールが紹介されていました。。
これは立派だ。
これは基礎だ。
わぉ。わたしも今日から実践だー
そう思いました。(^O^)/
http://mimibana.exblog.jp/16061292/

わたしは普段は、話している人の言葉をさえぎってしまうし、だらだらしゃべる。
仕事のときの「傾聴」は、長らく修行をを積んだナと思っているのですが・・・まだまだですし。
「議論」となると、、、まるでだめです。上手になりたい。
そして少しでも、話し合ったことが意義あることだった、という結果をもたらしたい。
(あ、そもそも私にそんな場面があるかどうか?それはともかくとして^^;)

追記で、そのフインランドの小学生のルールを貼りつけよう。やはり、忘れないように。
(今は敢えて佐藤さんのブログから読んでいただきまして、あとでね。)



追記11.7
改めて貼り付けました。
考えてみると「ギロン」などする場が私にあるのかどうか分かりませんけどね。
でも、伝える、話し合う、の基本的技術としてとても重要ですね。
自分の殻に閉じこもらないで話せることが大事だなと、これを読んで思います。
議論とまで行かなくても「話し合ってるはずなのに不毛な時間」が、あったり。
「ギロン」と聞くと身構える私でしたが、
そのこと自体大げさなものではないのかもしれませんね。とくにアチラでは。
(^^)


●フィンランドの小学生が作った「議論のルール」

 1. 他人の発言をさえぎらない
 2. 話すときは、だらだらとしゃべらない
 3. 話すときに、怒ったり泣いたりしない
 4. わからないことがあったら、すぐに質問する
 5. 話を聞くときは、話している人の目を見る

 6. 話を聞くときは、他のことをしない
 7. 最後まで、きちんと話を聞く
 8. 議論が台無しになるようなことを言わない
 9. どのような意見であっても、間違いと決めつけない
 10. 議論が終わったら、議論の内容の話はしない

ソースは集英社インターナショナルの記事だそうですね。 http://www.shueisha-int.co.jp/

知るべきこと。考え続けるべきこと。

2011年09月06日 | 読む☆考える(^O^)/
原発に関する危機意識から、その件について勉強された方が既にたくさんおられると思います。
(私は遅いね。)
自分が無知である(あった、)ことを書いてなんになるのかと、
お読みななった方々にはそう思われたことかと。。
(それほど読まれてはいないので杞憂ですケド^^;)

そういう私でさえも先月には関連の書籍を買っていました。
原発のウソ (扶桑社新書) [新書]
小出 裕章 (著)
まだ読んではいませんでしたが。

でも、読む前の認識で、書いておきました。。
断片的な情報の中で考えることは直観的ですが、無視できないその時の感覚もあると思って。
(最近よく脊髄反射という言葉が用いられていますが、、、そういう意味あいの感覚、ではなく。)
読もうと思いきや偶然、その著者の講演をwebで見つけました。

小出裕章氏講演 1時間57分 8/27 核・原子力のない未来をめざす市民集会@台東http://vimeo.com/28354066
1時間半という結構長い時間ですが、勉強になりました。

この小出さんという方はいまとても有名な方のようで、名前だけは知っていましたので
なんとなく、ちょっと読んでみようかなと、本は購入してありました。
そのあと著書を読みましたが、8月の講演はこの本が土台になっているかもしれません。
なので、聞いたことを復習する形になって助かりました。

小出氏著書「原発のウソ」では(昨日読み終えましたが)
今迄の私達の原発に対する認識がいかに間違いだらけであったかを、
大変誠実におしえてくれました。
その間違った認識は、
「未来のエネルギー」「クリーンなエネルギー」いう
PRによるものでした。
小出氏自身、かつて原子力に夢を持ち、研究に足を踏み入れたけれど、
学ぶうちにその危険性を知り、自身の考え方を180度変えたと書いています。
その危険を知った当時日本には原子力発電所は3基。そして今は54基。(その数最近まで知りませんでした。)
なんとかやめるべく努力されたそうですが、それを止めることができなかった責任を感じているそうです。
そして、危険を知らされなかった私にも未来への責任は問われている。
もう、知らなかったんだもん、では済まされないです。
著書の内容についてはもう私が紹介するまでもないと思いますが・・・・。

