My violin & My life/ Life is a Bumpy road

スタートラインはいつもそこにある!
Life is Impermanent.

カバレフスキー・コンチェルト Kabalevsky_violin concerto in C, Op. 48,

2014年03月26日 | 崖っぷち★レッスン日記
レッスンでした。

体の調子が今ひとつなので、本日は曲のみです。

やはり後半の半音続きが、いけません。

なんとか頑張って譜読みしたつもりでしたが、つもり、で終わっていたらしい。
(;_;)
ダメ出しの連続。
師匠の指摘の部分は、自分でも気を付けていた箇所だっただけに残念無念。
鍵盤で音チェックしていても、実際に演奏するとカチッと決まらない。果ては違う音にまでなる。
その理由を教えていただきました。

正確な音を聴いても、指の位置を把握していない。
つまり指の、付く、離れるをハッキリ認識していない。

一つの音を弾くのに、一つの指しか使っていない。
つまり、常に残す指を考えて弾くことをしていない。

以上。これ、きほんのき、ですよね。(-。-;
日頃気を付けていたはずが、すっかり忘れて、指バタバタになっていたとは。
反省!

今のやり方だと、この曲は弾けないそうです。(ー ー;)
古典なら、聴き覚えのあるパターンのメロディで比較的耳で探りやすい面もあるが、これは耳だけに頼っても弾けない。

ということなのでした。
もっと注意深く譜読みしてみます。



反戦と兵器と父の学生時代 2

2014年03月22日 | 或る日或るとき
父達学生は、魚雷のバッテリーの一部分、金属の網に何かの粉(聞いたけど忘れた)をまぶしたものを、機械でプレスする作業を延々としていたそうな。
その工場は、京都の九条にあり、そこで出来たバッテリーの半製品は、尼崎に送られてそこで完成品となり、魚雷に組み込まれるということらしかった。
終戦直前の話。

その魚雷というのは、、、
「人間魚雷なんだ。」
「え?なんで、人間?人間て、、」
「今のように、魚雷にレーダーとかセンサーとか、つけられないから。」
「人間が操作する?」
「そう。ちょうど、冬季オリンピックの競技のリュージュのように腹ばいになって乗るんだ。とにかく相手に命中しなければ意味がないからね。」
「そ、それって、乗った人って!」
「うん。玉砕ということ。」
「そ、そんな。いやだわそんなの。」
話を聞くうちにゾッとしてきた。

父達は、現在の車のバッテリーのヒダヒダの部分が厚さ1ミリ位だが、3ミリくらいの薄い薄いものを作るためにプレスする流れ作業を、黙々とやった。
薄いその部品はたくさん重ねると瞬間的に倍の電気が溜まり瞬発的に放電し後は充電できない。その必要もない。何故なら戻ってはこないから。銃弾と同じく。

「そういう物を作っているとわかっていて作業をしなければならなかったの?」
「君達の先輩が、それに乗るんだ、そしてその次には、君達も乗るんだよ、と。そう言われながら作っていたんだ。」
「き、君達の先輩?!(◎_◎;)君達も乗る?なにそれ!」
惨い。けれどしたがうしかなかったんでしょうね。
気の小さい父、嫌だなんて言えなかったろうに。真っ向からたちむかえることなど、出来るはずもなく、もとより
そんな時代でもなかったでしょうね。

電車の車輪くらいの大きなハンドルを回して、こうしてプレスした部品を次にまわして、流れ作業でどんどん作ったのだと、(身振りで説明)し

父はそのバッテリー部品をいかに薄くするかを詳しく語っていたが、
多分目の前の作業に熟練することに集中していたんではないかな。怒鳴られ急かされにしても、慣れで技術を習得したかも。だんだん要領よく出来たらそれなりの達成感もあるのが、単純作業。
設計図どうりに組み立てて、と、ある瞬間それが何のためのものかさえ忘れることもあったかもしれない。というより、そうでなければやっていられないのでは
ないかと思った。

父の関係した魚雷は、使用されることなく終わったそうだ。
「それが使われたという記録はどこにもないんだ。」

話している途中で父に電話が来たので、
それきりになった。

翌日も父に会ったが、話の続きなどはお互いしなかった。
成り行きでしか、そんな話しは出来ないものかも。
きっとこの季節にその工場にいたから思い出したのかな。そしてその後五ヶ月もしたら終戦だったのだろう。

