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二上山と中将姫・大津皇子

2012-12-26 | 花と自然
奈良県葛城市の二上山に行くことにした。8時に家を出て、大阪経由で当麻寺駅まで約3時間。11時ころに到着。当麻寺(たいまでら)でまずはゆっくりと大曼荼羅を拝観する。中将姫が蓮の糸で織り込んだというもの。4m四方もある。伝説ではこれを岩屋の中で一晩で織ったという。

 中将姫は、藤原鎌足の曾孫藤原豊成の娘で、生みの母を4歳で亡くした後、豊成が妻とした継母の照夜の前にいじめられる。中将姫は美貌で才女であったようで、9歳の時、孝謙天皇に召されて、百官の前で琴の演奏をし、賞賛された。これはさらに継母にいじめられるきっかけになり、14歳の時、豊成が諸国巡視の旅に出たときに、継母は家来に中将姫の暗殺を指示する。家来は、命乞いもしないでひたすら西方浄土へ召されることのみを願い、読経を続ける姫を殺せず、雲雀山青連寺に姫を隠した。姫はそこで1000巻の経文を写したという。

 その後、天平宝字7年(763年)16歳の時、淳仁天皇に後宮に入るよう望まれたが、姫はそれを断り、二上山の麓の当麻寺で尼となる。そして、翌年当麻寺に今も伝わる大曼荼羅を蓮の糸で織り上げる。当麻寺の本堂には、国宝に指定されている六角堂がヤコウガイを象眼した須弥壇の上に乗り、そこに4m四方の大曼荼羅が納められている。本堂の横には、新しい建物があり中将姫の像が祀られている。建物は糸繰り堂と名付けられており、ここで蓮の糸を繰ったということになっているらしい。二上山の雌岳頂上の下に天然の岩屋があり、ここで一夜にして大曼荼羅を織り上げたという言い伝えにもなっている。しかし、この大曼荼羅を科学的に分析した結果では、大曼荼羅は絹で織られているようで、蓮の糸が使われたとしてもほんの一部だけだろう。それなら一晩でもできそうだ。大曼荼羅自体はどうやら大陸から持ってきたものらしい。

 それはともかく、中将姫は29歳の若さで入滅。しかし、西方浄土から阿弥陀如来をはじめとして25体の菩薩が彼女を迎えに来て、生きたまま西方浄土に向かったと伝えられている。そんな阿弥陀仏を信じ、西方浄土に召されることだけを望んで生きた、美貌と才能に恵まれながら現世に恵まれなかった女性の物語を、心に刻んで二上山に登ることにした。

 当麻寺を出ると、雪が舞っている。門前の料理屋で昼食をとったあと、二上山を登る。1時間ほどで雄岳の頂上。途中の渓谷も低い山ながらなかなか風情がある。雄岳頂上には殺された大津皇子の墓が・・・。大津皇子は天武天皇の第3皇子であったが、天武天皇の死後1ヶ月にして、川島皇子による密告で謀反の疑いを受け、24歳の若さで自害させられた。草壁皇子を天皇の位に就けるために大津皇子を亡き者にする謀略があったと伝えられている。大津皇子の辞世の歌が万葉集にある「ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」(磐余の池に鳴く鴨を見ることは今日までか。私は死んでいくんであろうな)である。妃の山辺皇女は、裸足で髪を振り乱して彼のもとに駆けつけ、殉死したと伝えられる。大津皇子は、恨みを呑んで死んだため、死後に祟りをなした。草壁皇子は、大津皇子の亡き後3年で死亡。その後、文武天皇も25歳の若さで死亡。皇子の祟りと怖れられた。

 いったんコルに戻り雌岳へ。雌岳の頂上は整備されてまるで街中の交差点のよう。国定公園なのにこんなことをするとは。登山道も整備されている。きっと良い季節には人があふれるのだろう。頂上まで車道を通さないように願うのみだ。下りも1時間足らず。麓のたいま温泉を探すが、26年前に廃止になったという。ところが最近整備された道標にはちゃんとたいま温泉の名前があちこちに書いてある。これはどういうことだろう。代わりの市営施設のお風呂につかり、ゆっくりとして帰る。帰宅したのは20:45。

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