原子力発電はco2を出さないエネルギーだと思っていたら、違うのですね。
発電ができるようになる準備段階で既に、大量の化石燃料を使っている。
なので、「発電時には」の限定でco2を排出しない、だけのことらしい。


私がぼんやりと使用済み核燃料はどうなるの?埋めても安全なのかな?
と思っていたことも、その危険について説明されていましたので、
納得できました。

原子力の研究者の方々はたくさんいらっしゃる。
けれど、これから先、いかに専門的に安全性を強調して説得されても、
この本を読んでだあとには、私にはそれは詭弁にしか見えないでしょう。。

    *******

実は、8月末に本を購入する前に、7月1日付ダイヤモンド書籍オンラインで香山リカさんの記事
「小出裕章氏が反原発のヒーローとなったもう一つの理由 」を読んで、
いささか複雑な思いになっていました。
それに対して抗議の反響が殺到した模様で、後にお詫びの記事が掲載されました。
これまで香山さん自身には好感を持っていましたが、
今回はいささか筆が足りなかったようです。地道に活動している方々への配慮も。
香山さんがヒーローだとか、のめりこむ、だという言葉を使うのは、軽すぎたかと思います。
これであの人はもうダメとおもったわけではないので、感想にとどめますが。

    ******

いまの私には、訴えている人の言うことがが本当か否かの判断の基準は
まず、誠実であるかどうかから始まっています。猜疑心が強いかな。
その次には、そのうえで、すべてをその本人にゆだねることは無理と思わなければならない、と。
小出さんにしても河合さんにしても、その持ち場で必死にやっておられるのであり、
原発に関するこれからかかえる”全部”の問題はゆだねられないのだということを考えたら、
ヒーローなどという言葉はもうしわけなくて使えない。それは押しつけ。
私自身が何をどれだけ引き受けられるか、どちらに転んでも一般人としてこれは重い責任です。

最後に、まだあまり学習してない時に見つけた言葉を。


”ノーベル賞受賞者の野依良治氏が人類に警告しています。
『原子力の火は、付けたいときには付けられるようにはなったけれども、消したいときには消せるという点ではまったくこれ零です。出来ない。そうである以上、これは完成された技術でもないし、人間の頼るべき技術でもない。』 ”

ソースはどこか忘れてしまいました。でもこれが心に残っていましたので。

            ************

9月9日
上記の自分の書いたものを読み返すと、残念ながら、無防備に書いているなと思った。
情緒的にならないように気をつけていても、難しい。だから、
あなたの思いこみでしょう、と、かりに言われたとしたら、
そうではない、と説得する材料と言葉は少ない。
感覚的に同じ方向の人にしか私は話せないことになるなと思う。
それはどうなんだろう、、、
と、考えてみたが、これは啓蒙のための日記ではないし、
またひとたび誰かに読まれたからには、その時点での文章の不備に、
私の言い訳も補足もセットにしてもらうことはできないだろうし、
いいや、もうそんなことは気にしないでおこうと思う。

最後にあげた野依さんの言葉は、「人類に向けて」と紹介されていたものだが、
こうして掲載してみたら、これは直接科学者に向けて発言していると思えてくる。
私のような一般の人間は、この言葉をごく抽象的哲学的にとらえてしまう。
はじめ私ははダイレクトに、生き方の問題にまでつなげてしまった。
けれども、これは頗る具体的な言葉であり、それを一番感じ取れるのは
科学者(各分野は細分化されようと、少なくとも研究をする立場の)
でなくてはならないのだと思う。
感銘を呼ぶ言葉は、限定された対象にあててはいても普遍的な広がりを持つ。
懐が広くなっている。だから、心に残ったのだと思う。
またこれが本人の言葉であるかどうかの詳しい確認をしたかと言えば、ノーだ。
どちらにせよ、ノーベル賞受賞者、という冠を外したとしても、良い言葉だと思った。

あと、「誠実かどうかで」本当か否かを判断すると、いうことを書いたけれど、
誠実であれば間違いを言わないのか、という反論を考えてみた。(自分でツッコンダ。)
部分の間違いは確かに存在するだろうし、いや方向が間違っている場合だってありうる。
私の場合は、少なくとも発言の責任を引き受ける可能性をキャッチできれば「誠実」と個人認定するんだと思う。
と、ツッコンダ自分に答えた。(^^)




追記2 9月12日

国家公務員と電力会社と政府と他企業
その関係の現実は、、、、?