いろいろ考えさせられる。



反戦と兵器と父の学生時代

2014年03月21日 | 或る日或るとき
父が何やら大昔の流行歌らしき鼻歌を歌っていたので、
「あ、それ、聞いたことがあるわね。お父さん、私が子供の頃によく歌ってたんじゃない?お風呂でよく歌ってたわ。」
と、何気なく反応した流れから、昔の話になった。


父曰く、
「この歌が流行った頃はね、戦争が終わって、世の中が落ち着いた頃で、昔を回顧する歌が流行り始めたんだ。ちょうどお前が生まれた頃から、明るい感じの歌が流行ってきた。
そして、やっと、あんな辛いこともあったね、こんなこともあったよね、と、話せるようになっていたんだ。話せると言う事は当時それだけ世の中が安定してきたからなんだよね。」

「つまり、ほんとに辛い時はその事を話せない、って事でしょ?」

「そう。」

現在の生活が安定してこそ辛い過去を振り返る事ができるということだろうか。それでも真に辛かったことはなかなか話せるものではないかもしれない。

「そういえば、私が中学・高校の時だったか、戦争中の事をお父さんに聞いたとき、あまり話さなかった気がする。茄子ばかり食べてた、とか言って笑っていたけど。」と、私が言うと、

「うん、あまり話したくなかったね。」

父はたしか大学の予科というところに入って、間もなく終戦となったことは聞いていた。

「お父さんも、軍事教練したんでしょ?」

「したよ。すぐ終戦になったから戦争には行かなかった。」

「よかったー!と思った?」

「思ったさ!ほんとに、助かった!と思ったね。」

ああそうだったのか。命拾いした当時のその瞬間が、生々しく感じられた。当事者の言葉は、本や資料よりも迫力がある。

それから何故か唐突に、工場でバッテリーの部品を作った話をし始めた。
学生を動員してのそれは、魚雷を作るためのものだった。

「結局俺達は、兵器を作らされていたわけ。いやだったな。」

初めて聞いた。

「人を殺すものだとわかって作っていたわけ?」

「そう。しかも、それは、行くだけの容量のバッテリー。帰ってくる事のない。」

(続く)

反戦と兵器と男の子

2014年03月21日 | 或る日或るとき
息子が、まだ中学生だったころ、彼はプラモデルに夢中だった。
作るものといえば戦車や航空母艦。
戦車は完成してからの一工程が欠かせなかった。
それは、戦車の表面に小麦粉を振りかけて擦ったりして、埃にまみれた雰囲気を表現する作業だった。

私から見れば、折角光沢のある完成品を、「わざわざ汚くしている」ようにしか見えなかったのだけど
でも、汚しをかけて晴れて完成品。リアル感ということね。
オマケのごとく、おじさん顔の兵士のフィギュアも配置。でもこれ、そこかしこに落ちて散らばる。私は兵士のフィギュアを足で踏んでしまい、イタタタッ!

航空母艦にはこれまた小さな戦闘機。
ハエか何かに見えてしょうがないそれも、知らないうちに床に落ちていて、それも踏んで、イタタタッ!
あーもういやっ!
という日々がしばらくあった。

「これ、戦争の道具だけど、こういうの作るって、なんだかいやだわね。」
ある日私はそう言った。すると息子、
「お母さん、心配?僕が戦争好きだったらどうしよう?って思ってるよね?」
「うん、まあね。」
「戦争が好きっていうわけじゃないよ。戦車とか戦闘機がすきなだけ。」
「えー?それ、同じことじゃない?」
「同じじゃないよ。美しいから好きなの。ギリギリの、ムダを省いた戦闘機なんかは綺麗で見ていて飽きない。でも戦争したいというわけじゃない。してはいけないってことくらいはわかっている」
と言うやりとりが、あったのだった。

それから程なく家庭訪問週間となり、
担任の先生(男性)がいらした。何を話したかもうすっかり忘れてしまったが、大した話題もなかったからか?
帰り際、息子に、「来た時ときすぐタミヤの箱に気づいたぞ。作ったのか。見たいな。お前の部屋入らせてくれ」
というわけで、きたなーい息子の部屋へ。
戦車を手に取り、「うーん、接着が、甘いな。もすこし丁寧にな。汚しはなかなかいい。」
と、技術検査講評のようなことをおっしゃり、帰られた。
と、いうことだけは印象に残った。
タンスの上に二個ほど積んであったプラモデルの箱。タミヤの、星が何個かのマーク。目ざとく見つける先生。
かつておとこのこだった、そして大人になってからもそのおとこのこは同時進行してるかのように?


