ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

雨のシレトコ 昔の名前札に出会う

2011-08-28 | 日記風
寒い釧路から知床に向かった。内陸に行くに従って少し気温は上がったが、天候はずっと霧雨が続いた。途中、標茶から弟子屈へ出て、摩周湖を見ようとしたが、湖は霧の中だった。貼るから夏にかけては摩周湖は霧で見えないことは普通のことだが、8月も終わりに近くになって霧で見えないというのは、これまでの経験では、珍しいことだ。

 川湯で足湯につかり、香港から来たという二人連れと片言英語でしゃべり、雨の中を野上峠に向かう。雪のある冬の野上峠を越える苦労を考えると、夏の峠越えは、いとも簡単だ。あっという間に小清水町のオホーツク海に出会い、斜里町の道の駅に寄って、ウトロの街に着いたのは、午後3時半頃。まだ宿に入るのは早すぎる。まずオシンコシンの滝を観光客らしく大勢の人に交じって眺めて歩く。知床自然センターに行き、知人を訪ねるも、その人は羅臼のビジターセンターにいるという。知床財団が知床自然センターも羅臼のビジターセンターも環境省から運営を委託されているらしく、知床財団に所属している人は、どちらにも勤務するようだ。そのほかにもこの財団が運営しているところがあちこちにある。知床の自然を守るために活動してきた人たちが地元の自治体といっしょにつくった財団が、このように知床世界遺産登録にともなって激増した観光客に対応する施設を運営することになったという点は、よかったのかどうだったのか、複雑な思いが去来する。

 知床五湖まで車で行くが、夕方4時半には周遊路が閉まってしまうとのことで、これから行っても無駄になる。やめて再び自然環境センターに戻る。知床では、知床の開拓地跡をもとの自然に戻そうというトラスト運動が、もう30年以上前に始まったとき、私たちも夫婦と子供二人の四人で運動に参加した。百㎡の土地を8000円で買ったつもりで、地元の斜里町に寄付をし、斜里町が責任を持って管理、自然再生を行うというものだった。私たちは、自分たちだけではなく、親戚や友人が結婚するたびに、土地の購入金を寄付し、その権利書を結婚祝いに贈ってきた。この自然センターには、寄付した人たちの名前を書いたプレートが、一つの建物の中に所狭しと並べてある。4万9千人が寄付をしたという。それだけのネームプレートの中から自分たちのプレートを探すのは結構大変だったが、それでも探し出すことができた。30年以上前に知床の自然再生に協力したことを思い出して、感慨にふけった。当時の8000円は今で言えばどのくらいになろうか。100倍くらいの価値はあった。少なくとも収入の乏しかった我が家では。あのときの二人の娘ももう一人前の大人になった。

 宿の民宿では、人の良いおじさんとおばさんに出会った。京都から来たというと、自分たちが2年前、京都へ遊びに行ったときの印象がよかったことを、縷々説明してくれる。夕食もすばらしい。けっして多すぎることがないのに、珍しい味がたくさん少しずつ出る。全部で19のお皿がでていた。マツバガニ、カニの腹子、カニの内子、ホヤ、ナマコ、イバラガニの味噌汁、カニ豆腐、などなどおいしいたくさんの味を楽しんで、知床の天候の悪さも忘れて楽しんだ。

 翌日は、朝は大雨。出発する頃には雨は小降りになったが、心配。まずは昨日行きそびれた知床五湖へ。私は3度目か4度目だが、連れ合いは初めて。でも天候が悪いし、連れ合いの体調もよくないので、最短コースを歩くことにした。五湖をゆっくり周遊するには、最近では、ガイドと一緒に行く必要があるらしい。そして、行く前に心得を研修しなければならない。私たちは、ガイドなしで、最近できたらしい高架木道を歩いて、「一湖」を見るだけのコースに出かけた。雨は小降りから霧雨程度に変わってきたが、観光客は多い。木道の上はまるで銀座並み。近くに見られるエゾシカにみんな喜んでいる。道東に長い間住んできた私にとっては、エゾシカなぞ珍しくもないのだが。

 五湖の一つをみて、知床峠を越える。途中は雨で煙って何も見えない。知床峠も霧で包まれている。人っ子一人いない。そのまま羅臼へ向かう。羅臼のビジターセンターに行き、知人を訪ねるが、あいにく留守とのこと、そのまま出発する。羅臼では熊ノ湯にも寄らずに帰る。最近は温泉に行きたいという気持ちが昔ほど無くなった。なぜだろう? 

 その後は、標津経由で帰るが、もうやめてほしいと言うほどの好天。太陽がまぶしい。知床にいる間と全く違う。天候が好転するとは聞いていたが、やはりこれは天候がよくなったと言うよりも、知床と標津側との違いなのだろう。知床はやはり、そういう気候の場所なのだろう。地の果てなのだから。

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