弁護士、科学者(原子力研究)、の方々の立場からの考え方を見たので、次には
行政の側面からの興味ある動画を。

古賀茂明氏記者会見 ~自由報道協会~ 2011/08/11
http://www.ustream.tv/recorded/16571712/highlight/193817
(追記がどこまでも長くなっていく…)
古賀さんの最後のほうのお話では、
発送電分離の実現が難しそうなのが悲しい。

そうよ、分離「する」っていう方針をまず先に決めて出してほしいのですよ。
これだけは、自分が原発の根本的危険に関する基礎的知識を得る(得たのか?ハイ。ある程度は、、、)
前から良案だと思っていたのだ。
でもこれは「バ菅の単なる思い付き」として消えてしまったみたいです。(悲)

官僚の側面からの古賀さんの解説が、わかりやすい。








少しづつ考えていたこと。

2011年09月02日 | 読む☆考える(^O^)/
今日はいつもと違うタイプの事柄で書きます。^^;


3・11の地震は、、、地震と津波の恐ろしさだけではなく、
原子力発電の恐ろしさを私たちに突きつけました。

事故があったから、こんなに注目された。
もしあの3月の事故がなかったらどうだったのか。
地震が来ていなかったらどうだったのか。
今回の事故防ぐ手立てを講じるのが間に合っていたら?
これほど注目されて原発の是非を問う動きが出てこなかった?
と一応仮定してみましたが、、、

以前から思っていたことは、
今回の事故が無くても、
絶対放射線が漏れないような発電所を作っても、
莫大な金額を投じて、発電所が老巧化する前に頻繁なメンテをしたしても、
研究者・作業員すべてが危険回避のマニュアルを 漏れなく実行したとしても、
何のウッカリもなく仕事してたとしても(すべて仮定したとして)

(1000歩譲って。)それらすべてがうまく運ぶ、、、と想像しても

あの六か所村というところに埋めてあるとかいう、
使用済み燃料をさらに「たくさん作っていく」
そのことに変わりはないのだ
ということ。

何ひとつ漏れない建物「原子力発電所」が出来て?危険でない建物「原子力発電所」が出来て?
頑張れば頑張ってくれるほど、
さらによりたくさんの使用済み燃料を生産することになるの?

そのことが納得いきませんでした。


無知な私の独り言ですが、
注意深く考えないと見逃すかもしれない何か、が怖いのだと思いました。
今迄よくわからないで過ごしていた私も遅まきながら、いろんな情報を得られる環境にあります。
さらに本質とかけ離れた情報も多いです。
そしてどの情報をとらえたらよいのか、しばらく迷っていました。

新聞はどうも胡散臭いしさらりと読むくらいで、さりとてweb上では
物理学に無知な人が異常に原発アレルギーになっている!とか、
原発をやめたら日本の経済がどうなるのか解かっているのか?とか、
代替エネルギーの用意が困難だ、とか、
専門家や、さらに一般人素人の方々が意見を述べているまたは相互に議論されているのを見ると、
なんだか意外と感情的。
または単なるディベート。ひどいのはお互いの揶揄のみとか政治批判のみ。
言いっぱなしで展望が見えてこなかったり、なかなか参考になりませんでした。
webでは探し方を間違えると、ぎょっとするようなよけいなモノまで見てしまい疲労が増します。^^;
私は何に注目すべきなんだろう?と思いました。


さて、今回の地震があるずっと前から
原子力発電所に対しての多くの訴訟が行われていたことを私は知りませんでした。
そういえば、そうちにの一つや二つニュースで見た記憶も?おぼろげです。

視点を弁護士さんの立場からの動きに移してみますと、
知るべきこと、何が現実なのか、少しわかりました。

以下はTwitterで紹介されていた記事です。
(昨日、漏電の検査をしてもらうため、業者さんを待つ間に見つけました)

元「法律新聞」編集長の弁護士観察日記より
「原発」に無力だった司法の状況http://kounomaki.blog84.fc2.com/blog-entry-229.html