ま、息子はその後暫くミリオタ状態?が続いたようだ。

そんなことは、ずっと忘れていたけれど、最近ふと思いだした。


というのも、映画風立ちぬの感想などがチラチラ目に入り、ちと考えさせられたから。
***

この文は八月に書いたけれど、草稿のままだった。
私のブログにしては、いささかギョッとするタイトルにしてしまったが
反戦とはなにか。私のような一人のかあさんが取り越し苦労することはただ漠然とした一過性の心配。
だからこそとてもデリケートなこと。反戦のための戦い、のための、が別次元で起こりうる流れだって存在するし。
兵器とは。殺しの道具か。ある一定の視点からにより使用を許される。それは大抵の場合、やむにやまれぬ状況を勝手につくったうえで、正義に転換される。
いま私が認識できるこれが限界。それは当たってないよと、見知らぬ誰かに言われてしまうかもしれないが。

唐突だけれど、草稿のこの一文を公開。(ってほど、勿体がつくものでもないよね。単にBlogの用語です。オドオドw)
というのも、高齢の父が珍しく、終戦直前の心の内をぼろりと私に話したから、そういえば、と、思い出したのだった。

(「風立ちぬ」を観ていないので、人の感想を読んだだけで、映画の内容をああだこうだ言えないと思い、控えるけれど、いろいろな視点からの映画表現には興味がある。でも映画館に足を運べないのが悲しいところ。私はそれが反戦映画とはおもっていないけれどタイトルには敢えてその二文字を入れてみた。)











毎度苦手

2014年03月17日 | 或る日或るとき





なんですかこれ、、って苦肉の表現^^;
わたしにしかわからぬ。笑。

ええと、、
一番下の最初の線はラ、次がドで、その上はミで、、ふぅうー。

楽譜にハイポジがでてくると、気持ちが構えてしまいます。

特にE線で弾く高い音。五線譜の上に積み上げられた短い線に恐れをなすわたくし。
高いラの音までは普通に指を置いていける予想がたつんですけどね。^^;
何をいまさら?と、楽譜に慣れているお方はそう思われることかと拝察いたしますが、やなんですよねぇ。毎回。
そしてハイポジになるほどに、指の間隔が狭まる音程、これにはなんとか慣れていますが、正確さに欠ける微妙な音を出してしまいますー。

自分の学習機能の脆弱さ。これかなり普段の生活にも関わっている能力なんだろうな。

譜読み中。

2014年03月14日 | 練習♪メモリ

カバレフスキー・コンチェルト
Kabalevsky_violin concerto in C, Op. 48,



1週間などすぐにたってしまうので、すぐに譜読みに取り掛かるが、、、
臨時記号が多くてわからなーい。

早くも鬼門発生。
この部分の音程をまずクリアしないと次のページに行けません。
でも音、ずれてしまう!

アレグロで弾くなんてとてもできませんよね、、、、
音を確かめ確かめ弾いていたら、
どんな曲なのかさえ不明になるー。頭くらくら。

・・・ルクレールのほうが数倍楽だったように思えてしまう今日この頃です・・・。涙。
ようやく風邪が治ってきたので少し根気が出たのが救いですが、いつ練習できなくなるかわからないからいまのうちに。
気合いを入れるつもりで記録しましたが、目がしょぼしょぼするので、
最近はPCもつらいです。



ルクレールのソナタ/Sonata No 3 in D major 1終了♪

2014年03月12日 | 崖っぷち★レッスン日記
先月のレッスンの事は書いていませんでしたが4楽章を粛々とやっておりました。
本日はやっとのことで終了。
頑張りましたが、一応通したというだけで演奏はガチャガチャでした。
不本意な感じではありますが(笑)一応終りました!
「まあ、今までで一番マシ」だったからだそうで。
思わず、「ありがとうござますっ!」
いいんですいいんです、こんな演奏だけど終わらせて下さっただけでもう胸いっぱい。(笑)

