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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

民数記 21章

2024年05月18日 | 民数記
民数記 21章
モーセは青銅で一つの蛇を造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべて蛇にかまれた者はその青銅の蛇を仰いで見て生きた。
(21・9)


先の20章ではチン(ツィン)の荒野のカデシュにおける出来事が記されていました。カデシュを北上すればすぐにカナンの地です。しかし、エドムの王は軍を派兵してイスラエルの通過を拒絶しました。

そこで、イスラエルは進路を変更してホル山に到着したのですが、そこで大祭司アロンが死去し、その息子エレアザルが職を受け継ぎます。ここまでが20章の記録です。

そして21章。ホル山を出立した民は、エドムの地を迂回してカナンに向かうことになりました(21・4)

迂回路はかなりの遠回りです。わたしが道ですといわれたイエス様のも、天国に行き着くには遠回りに見えます。この道で大丈夫だろうかと不安にもなります。しかし、たとえ細かろうと、またデコボコ道であろうと、「イエス」という標識のついた道を行きます。「いのちに至る道は細い」と言われた主の御言を信頼して従います。

さて、イスラエルの人々はこの旅路に堪えられなくなって、またもやモーセたちに対して不平不満が噴出します。何度もくり返される台詞です。

「あなた方はなぜ私たちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。私たちはこの粗悪な食物はいやになりました。」(21・5)

しかし、この時ばかりはいつもと違いました。モーセが民のために執り成す前に、神は御怒りをあらわにされました。そこで主は、火の蛇を民のうちに送られた。蛇は民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだのです(21・6)

「火の蛇」とは毒蛇の一種で、火が出るような激しい痛みや苦しみが伴ったのでしょう。これに耐えられなくなった民は、モーセに執り成しの祈りを要請しました。この祈りに対する主の答えが冒頭の聖句です。

そこで、青銅の蛇を鋳造しそれを竿にかけました。蛇にかまれて苦しみ横たえている人々は、その竿にかけられた青銅の蛇を仰ぎ見ることによっていやされ、生きることができました。

イエス様はこの民数記の出来事をとりあげ、ご自分も青銅の蛇のようにして木に掛けられることになるのだと言われました。次のように記されています。

ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである。(ヨハネ3・14~15)

確かにイエス様は「十字架」という木(竿)に掛けられました。しかし、民数記の場合は蛇が掛けられたのです。聖書では一般的に蛇はサタン(悪魔)の象徴なので、この両者がどのように符合するのか理解に苦しみます。

イエス・キリストは私たちの罪を引き受けて十字架で死なれました。しかし、その死によってもうひとつの事が起きました。それはサタンに対するさばきです。これは表裏一体です。

人間の側から見れば、イエスは人の罪を引き受けて死んでくださったのですが、罪の張本人であるサタンからすれば、自分がさばかれ滅ぼされたことになります。それがイエス様の十字架の死の意味するところです。

イエス様はご自分の死によってこの世がさばかれると言われ、今こそこの世の君は追い出されると言われました(ヨハネ12・31)。そして、さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからであるとも言われました(同16・11)

私たちは、十字架に掛けられたイエス様を見あげて、自分の罪はイエスがすべて引き受けてくださったと信じるのですが、同時に、罪を根拠に私を支配し苦しめてきた悪魔(サタン)はあの十字架でさばかれたのだと信じるのです。

そのように信じて、あの十字架にかけられたイエスを見上げる者は、死から命へと移されるのです。


民数記 20章

2024年05月17日 | 民数記
民数記 20章
主はモーセとアロンに言われた、「あなた方はわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができないであろう」。
(20・12)


荒野で水が枯渇しました。人々は水不足をモーセとアロンに訴えるとともに、こんな荒野に導いた彼らを責めました。

「先に我々の兄弟たちが主の前に死んだ時、我々も死んでいたらよかったものを。なぜ、あなた方は主の会衆をこの荒野に導いて、我々と我々の家畜とを、ここで死なせようとするのですか。」(20・3~4)

「先に我々の兄弟たちが云々……」とはコラによる反逆のことです。今もなお、あの事件を引きずっていて、恨みがましく皮肉る民に対してモーセとアロンはどのように対応したのでしょうか。

