ねーさんとバンビーナの毎日

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弱い者っていったい誰なんでしょう、、、

2017年01月21日 14時30分36秒 | 考えるねーさん
自称「自分は弱い人間なんで、、、」って耳にする言葉だけども、子供の頃から毎度「この人は“弱い”って何を前提にしてるんだろ??」という疑問が渦巻く。


本当の病気をしている人ならば本当に弱っているし、

心の病は弱くなくてもかかるものだしいやかえって強すぎる人が心の病になってないか?)、

幼い子供を「弱い」とすればそうだし(しかし子供って本来大人よりずぶとくて強いもんですぞ?)、


「弱い」ってなんなんでしょう。


位の高い者=強い、位の低い者=弱い、と言ってるならば、まぁそうかもしれない。
しかし位の高低だけが、「何かを成せるか、成せないか」「主張が通るか、通らないか」とも関係ない
し。


私は思うに自分の○理想(×目的、×目標)どおりにいかないことを「自分を弱きもの」として卑下して同情を買ってるだけなんじゃないのかなぁ、、、。
ただの理想(理想なんて結局のところ妄想に至るじゃん、大抵が。)を追うから、常に何かと自分を比較してそういう風に思いこんじゃうだけ。

理想ではなくて、目的意識や目標意識を持つと、何かと自分を比較するという意味で比較なんかしない。
追い求めている目的や目標を成すために仕入れた情報の取捨選択時に比較するだけであって、対象物の良し悪し(勝ち負け)をジャッジする為の比較だなんて、そんなことをする無責任な評論家気取りを気取ってるヒマなど全くない。


そもそもなんとなく社会の漂う民が作り上げる「ランク付けして比較され勝ち負けを決めちゃう風潮」がよろしくなく、「どんな風に生きてようが尊重しあえれば弱き者ってそんなにいないハズ」です、、、


勝ち負けはスポーツや勝負事の中でしかない。
教育とか躾とかどれだけお金を持っているかとか、そういうものには勝ち負けはないもの。



「弱きものが生きる場所がない」って主張も昔も今もあるけども現に生きている。
生きていけないと思い込むのは個人の勝手だけども、真面目にコツコツ生きてる人はたくさんいる。



(「弱いという表現=心がブレがちでしっかり保てないっていう自覚」によって)「心をしっかり強く保つために宗教信仰する」という考えであれば、それはそれでいいんじゃないのか?差別も軽蔑もしないけど?」と昔も今もそういう考え方でいる。


宗教も結局蓋を開けると、

ビジネスに利用している人がいたり(信者相手に)、

理想追いみたいに現実離れしていたり、

政に利用されていたり(←学会が叩かれがちだけど、学会だけじゃないですわよね。)、

(組織体として集団活動になっちゃうと)結局は俗世にある妙なイヤな人間関係に陥るもんだし、


現実はやっぱりこうだから、私は、

「こうだからゲンナリ、、、
信仰ってもっとこう自分の人格を高めたいためにやってんじゃないの?あんたたち??
結局こうだから宗教なんてものも、覚めるし、醒めるんだよ、、、」


と思ってしまうしてしまうほうで。


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