こちらは上記の記事からたどった動画ですが
長いので、編み物しながら聴いてました。^^;
PC画面を凝視すると疲れてきましたので。ちらちら見つつ。
2011/8/9 脱原発弁護団全国連絡会シンポジウム 3 (動画)http://vimeo.com/27593319
河合さんという弁護士さんのお話などが興味深いです。
参考になりました。

ですが私はどの情報も、いいな、賛成だなと思う情報をも、
部分、だと思ってこれからもみていくことにします。


落日燃ゆ

2011年08月13日 | 読む☆考える(^O^)/
この時期だから読んだというわけではなく、たまたま
ゆっくり読んでいたら(しかも良くわからないところは字ずらをなぞるだけに、、、)

昭和20年8月10日、戦争終結が決まってからの展開と終戦後の2年ほどのところが、興味深かった。

新潮現代文学 56所収
「落日燃ゆ」城山三郎

主人公は広田弘毅。
学行優秀な石屋のせがれである彼が家業を継ぐことを、教師が惜しんで父親を説得。進学。
のち東大を経て彼は国家外交に目覚め、外交官となる。
という始まりから、やがて外務大臣、総理大臣も務め、
終戦後、民間人としてただ一人A級戦犯として絞首刑になるまでを描く。
実在の人物の名が列挙されて、いいのかしら?と思うほど。
(のちに、広田のライバルとされていた人物について、やはり残された家族からの訴訟もあった模様。)
ノンフィクションなのかそうでないのかよくわかりませんが、
歴史小説、の部類なのでしょうか。

実に淡々とした描写で展開される国家の動き。
登場人物の行動をつぶさに調べてなお且つ小説。
外交官広田が、平和外交に向けて真氏真摯に尽力するが
そのたびに軍部の独自の行動とかみ合わなく、失敗に終わることが多々。
現代のような情報収集ができない時代。
戦争の勃発前からその後の期間、総理大臣がくるくると変わる。「中継ぎ内閣」の連続。

広田が死刑になったのはなぜか。
という疑問を持ちながら読み進みましたが、裁判の紆余曲折を省くと、
結局、政治の主要メンバーでありながらの「不作為の罪」
に問われたということのようです。

この裁判が不当なものか否かということに関して
小説では
広田が徹底して自己弁解しなかった心中を察して、
(アメリカ人弁護士スミスの正義に燃える弁護も広田自身が退けた。)
軍人ではない広田が時流に飲み込まれてしまったた経緯がつぶさに書かれてあります。

私には、当時の権力の二重構造が外交の失敗を呼んだ、、、くらいのことしか
想像ができませんでした。
ただ、アメリカをはじめとする欧米諸国にとって、
「軍の決定はすなわち政府の決定」「政府の意図を軍が遂行する」
これが基本常識としてゆるがせない点であり、
よって
「日本の政府と軍部との権力の分散が理解できなく、
民間人出身の広田が平和外交をしようとしていたことは認められることがなかった。」
という作者の考え(私が勝手に解釈したんだけど間違ってたらごめん。)
に、頷くものがありました。

城山三郎が、広田を悲劇の政治家として世に訴えたことについて、
(またはその意図がなかったかもしれないが世間的にはそう受け取られたようです。)
大変注目されたようですが、後に、
いやそれは書きすぎ、という意見も出てきて、
「広田はそれほどの人物ではなかった」という、城山の視点を洗い直す著書も出てきました。

私としては、その本も一読すべきかなとは思いますが。
広田像がどうであれ、
目の前にある仕事を、どのようにとらえて為すべきかを
私は深く考えさせられました。
先人の行いは、後世になるほど、解釈の違いが出て当然。
是も非もそれぞれををどうとらえて今に生かすか、
ちょっと頭が痛くなりますが、
自分自身の問題として考えて行こうと思いました。


                 *********

話は変わりますが、昨日は「日航ジャンボ機墜落事故」から26年、の日でした。
今年も追悼の御巣鷹山登山がおこなわれた模様。
御遺族の方々の、今も癒えないであろう悲しみを思うと、また心が痛みます。。
そして、この度の大震災で被災された方々もまた、
深い悲しみを抱えて前に進んで行かねばならないことを考えると、
平穏な日々というのは何か?を問う、、、、複雑な気持ちでいます。


猛暑読書

2011年08月12日 | 読む☆考える(^O^)/
暑い…

暑いですね。
今日は久々にスッキリした朝が迎えられました。
湿度が低くなったようです。
でも部屋の中ではキャミソールで過ごせています。
(もちろん出かけるときにはたくましい腕をさらせないので上に羽織ります!!)