主の命令はあなたは杖をとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、その目の前で〝岩に命じて〟水を出させなさいでした(20・8)。こうして岩の前に民を召集し、「モーセは手をあげ、〝杖で岩を二度打つと〟、水がたくさん湧き出たので、会衆とその家畜はともに飲んだ」のです(20・11)

神は岩に命じてといわれたのに、モーセは杖で岩を打ったのです。

天幕の建造では「神が言われたとおりに……」と何度もくり返されていたのに、さすがのモーセもこの時ばかりは御言通りに行いませんでした。モーセとしたことが、どうしたのでしょうか。

神は民をあわれんで水を出してくださったものの、御言通りにしなかったモーセとアロンに、冒頭の聖句のように「約束の地に入ることはできない」ことにされたのです。

くり返される民の不平や不満に耐えかねたモーセは、内心では怒りがこみあげていたのではないでしょうか。それが「岩を打つ」という行為になって現れたのかも知れません。というのも、モーセが民に向かって「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」といった口調の中に彼の怒りが感じられます。

聖書に「人の怒りは、神の義を全うするものではない」(ヤコブ1・20)とあるように、人が怒るのは、自分を正しいとするからです。つまり、怒りによって自分の義を全うしようというわけです。しかし、それは逆に、神の義を全うすることにならない。つまり、神の義をないがしろにします。

また、こうも考えられます。エジプトを出立した直後に水不足に陥ったことがありました。その時は、ホレブ岩を前にして、「杖を取って岩を打て」と神は命じられたのです。そして、その岩から水が湧き出ました(出17・6)

モーセは前回の場合と同じだと勘違いしたのかも知れません。以前はこうだったから今回も同じに違いない……と勝手に思い込むのではなく、日々神の御言に聴き従うことの大切を教えられます。

いずれにしても、出エジプトの立役者ともいえるモーセが約束の地に入れないなんて、神さま!それは厳しすぎませんか。我々には非情と思える神の定めですが、神の意図という大きな視点でこれを理解しなければなりません。

それはこうです。モーセは律法を象徴する人物です。その律法によるなら、一点一画でも間違いがあるなら、それは律法に違反したのです。そのような「律法」によって天国に入ろうとするなら、誰も入ることはできないことを、この出来事は予表しています。

また、モーセの死後ヨシュアが民を率いてカナンの地に入りました。このヨシュアという名はイエスと同じ語です。律法ではなくヨシュア(イエス)によって天国に入って行くことを予表しています。

モーセ個人としては悲しい出来事ですが、それを用いて神は、新約で実現する真理と恵みを預言なさっています。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理とはイエス・キリストを通して現れた(ヨハネ1・17)と言われているとおりです。このために自分の失敗が用いられたとすれば、律法の象徴とされたモーセとしても本望ではないでしょうか。


民数記 19章

2024年05月16日 | 民数記
民数記 19章
その雌牛の灰を集め、宿営の外の清い所にたくわえておかなければならない。これはイスラエルの人々の会衆のため、汚れを清める水をつくるために備えるものであって、罪を清めるものである。
(19・9)


死体に触れる者は汚れるとされ、そのきよめのためにはレビ記で詳しく述べられています。しかし、民数記で再度述べられているのは、先のコラたちの反乱によって多くの人々が死んだからでしょう。

約1万5千人もの死者があったのですから、その葬りのためにイスラエルのほとんどの民が関わることになり、そのためのきよめが必要とされたからだと思われます。

内容をまとめるなら、きよめのために雌牛を焼いて灰にして、その灰によってきよめよと命じられたのです。

その雌牛は「赤い」「完全で傷のない」「くびきを負ったことのない」雌牛であると指定されています。また、牛を焼いて灰にする際に、香柏の木(杉の木)とヒソプ(植物の一種)と緋色の糸と一緒にして燃すとされています(16・6)

このきよめには、イエス・キリストによる犠牲の血を想起させる事柄が表されています。

赤いとか緋色は犠牲の血を表しています。完全で傷のないとは罪のない神の義なるお方を表しています。くびきを負ったことのないとは、この雌牛がこの犠牲のためだけに用意されたことを意味しています。

なぜ雌牛なのでしょうか。雌牛はいのちを産み出すという意味で、イエス・キリストの犠牲によって永遠のいのちを生み出す結果になることを表しているのかもしれません。また、杉の木(香柏の木)はキリストがつけられた十字架の木を想起させます。