次行きましよー、ということで、

今度の曲は、カバレフスキーのコンチェルトです。
カバ。?
なんだそれは、、、、と昔思ったことあります。。

そういえば、子供を発表会に出していた頃、何度も演奏されてました。
(うちの子は弾きませんでしたが)
ですからバイオリン学習者界隈ではおなじみの曲といえばそうなんですよね。

それまで何人もの子の演奏を聞かせていただいた中で印象に残るのは、
そう、今思えば、ジャニーズのグループ、Sexy Zoneのまん中にいる子(佐藤勝利君かな)にそっくりの
男の子が弾いてたのが、、、、、
そこそこうまかったです。中学一年生くらいで、もうコロンつけてたわ。(笑)
しかも、凄くいいバイオリンでして。良い音で。
今はもう大きくなってることでしょう。
・・・・あ、関係ないですね。
いや、カバレフスキーのコンチェルト、、、、^^;

(出だしがなんとなくサンダーバードの曲に似てると思っている。w勘違いかな。)


「難しといえば難しいが、法則を理解すればなんということはない。ハイポジもあるが、
こんなのは基礎のレッスンでいつもやっているだろ。?恐れる事もない曲。」と師匠。

はあそうですか。・・・。

「その法則は今は教えないから」

え。?(@_@)

「まあやってみてね。」

えー?

・・・やってみますけどね。
(教えないって何。)(・o・)

颯爽とカッコよく弾く広大な曲ですよね。そうはなれないと思うけど。まずは譜読みです。




ところで、先ほど投稿して気付きましたが何でキーワードに【胸いっぱい】なんて出るんでしょうね。こんなので検索しないでほしいですね。何か変すぎますね!


手紙(混成3部)

2014年03月11日 | 観たこと聴いたこと
手紙(混成3部)



卒業ソングが気になる今日この頃です。
でも、自分の卒業式時のことなどもう忘れてしまっています。
それでも毎年「希望」を感じるこの季節。
日差しも明るくなり、前へ進もうという気持ちになる。これは
年度替りという、新年とはまた別の雰囲気はわが国独特の感覚でしょうし、
そこに丁度四季の移り変わりが、重ねて気持ちを揺さぶるのでしょうか。
制度が変われば、こういった共通感覚もなくなるのでしょう。

細かいところでは成人の日が期日限定の祝日ではなくなったり。
いや成人の日なんてものがそもそも、その前の世代には無かったりとか、
いろいろ変わりながら時が進んでいくわけですね。

日本が秋入学になる日も、来るのかしら?

(そういえばアンジェラ・アキさんが勉強のため渡米するようですね。)


ただ、新しい共通感覚も生まれました。
卒業式を迎えようとするこの時期に
東日本大震災が起きたのですから。
希望と期待の3月に、こんな悲惨なことが起きるなんて
誰も想像しなかったことです。
それ以来、3月が来るたびに、
ぐっと気を引き締める春。
被災したこの春を乗り越えてきた方々の事や、そしてこれからまだまだ越えなくてはならないこともたくさんあるということを、
改めて考える今日の日でした。


                 


娘の卒業式のころには(中学卒業の時でしたでしょうか、忘れましたが。)
「旅立ちの日に」がうたわれていました。

SMAPバージョン




手紙  その2

2014年03月07日 | 思いで空間
手紙(続き)

彼はとても性格が清々しい子だった。
東京ではいちど下北沢で会ったこともあります。

当時は、何かを議論するでもなく、ロマンスが芽生えるでもなく、
ただ、一緒にいるのが嬉しい、それだけの間柄の子が何人かいましたね。
今考えるとかなり幼かったのでしょうか。
いや、皆、お互いがとて好きだったのだと思います。
なんというか、独り占めしたいような好き、ではなくて。

大学を卒業するころ皆忙しくなり、次第に皆と疎遠になっていきましたが、
その子はやがて結婚し幸せな家庭を築きました。会ったことはないけれどその奥さんも素敵な人のようでした。
が、しばらくたってから、バイク事故で亡くなった事を知りました。30半ばの時だったそうです。
お子さんが二人いました。・・・。
彼の家族の事を思うとやり切れない思いになったことを覚えています。
彼らの幸せがずっと続いてほしかった。それなのにどうして、どうして。と。
 