発表会が終わり、
晴天続きなのでお洗濯がしやすいのはいいけど、
暑さが増し発表会からの疲れがを引きずっています。

さて、発表会に向けた練習やら日常の何やらかにやらの合間に
何冊か読んだ本があります。
感じることあり、乾燥でも、と、思いつつ
なかなか書けませんでした。

今日読了したのは
「血と貝殻」 河野妙子
(新潮現代文学全80巻の内の60卷目に収録されているもの
短編がほかに4つほど。)
これは、知人が、「もういらなくなったから、貰ってほしい」
ということで、お言葉に甘えて頂戴したもの。80巻、、、読めるのか?
昭和の文学全集なので、内容は古い。
ぼちぼち読んで行こうと思ったのですが、、、
野上 弥生子の「秀吉と利休 」から読んでみて、(これはなかなか良かった。)
56卷城山三郎「落日も湯」昨日読了。難しかった。感想はまたあとで書くかもしれません
全集の番号順にではなく読み進めました。

が、、、「血と貝殻」はどうも自分には合わなかったです。
主人公の女性が「写譜屋」という職業で、
だから最初は興味深く読み進んで行ったのですが。(今はそんな職業があるのかしら。)
仕事の描写はそれほど中心的ではなくて、
何か気難しい主人公の妄想めいた独白が延々と続き、
結末は主人公の書いたその独白の文(小説全体です)を、最後には
主人公が通りすがりに目にした焼却場に持って行きたい衝動にかられ
(その欲求の描写も長い~)
結局自身が「これは果たして誰が読むのだろう」
と漠然とした思いで終結。

物語の手法は何か村上春樹を読んだ時の感覚と少し似てはいますが、
彼のほうがまだ、とりとめないことを延々と描写してはいても
結末への「複線」を感じさせる親切なところがある。(笑)
こちらの方は主人公がすごく独断的なので、私の共感なりが入り込む余地がなかったな。

独断的云々は、ある意味「女性の感覚的部分」として自分自身にも認めざるを得ないから
批判はできない。
まあ、男女ともにその独断にしかなりえないギリギリの線での切り口で小説が成り立つ、
とも思うのだけれど。

・・・。
難解な雰囲気の文体。でしたが。
久しぶりに、何が書いてあるのかさっぱり~な本に出遭ったのでした。
(私の読解力の無さ?、、、??それでいいけどね。)
とにかく「こういう性格の主人公のような人とは付き合えん。」
感想は、それくらいかな。ああ、おどろいた。
(あ、つまりインパクトはあった、ということでしょうか。罠にはまった?(笑))
他にも作品が収録されてますがもうこの1作でギブアップです。

昭和の、いわゆる、「女流文学者」という方たちはしばしばこういう雰囲気。
(歴史物を描く方はまた別ですが。)
私は若かりし頃、高橋たか子という作家のものをたくさん読んでいた時期がありました。
この方も、、、とても描写がシュールで、怖い雰囲気の女性を描くんですが、、、
当時は怖いもの見たさか、ひきこまれてしまいました。いまはもう読む気はない。
という、それとも違った雰囲気でした。
文中なにかと「教養」に満ち溢れてる感じが、、、いやかな。
表面的教養に感じてしまい。。あなたにわかる?って言う感じに、、、。(わたしのひがみ?かもね。)
その意味では小林秀雄が嫌い。(独断で言い切る。(笑))

ところで
発表会前に読んだのは東野圭吾「麒麟の翼」と、「真夏の方程式」
面白かった。(結末に触れそうなので感想は略します。)

その前に読んだのは藤谷 治 「船に乗れ」-合奏と協奏-
感動。バイオリンのお仲間にはとくにお勧めです。
高校のオケ部のおはなし。胸がきゅん。続編も読みたい。

暑いときには読書がはかどるかも。なにもしたくないから。
とりとめなく書きました。
本日は久久練習もしました。