ヒソプはきよめを表す植物として用いられました。このようにして雌牛が焼かれ、灰を集めてきよめのために用いられました。その灰を水に溶かして振りかけたようです(9節後半)。

では、なぜにするのでしょうか。

押さえておくべきことは、「いけにえの血が罪をきよめる」のが基本です。

しかし、毎回、動物を屠って流すことは実際的ではありません。しかも、多くの遺体を葬らなければならない状況下にあります。

そこで私見ですが、赤毛の雌牛の灰をもって、その中にきよめの血が凝縮されていると見なされたのではないでしょうか。灰を常備しておき、きよめが必要になると水で溶いてきよめのために使用したのだと思われます。

低俗なたとえですが、コーヒー豆を焙煎してミルで引いてコーヒーを淹れますが、普段は顆粒状のインスタントコーヒーにお湯を注いでコーヒーにするみたいに……です。

もちろん、これはやがて来たらんとするイエス・キリストの十字架の血によるきよめを暗示していました。ですから、ヘブル人への手紙では、この灰について次のように述べられています。

もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、私たちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。(ヘブル9・13~14)

いまや本物の血によって、私たちはきよめられ、ゆるされるのです。


民数記 18章

2024年05月15日 | 民数記
民数記 18章
あなたはイスラエルの人々の地の内に嗣業を持ってはならない。また彼らの内に何の分をも持ってはならない。彼らの内にあって、わたしがあなたの分であり、あなたの嗣業である。
(18・20)


アロンの杖にしるしが現れたことにより、アロンとその子らこそ祭司職であり、レビ部族が幕屋での奉仕にたずさわることが明確に示されました。そこで、改めてアロンやその子らとレビ人の立場と奉仕、並びに報酬が再確認されました。

イスラエルの各部族は約束の地カナンに入って、各部族ごとの割り当て地が定められることになるのですが、それを聖書は嗣業と呼んでいます。 ※新改訳では「相続地」。単なる相続とか報酬の意味を越えた神からの使命という意味をこめて「嗣業」と翻訳するのがよい。

しかし、レビ人は土地を嗣業とすることが禁じられました。土地はないが、神ご自身が嗣業だと言われるのです。

神に仕える働きは、地上的な価値観では割の合わないことです。見えるものにではなく、見えないものに目をそそぐという価値観が必要です。嗣業が目に見える土地ではないと不安でしょうか。でも、土地よりもすばらしいものを所有するのです。しかも、永遠に受け継ぐのです。

聖書はこう言っています。御子を否定する者は父を持たず、御子を告白する者は、また父をも持つのである(Ⅰヨハネ2・23)。御子イエスを信じる者は、〝父なる神を持っている〟のだと。こうも言われています。

すべてキリストの教をとおり過ごして、それにとどまらない者は、神を持っていないのである。その教にとどまっている者は、父を持ち、また御子をも持つ。(Ⅱヨハネ1・9)
旧約のレビ人たち以上に、いま私たちは最高の嗣業を得ているのです。


民数記 17章

2024年05月14日 | 民数記
民数記 17章
その翌日、モーセが、あかしの幕屋に入って見ると、レビの家のために出したアロンの杖は芽をふき、つぼみを出し、花が咲いて、あめんどうの実を結んでいた。
(17・8)


なぜアロンが大祭司でありその家系が祭司職なのか。なぜ、アロン家以外のレビ人たちが幕屋の奉仕者なのか。このことに神みずからお応えになりました。

もちろん、今までの経緯をみるに、モーセが指導者の地位を力づくで奪い取ったわけではありません。また、アロンが大祭司になるために他者を蹴落としてその地位を得たのでもありません。神が選び定められたからです。しかし、今回の事件を機会に、神は明確なしるしをもって証しなさいました。

各部族の族長の名を刻んだ杖を12本とり、それをあかしの箱(契約の箱)の前に置きました。その杖から芽を出した者こそ、神が大祭司として選んだ者であることを示されたのです。

すると、翌朝、アロンの杖にだけあめんどうアーモンド)」の芽が出て、花が咲き、実を結んでいました。このしるしをもって、アロンが大祭司であることを疑う者はいなくなりました。

