ねーさんとバンビーナの毎日

「静」→ 「淡」→ 「戻」→ 「無」→「休」→「解・涛」→「涛・停」→「抜」→24年「歩」 最終章序章スタート!

それはどうだろうか。

2017年01月21日 21時49分42秒 | 伝われねーさん
2011年の3月11日に東北大震災が起こって、そこでたくさんの弱者が生まれました。
その後もたくさんの弱者が生まれています。


窪塚さ~ん!


震災に見舞われた人を「弱者」っていうのはどうなんだろう?
その後もたくさんの「弱者」が生まれてるって誰の事なんだろう?


「弱者」と表現するのは失礼な場合もあることを知ったほうがいいと思うんだけど。


震災に見舞われたって、不幸に見舞われたって、
「私は弱者とは違う。」ってプライドを持ってる人もたくさんいるハズよ。
戦争体験したお爺さんやお婆さんとか、そういうプライド持ってる人いるよね。


その手の同情は良くないよ。
共産・社会主義的な風に私は取れる。


おそらく君はまだまだ「バビロン憎し」の状態と想像するよ。
同情の向け方にそれが出てるよ。


もう、それ、ほんにやめなはれ。
○幼稚(×子供)なんだよぅ、それじゃぁ、まだ。


あ~あ、そんなコメントいらなかったのになぁ、せっかく話題になってる映画の初日挨拶で。。。


何があってそこまで頑ななのか、探ってみたくなるなぁ。
君をそこまで洗脳させたのはいったい誰なんだ??
少なからずご両親ではなさそうよね。


適当にやったら旨かった

2017年01月21日 18時17分38秒 | 味わうねーさん
白菜と鳥もも肉と万能ネギが余っていたので適当に生姜・ニンニクと炒め煮にしたら旨い。


酒、適当に
鶏ガラスープ、適当に
甜麺醤、適当に
醤油、適当に


砂糖は入れず←炒めものに砂糖って味の深みが出るから欠かせないが、白菜の甘さがあるから入れず。


仕上げにごま油と○白(×黒)胡椒をひいてみたら合いますな。






こないだ突かれたお言葉・その1,089

2017年01月21日 15時28分23秒 | 突言葉ねーさん
ついこないだの「鶴瓶の家族に乾杯」に柴咲コウさんが出いていた。

静岡・浜松の北、井伊のあたりを訪問する回だった。

以前、静岡・浜松でも舞阪に訪問する回があったが、舞阪も母方の親戚がいる場所なので興味があって観ていた。


柴咲コウさんが「私、小さいころ静岡の菊川ってところによく来ていて、、、」と言った。

「えええええーーーーーっ!!!?あらまぁ。」と思った次第。


私の両親の出身が静岡・菊川であり、毎年盆暮れは祖父母宅に親族が集結(関東に出た親族も)していたからだ。

東名で行ったら菊川インターで降りると、ヤマハのつま恋、御前崎、牧之原茶産地(小学校の社会で必ず出てくる)、浜岡原発に行ける、そんな場所だ。

ヤマハのつま恋であったポプコンの影響もあるのか、父方も母方も日本の芸能界や歌謡曲の話題はよくしていたよな。
(そういう情報が入りやすいっていうのがあったんでしょうか??)

あとは父方の実家は「ヤマハの楽器は同郷人として買ってやるらぁ?普通。」って言って、オルガンの最新型が出ると娘ら(オルガンが必要な年ごろ)に買ってやっていた。(1台おさがりを私がもうら→西から東に持ってきたので電気の調整をしてもらう→ヤマハの音楽教室に通うの流れに。)


まさか柴咲コウさんの口から「静岡菊川」が出るとは。
柴咲コウさんに親近感が湧いた一瞬だった。


柴咲さんも幼い耳に、

「○○だらぁ~」とか

「○○だもんでねぇ~」とか

「○○だにぃ~」とか

「こわい(固い)ら?」とか

「そのくろ(隅)んところに、、、」とか

「うっちゃって(捨てて)」とか

「ポンポン(単車のこと)」とか

「ちんちん(熱々(熱湯))」とか

聴いていたんでしょうね。

弱い者っていったい誰なんでしょう、、、

2017年01月21日 14時30分36秒 | 考えるねーさん
自称「自分は弱い人間なんで、、、」って耳にする言葉だけども、子供の頃から毎度「この人は“弱い”って何を前提にしてるんだろ??」という疑問が渦巻く。


本当の病気をしている人ならば本当に弱っているし、

心の病は弱くなくてもかかるものだしいやかえって強すぎる人が心の病になってないか?)、

幼い子供を「弱い」とすればそうだし(しかし子供って本来大人よりずぶとくて強いもんですぞ?)、


「弱い」ってなんなんでしょう。


位の高い者=強い、位の低い者=弱い、と言ってるならば、まぁそうかもしれない。
しかし位の高低だけが、「何かを成せるか、成せないか」「主張が通るか、通らないか」とも関係ない
し。


私は思うに自分の○理想(×目的、×目標)どおりにいかないことを「自分を弱きもの」として卑下して同情を買ってるだけなんじゃないのかなぁ、、、。
ただの理想(理想なんて結局のところ妄想に至るじゃん、大抵が。)を追うから、常に何かと自分を比較してそういう風に思いこんじゃうだけ。

理想ではなくて、目的意識や目標意識を持つと、何かと自分を比較するという意味で比較なんかしない。
追い求めている目的や目標を成すために仕入れた情報の取捨選択時に比較するだけであって、対象物の良し悪し(勝ち負け)をジャッジする為の比較だなんて、そんなことをする無責任な評論家気取りを気取ってるヒマなど全くない。


そもそもなんとなく社会の漂う民が作り上げる「ランク付けして比較され勝ち負けを決めちゃう風潮」がよろしくなく、「どんな風に生きてようが尊重しあえれば弱き者ってそんなにいないハズ」です、、、


勝ち負けはスポーツや勝負事の中でしかない。
教育とか躾とかどれだけお金を持っているかとか、そういうものには勝ち負けはないもの。



「弱きものが生きる場所がない」って主張も昔も今もあるけども現に生きている。
生きていけないと思い込むのは個人の勝手だけども、真面目にコツコツ生きてる人はたくさんいる。



(「弱いという表現=心がブレがちでしっかり保てないっていう自覚」によって)「心をしっかり強く保つために宗教信仰する」という考えであれば、それはそれでいいんじゃないのか?差別も軽蔑もしないけど?」と昔も今もそういう考え方でいる。


宗教も結局蓋を開けると、

ビジネスに利用している人がいたり(信者相手に)、

理想追いみたいに現実離れしていたり、

政に利用されていたり(←学会が叩かれがちだけど、学会だけじゃないですわよね。)、

(組織体として集団活動になっちゃうと)結局は俗世にある妙なイヤな人間関係に陥るもんだし、


現実はやっぱりこうだから、私は、

「こうだからゲンナリ、、、
信仰ってもっとこう自分の人格を高めたいためにやってんじゃないの?あんたたち??
結局こうだから宗教なんてものも、覚めるし、醒めるんだよ、、、」


と思ってしまうしてしまうほうで。