咲とその夫

 定年退職後、「咲」と共に第二の人生を謳歌しながら、趣味のグラウンド・ゴルフに没頭。
 週末にちょこっと競馬も。
 

大阪の陣・・・・幸村

2010-09-08 22:44:00 | レビュー
 6日夜遅く、NHK「名将の采配」が放映されていた。内容は、大阪冬の陣・夏の陣において、真田信繁(幸村・・・以後この呼び名で記載)の采配を推理しその真相に迫ると言った内容の番組。

 大阪の陣から時を遡ること、14年前の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠軍を上田の地に足止めをさせて、本戦の関ヶ原に遅延させた真田昌幸・幸村親子の戦(いくさ)ぶりが際立っていた。

 徳川家康は、関ヶ原の戦いの後「真田昌幸・幸村」親子を処断する考えであったが、徳川軍に忠誠を誓い功績のあった兄信幸(信之・・・関ヶ原後改名・以後この呼び名で記載)と岳父本多忠勝(信之の妻小松の父・家康の養女となって信之に嫁ぐ)の強い、強い助命嘆願を受け入れ、止む無く紀州九度山に幽閉の措置とした。

 二度に渡って、徳川軍を打ち破った真田昌幸親子を警戒し、恐れもあった家康は、大阪の陣開戦前に真田幸村の懐柔策にでる。

 家康は、幸村に「信濃一国をやるから、味方につけ」と迫るが、幸村は「一旦の約の重きことを存じて較(くら)ぶれば、日本国半分を賜るともひるがえ難し」と断ったとのこと・・・・・・大阪の陣の戦ぶりから、「日本一の兵(つわもの)」と敵方に言わし召した幸村の心意気がここにある。

 ああ、この心意気とこの言葉の重み、どこかの政治家に教えてあげたいものだね。


 九度山に幽閉されていた間、真田昌幸は必ず徳川と豊臣がもう一戦(ひといくさ)あるものと確信し、その際は大阪城に入って一戦交えたいと夢見ていたが、大阪の陣の4年前に病死・・・・幸村は権謀術数に秀でていた父昌幸のやり方を学んでいる。

 あるいは、父昌幸が健在であった頃、大阪城での戦い方などを二人で論じていたのだろうか・・・・恐らくそうだろうと思う。

 大阪城の出城「真田丸」における戦いぶりこそ、上田城攻防戦の手法そのものであったから。

 それはともかくこの番組では、ゲストの方々が幸村になってその戦い方を推理し、助言者の解説を聞いて戦国武将真田幸村の生き様を学ぶことになる。

 ところで、歴史大好き、伊達政宗大好きの娘にこの番組を知らせてなかった。

 ブログを見てくれるので・・・・・・いいか


 大阪冬の陣では、真田丸での幸村をはじめとした武将の大活躍で徳川軍に大きな痛手を与えるが、業を煮やした家康は本丸に大砲を撃ちかけ停戦に持ち込み、約束を違(たが)え、外堀から内堀まで全て埋めてしまう・・・・・・秀吉が生前家康に難攻不落の巨大な大阪城も堀を埋めれば簡単に落とせると言っていたことをそっくりそのまま実行している。


 さらに難癖をつけて豊臣を滅ぼすために数ヵ月後夏の陣が開戦、裸同然となった城では篭城できないので、幸村など多くの武将は野戦に出向く、相手は幸村軍などの数倍の敵。

 
 この番組では、幸村が家康一人に的を絞った戦いに挑み・・・・・追い詰めて討ち取る手はずが狂ってしまった経緯(いきさつ)が解説されていた。


 最後に徳川軍の真っ只中に赤備の幸村の軍団が突っ込んで、家康にあと一歩まで迫るも敗れてしまった・・・・このときばかりは家康も死を覚悟したらしい。


 小説には、真田幸村終焉の地“安居神社”近くで自害して果てたと・・・・・ある。

 そうそう、「大阪の陣を大河ドラマにする会」の市民団体のご活躍で、是非ともNHK大河ドラマに取り上げてもらいたいものだね・・・・関ヶ原から大阪の陣までを。


 400年の時を経て日本人の心を揺さぶる真田一族と幸村・・・・・今、正に池波正太郎の「真田太平記」が第8巻紀州九度山の後半、大阪の陣まであと数冊。

 真田一族は、何度読み返しても面白い(夫)



(真田信繁(幸村)肖像画)

(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
コメント
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