杖は「死んだ木」です。そんな死んだ木から芽が出て、花が咲き、実が結ぶなどあり得ないことです。だからこそ、神が与えられた明確な証拠です。

イエス・キリストも十字架で死なれました。杖のように死んだ木となられました。死んだ木から芽が出ないのと同様に、死人が復活することなどあり得ません。しかし、神は、イエスを死者の中から復活させられました。死んだ木も同然のイエスに、神はいのちを与えられました。永遠のいのちの芽を出し、永遠のいのちの花を咲かせ、永遠のいのちの実を結ばせなさいました。このイエス・キリストこそ、永遠の大祭司であるという明確な証拠です。

人々が「アロンの大祭司であること」を疑い不平を言って死ぬことがないようにと、神はアロンの杖に芽を出させてしるしとなさいました。

それと同じように、神は、イエス様こそ大祭司なるキリストであることの証拠に、彼を死人の中から復活させられました。そのようなしるしがあるにも関わらず、イエスをキリストと認めないなら、いのちを得る方法がありません。

「キリストであることのしるしを見せろ」との問いに対して、イエス様はヨナのしるしの他には何も与えられないと応えられました(マタイ16・1~4)。「ヨナのしるし」とは、ヨナが大魚に飲み込まれ、3日目に大魚の腹から出てきたことですが、それは、イエスの復活を指しています。

つまり、復活こそがしるしです。このしるし故に、イエスこそ真の大祭司であり、救い主であることの証しなのです。


民数記 16章

2024年05月13日 | 民数記
民数記 16章
レビの子たちよ、あなた方こそ分を越えている。
(16・7)


荒野における最も大きな混乱です。レビ人に属するコハテ族のコラを中心とする人々が、反乱をおこしたのです。総勢250人からなる反乱は、多くの民を巻き込むことになりました。

まず始めに注目すべきは、このような事態になった時、モーセは神の御前にひれ伏したことです。この16章では何度も「ひれ伏した」と記録されています(16・22、45)。また、先の反乱の時も、同様に彼はひれ伏しています(14・5)

民を鎮めるために立ち上がったり弁明する前に、まず神の御前にひれ伏すのです。相手に対して「なんだとっ!」と、烈火の如くやり合うのではなく、神の御前に謙そんであること。それが事態の収拾にあたって重要です。

さて、コラたちの反乱は、民の指導者として立てられているモーセと、大祭司として任命されているアロンの家系の者たちが、民を治めていることへの不満が理由でした。

コラはレビ人ですから幕屋で主なる神に仕える立場でした。ただ、コハテ族なので、幕屋の器具類を扱う立場であり常に祭司の補助役でした。

しかし、彼は自分の職分に不満でした。なぜアロンの家系だけが祭司職なのか。自分も祭司としての栄光ある働きをしたいと考えたのです。コラには、祭司の働きは華々しく見え、かたや自分の働きは地味で無価値なものに思えたのでしょうか。

そんなコラへの賛同者たちに、ルベン人のダタンやアビラムもいました。ルベン人はイスラエル12部族の中で長男の家系です。本来なら主導権を握るのはルベン族の我々だという自負心を満たすことのできない鬱憤もあったようです。

そんな利害関係が結びついて、イスラエルの中から多くの離反者が出ました。

カナンの地に入る約束も遠のき、荒野における旅の目的も曖昧になり、人々の歓心が神の御心ではなく自己実現であったり、肉なる野望へと移っていったのも、このような混乱を生み出した遠因でしょう。

キリスト教会もそうです。今は、天の御国へと向かう荒野の旅路であることを見失うと、教会内でつまらない肉なる争いごとをおこします。

そもそも、コラたちがおこした反乱には、サタン的な罪が背景にあります。天で神に仕えるべく天使であるのに、自分に与えられた職分に不満をいだいて、自分も神のように高く上げられようとしたのがサタンです。コラたちの言い分と同じです。

自分たちの地位職分を守ろうとせず、そのおるべき所を捨て去った御使たち(ユダ6)と聖書は言っています。サタンは自分に与えられた分を越えて高慢になった者です。

堕落とは何でしょうか。神が与えた職分を捨てることです。自分の分を越えて高ぶることです。

私たちは、人としての分を越えてはなりません。また、キリストの体の各肢体器官としての分を越えてはなりません。

神は、ある者をキリストの目、ある者をキリストの手、ある者をキリストの足として用いられます。それぞれの働きが組み合わさってキリストの体、キリストの姿になるように、私たちに各々の働きを与えてくださいました。

