ねーさんとバンビーナの毎日

「静」→ 「淡」→ 「戻」→ 「無」→「休」→「解・涛」→「涛・停」→「抜」→24年「歩」 最終章序章スタート!

野心と自負

2008年07月09日 00時58分06秒 | 2種分ねーさん
やしん【野心】
[意]身分不相応な大きな望み。


じふ【自負】
[意]自分で自分の才能・学問・仕事などに自信をもち、誇る・こと(心)。


紙一重で見分けがつかない両者。

「野心」の臭気は消し去る構えが人を美しくみせるって~。(ね)も同感~。

「自負」というのは年齢を重ねるごとに「責任感」へと転化していく配慮をしてかないと、熟年老年になってもまだ「世に許されない」という寂しい結果になるようで。


知識人は気をつけよう。
責任感へと転化しないから、いつまでたっても評論ばかりやってられるんだぞぅ?(笑)
年取れば取るほど、口先だけ達者より、顔つきや背中を見られて、と~んと年下からでも見抜かれちゃうんだから。

評論家のプロにでもなれば責任感も沸いてきますかね?
でもプロにはなりたくないんだもんね。責任おいたくないから。


困ったもんです。(笑)

そして(ね)は「野心も自負も実はま~るでなくて総ては責任感のみ」で人生やりこなして乗りきってきた、こちらもちょっと変わった困ったおバカキャラ。

けど「責任感」でやってきてるから、こう見えて許されてますよ、案外。(許しているのか、諦めているのか…は謎。)

ケチは人間の情を解するセンサーが欠けている?

2008年07月09日 00時17分50秒 | 考えるねーさん
「人間通」って本にそう書いてあるんだけど、「はて?」と思ってね。

本来はそうなんだとは思うよ。

だけど!
今の現代は、「「人間の情」を解するセンサーが無い人」がものすごく多いから、そもそも「「人間の情」を解するセンサーがある人」が「ケチにならざるおえなくなってる」んだと思うんですよねぇ。

だって、情を解するセンサーが無い人に情をかけたところで結果は分かるでしょ。心が傷つくの嫌ですもん!


「情」っていうのがさ~、今って「タダの同情」にスリ変わってるでしょう?
「タダの同情」って、その場限りでさ、相手を思いやってるようでいて単なる自分都合(考えたり感じたりするのが面倒臭い為の手段)のいい加減な感情でさ。
「情」っていうのとまるで違うからねぇ。

「タダの同情」は簡単なんだけど、「情をかける」のは難しいし根気がいるんだよね。


じょう【情】
[意]物事に感じる心の動き。他人を思いやる心。まごころ。異性を愛する心。あじわい。おもむき。

どうじょう【同情】
[意]その人と同じ気持ちになったつもりで思いやり、いたわる・こと(心)。



ほらね、「同情」って「なったつもり」になっていたわればいいだけだから簡単なのよ。
洞察力無い人が簡単にコロッと騙されてる。
単なる自分都合の同情だけの言葉に。


「情」は「自分がどう感じているか?」が主体で、「相手と同じ気持ちになったつもり」だけじゃダメなのよね。
そこの上で「ならばどういたわるか?」だから。


今「情」は希薄ですわぁ。

そして「情」ってものを厄介扱いするオトナも非常にたくさんいて、「「情」なんてどうでもいいから「同情」だけください。」って感じじゃない?
「それがケチだろう?」って感じで。


何度も言うけど、「情」がある人があえてケチになってる現状は結構あるかと思いますよ。
ホトホト傷つくのに嫌気がさしてね。

よ~く目を凝らしてくださいませ。
極端に言えば「単なる同情好きは単なるケチ」だぞ?本当だよ??


「ケチは人間の情を解するセンサーが欠けている」というのは、2008年の今では少し首を傾げたくなる現状であります。
言い換えれば「ケチは人間の同情を解するセンサーをあえて閉ざしている。」とも言えませんでしょうか。
だって何度も言うけど、「単なる同情好きは単なるケチ」だからさぁ。
「情」のある人はそれを解する時間がもったいなくて、あえて同情を解するセンサーを閉ざして、その余力を有効に使うわけよね。