              

思えば、自分の若い時代には今のようにSNSもなく、高校卒業後のクラスメイトの消息を知ることもなく日常を突き進む、、ことが私自身にはそれが普通で、そしてその状態を好んで生きてきた私でした。誰のことをしらずともまた知られなくとも構わない、過去は要らない。未来へ挑むんだー、なんて思っていたんですね。
しかも高校時代自分のの事は嫌いで、忘れたいと思う気持ちのほうが強かった。
なのに結構このように手紙のやり取りなどをしていたんですね。いささか不思議な自分を確認。

さて、タイムカプセルのような、昔の手紙。そこには、その時を生きた証のような、その日その時の等身大の姿がありました。
筆跡からは友達の声まで聞こえるかのごとくでした。
そして私はどのような返事をを書いたのでしょう。きっとつたないものであったことでしょう。
自分の事を嫌いと思う反面、周囲の友達に映る私の姿といえば、手紙の差出人は皆一様に、
「あなたのその明るさをいつまでも忘れない」とか、ずっとそのままでいてほしいとかの一文で結んであるような、
何か能天気な、それでいてほっとするような印象を持たれていたようです。
そういうイメージが実は不満でそんなんじゃなないよ、私は、、、と思っていた当時の自分を覚えてはいますが。
(苦笑)
まあ、今となってはもうそんなことどうでも良いです。
余りにも遠い過去からの手紙は、素直に受け取る意外ない。
そしてあらためて、その人が私に何を伝えたかったのかを受け取ったように思います。
それはその人の生き方であり、理想であり、素直な部分であり、内に秘めた何かでもあるような。

物が溜まりすぎて整理しなかければばらない現実、大昔の化石的物体、いずれは処分するはと思いますが、今はまだ捨てないでそっと段ボール箱に戻しておきました。
今度そは捨てるんダ。決めた。


手紙

2014年03月06日 | 思いで空間
もう3月ですか。

年明けからめまぐるしく時間が過ぎてしまいました。
2月は寒くて体調を崩し、少ない練習ながら、弾くのもちとつらかったかな。
そして身内に不幸がありました。あまりに突然で、なかなか受け入れられなかった。
普段会うことのない夫の従姉に何十年ぶりかで再会したり、何故かこういう時しか出会えぬ悲しさ。
でも茫然とした時間を、身内とともに過ごすことは意味のあることだと思いました。
そして私達は、静かに義兄を見送りました。

風邪をひいたので、仕事が時始まるまでに直しておきたく、なるべく体を休ませるるようにしていたのだけれど、
母の事もあり実家通いです。
お昼を一緒に付き合った後、洗濯をして、納戸に用事があって探し物をしていたら
大学時代のノートとかが入った段ボール箱を発見。
これ、いくらなんでも処分せねば。
と思い、中を覗くと、手紙が入っていました。
大学に入った年の物のようです。

高校時代、男女特に意識しない仲良しのグループがいくつかあり、
そのメンバーの男の子からの手紙が何通か。
元気でいるとか、何の変哲もない内容でしたが、懐かしく読みました。
遠く離れて一人暮らしをしている私の事を気遣ってくれている。
他の友だちの手紙もそんな感じでした。
東京の大学に通う男の子からの手紙では、
「君は学生運動をどう思う?」
なんて言うのもあって、時代を感じさせます。
もうすっかり下火になってはいたものの、私たちの入学当時には立て看板などまだその片鱗がわずかに残っていました。
「仕送りをしてもらい親の世話になっている身では、社会に対する発言力が弱いから、
今はもっとたくさん勉強して頑張らなければならないと思う、、、なんだかここまで書いて言葉が続かなくなったのでこれでやめる。」
というような言葉もありました。

私がどのような内容の返信をしたのかは覚えていませんが。
けれど半ば学生としてのお約束的になってしまっていた「運動」そのものへの抵抗を感じてはいました。
わたしたちはもう、形骸化した学生運動に見切りをつけた世代だと思います。

(2へ続く)