手が自己主張するために勝手に動き出して何の益になりますか。目が偉そうにして振る舞っても浮いてしまいます。足だからといって卑下して何もせずじっとしていますか。どれもこれも、各々の肢体器官の分を越えて混乱しているだけです。

違いがあってもその違いを認め、尊敬し、互いが組み合わさってキリストの姿をあらわすことこそ栄光ある目的です。

私たちの各自の働きが分に応じて祝され、満たされ、調和となりますように祈ります。


民数記 15章

2024年05月11日 | 民数記
民数記 15章
イスラエルの人々に命じて、代々その衣服のすその四隅にふさをつけ、そのふさを青ひもで、すその四隅につけさせなさい。
(15・38)


出エジプトした世代は荒野における40年間で死に絶え、新しい世代になって約束の地に入って行くことになるとの預言はすでに学んだとおりです。それを人々はどのように受け止めたのでしょうか。

ある人々は、自分の不信仰ゆえにカナンの地に入れなくなった愚かさを悔い改めつつ、その反省を次の世代に語り継ぎました。同じ轍を踏んではならないと教えつつ、信仰を継承しました。しかし、どうせ荒野で死ぬのだ。どうにでもなれ!と言わんばかりに、やけになった人々もあったでしょう。そんな親の元で育った次世代に、信仰は継承されたのでしょうか。

先の大失態を悔い改めて益に変えるのか、それとも更なる不信仰へと駆り立てるのか。問われています。その結果が次の16章で現れてきます。

それに先立ち15章では、同じ罪をおかす場合でも「あやまって」おかしてしまうのか、それとも「故意に」おかすのかということが取り上げられています。

「故意におかす」とは神への反逆です。そうしてはいけないと戒めています。安息日に薪を集めた者が殺されたのは、神への敵対心をむき出しにして、故意に罪をおかした事例であったと考えられます。

約束の実現が遠のいたことで、人々の心は律法を忘れがちになったことでしょう。そこで神は、律法を忘れないために、着物のすその四隅に青色の房を縫い付けるように命じられました。着物は日常的なものです。目にしない日がありません。ですから、青色の房を見る度に律法を思い出します。

新約の時代にも、私たちがイエスと共に歩むためには、着物の房に象徴されるような工夫があるとよいでしょう。毎日、御言を目にするような工夫です。毎日、祈りを意識するような工夫です。


民数記 14章

2024年05月10日 | 民数記
民数記 14章
あなた方の子どもたちを、わたしは導き入れよう。彼らはあなた方が拒んだ地を知るようになる。
(14・31 新改訳)


信仰とは何でしょう。それは、神の御言(約束)を信頼することです。神は、イスラエルの民に何と約束されたのですか。エジプトを出てカナンの地へ導き入れる……と約束されました。

その旅がいかなる道であろうとも、途中どんな事件や困難に遭遇しようとも、神が約束なさったのだから、必ずカナンの地に入ることができると信頼すること……それが信仰です。
カレブとヨシュアはそのような信仰を根拠に、入って行ってこの地を攻め取ろうと提案したのです。

しかし、反対者たちは信仰に立っていませんでした。神の約束を信頼していませんでした。たとえ天地が滅びようとも、神の御言はむなしく地に落ちることはないという神の御言への信頼を見失っていました。

神は、ご自分の言葉を信用しない人々を悲しまれます。信仰がなければ神を喜ばせることができない(ヘブル11・6)とは、神の御言を信頼する者を神は喜ばれるという意味です。

さて、冒頭の聖句が示すように、当時の20歳以上の人々は約束の地に入ることはできない。屍を荒野にさらすことになるが、その後の新しい世代が約束の地を受け継ぐことになると、主は言われました。

かくして40年間を荒野で過ごすことになり、世代が変わって新しくなった民が、ヨシュアとカレブに率いられて約束の地カナンに入ることになるのです。

この出来事は、新約において何を意味しているのでしょうか。

このことを、ある人は、罪の奴隷の地から「出エジプト」したものの、天国に入れずに途中で滅びてしまう人がいると考えます。つまり、イエス・キリストを信じて救いを受けたものの、誰しもが天国に入るわけではない。信仰生活の内容によっては天国に入ることができないということになります。

そう解釈するなら、イエス・キリストを信じて救いを受けるという福音は嘘になります。イエスを信じても、その後の努力が天国に入れるか否かを決定することになります。

それは違います。注目すべきは、イスラエルの〝新しい世代〟が約束の地に入ったことです。

新約の私たちは、イエスを信じて〝出エジプト〟しましたが、古い自分の考えや価値観や習慣が残っています。それが時々出てきてきて、あのイスラエルの民が嘆いたように「エジプトにもどりたい」という葛藤をもたらします。

でも、それは救われていないからではありません。むしろ逆で、救われているので葛藤が生じるのです。エジプトから出てきたとういう事実があるので、戻りたいという不信仰も働くのです。

しかし、私たちはこの葛藤に負けるわけには行きません。〝エジプト時代〟に培った価値観や習慣や考え方を、ひとつひとつ十字架につけて滅ぼし、新しいいのちへと生まれ変わって天国に入ります。

古い私という世代ではなく、キリストにある新しい私という世代になって約束の地である天国に入って行きます。肉なる自分は荒野で滅んで、御霊に属する新しい私が天国に入ります。この神の方法を忘れてはなりません。

今日も滅び行くべき「古い私」「肉なる自我」を示されることでしょう。その時は惜しげもなく十字架につけよう。いつでも〝肉〟を十字架に付けて滅ぼせるようにと、日々十字架を背負っているのです。


民数記 13章

2024年05月09日 | 民数記
民数記 13章
私たちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。私たちは必ず勝つことができます。
(13・30)


イスラエルの民は、神が導き入れると約束されたカナンの地のすぐそばにまで進んできました。いよいよ目の前はカナンです。その段階で、現地を調査するために12人を派遣しました。

イスラエルの12部族から各々ひとりが選出され、エフライム族からはホセア(後の名をヨシュア)、ユダ族からはカレブが派遣されました。

信仰は神を信頼して歩むことですが、神を信頼しているので、何もしなくても良いという意味ではありません。今回のように、現地の状況をしっかり調査します。十分な準備をします。神が導かれるのだからといって、何の準備や計画もせず、行き当たりばったりに進むことが信仰だと勘違いしてはなりません。準備の中にも神の知恵をいただき、計画する中にも神の導きを求めます。

さて、12人はカナンの地を探ってきました。そこは肥沃な土地でした。作物もたわわに実っていました。しかし、そこに住む住民は体も大きく堅固な町に住んでいました。

この状況をどのように見るか。信仰というめがねをかけて見るのか。それとも、疑いとか恐れというめがねをかけてみるのか。先発隊の12人の見方は真二つに分かれてしまいました。

カレブとヨシュアはこう見ました。私たちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。私たちは必ず勝つことができます(13・30)

しかし他の10人は違いました。私たちはその民のところへ攻めのぼることはできません。彼らは私たちよりも強いからです」。そして、彼らは否定的な情報を流布して民衆を惑わしました(13・31)

「私たちが行き巡って探った地は、そこに住む者を滅ぼす地です。またその所で私たちが見た民はみな背の高い人々です。私たちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。私たちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません」(13・32~33)

近年、情報リテラシーという語句を聞くようになりました。情報を読み解く能力という意味です。同じ情報でも、メディアによって報道の仕方が違います。何らかのバイアスがかかっています。政府が流す情報とフリージャーナリストが流す情報も違います。発信者の「こうなってほしい」「こっちに導こう」という意図が刷り込まれた報道をするので、それを読み解く能力が必要です。

まさに、残りの10人たちが流した情報はそれであって、バイアスがかかっていました。そんな情報を読み解く基準は神の御言であり、信仰という「めがね」をかけて見抜かなければなりません。

しかし、信仰とは、〝現実を甘く見る〟ことではありません。ヨシュアとカレブの目にも、カナンは難攻不落に見えました。しかし、彼らは信仰というめがねをとおして見ていました。

カナン人と比較して、自分たちはいなごのように小さい存在であることは事実ですが、その小さい者たちと共に、主なる神が進み行かれる情景が見えたに違いありません。

5つのパンと2匹の魚であることは事実です。しかし、それがイエス様の御手の中にあることが重要です。イエスの御手の中にあるなら、主はそれを幾倍にもして民を養われるからです。

信仰のめがねをかけるとき、私たちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐのです。


民数記 12章

2024年05月08日 | 民数記
民数記 12章
主はこれを聞かれた。
(12・2)


先には、民の中から不平不満が炎のように燃え上がりましたが、今度は最も身近なところからです。モーセの姉のミリアムと兄アロンはモーセを非難したのです。モーセはクシの女をめとっていたが、そのクシの女をめとったゆえをもって、ミリアムとアロンはモーセを非難したとあります(12・1)

モーセにはチッポラという異邦人の妻がいましたが、彼女が「クシの女」なのか、あるいはチッポラとは死別し、クシ人の女性をめとったのか定かではありません。いずれにせよ異邦人の女性がモーセの妻であることを、姉のミリアムは快く思っていなかったと思われます。

しかし、表面的にはモーセの妻のことを非難しているようですが、それは口実であって、その背後には「なぜモーセだけが神の御言を語るのか」というねたみが隠されていました。主はただモーセによって語られるのか。われわれによっても語られるのではないのかと、その本心が現れてきました(12・2)

このように、批判や非難には何か別な理由が隠されていることがあります。表面的にはまっとうな批判のように見えて、実はその奥に潜んでいるのは「ねたみ」や「やっかみ」であるかも知れません。

ですから、批判や非難に対して謙遜を失って感情的に対応してしまうと重要な情報や徴候を見落としてしまいます。

この場合、モーセは敵対しませんでした。感情的に対応しませんでした。それは、彼がその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていたからでした(12・3)。 ※新改訳では「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」と翻訳。

謙遜とは何でしょう。黙って反論せずぺこぺこして、非難が止むのを待つ姿ではありません。すべてが神のご支配の中にあることを認め、主を畏れることこそ本当の謙遜です。

ミリアムとアロンはモーセを非難しているようですが、聖書は主はこれを聞かれたと記しています。モーセも聞きましたが、もっと重要なことは〝主が聞かれた〟のです。

主が聞かれており、主が対処なさることを知って、私たちは謙遜でなければなりません。

話しは変わりますが、モーセは自分だけが預言者であるとは考えていませんでした。先の70人の長老たちにも聖霊が臨み、彼らが預言を語ったという話のくだりで、すべての民が聖霊によって預言できればよいのにと願っています(11・29)

大切なことは、主からゆだねられた賜物に忠実であることです。預言をする者であれば信仰の程度に応じて預言をし、奉仕をするものは奉仕をします。教える者は教え、寄附をする者は惜しみなく施すのです(ローマ12・6~8)

このような秩序と謙遜が求められます。互いの働きを認め尊敬し、仕え合うことこそ、旧約の民であれ新約の教会であれ大切なことです。

さて、神の特別な介入によって、ミリアムは一瞬にしてらい病(ツァラト)になってしまいました。なぜ、ミリアムだけだったのか。アロンは問われなかったのか。この問題はミリアムが主導してアロンを巻き込んだためであろうと思われます。

このような事態に至っても、モーセは敵対したミリアムのために執り成して祈りました。ざまぁ見ろと思いますか。卑しい心にはそんな思いが浮かんできますが、モーセにならって柔和で執り成す者であろう。


民数記 11章

2024年05月07日 | 民数記
民数記 11章
彼らの内に混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて言った。「ああ、肉が食べたい…。
(11・4)


何もない荒野でイスラエルの民は、毎朝、露のように降るマナという不思議な食物で養われていました。このマナは別名天からのパンと呼ばれ、このことは、神が語られる御言によって人は生きることの訓練でもありました(申命記8・2~3)

マナは淡泊な味であったため、人々はいろいろな調理方法で食していたようです(民11・7~9)。しかし、民はこのマナに飽きてしまい、不平や不満が出てきました。肉が食べたい。もっと他の食物がほしい。こんなことなら、エジプトから出てこなければよかった。エジプトには肉、魚、胡瓜、西瓜、ニラやニンニクもあったのに……と。

皆さんはどうでしょうか。神の御言に飽きてきたでしょうか。世の中には神を否定する言葉が沢山あります。聖書に疑いをいだかせる言葉。霊的生活より肉体を生かすことを優先する言葉。そんな言葉の方が刺激的で美味しく感じるでしょうか。

私たちはエジプトから出てきた者たちですが、エジプトが恋しくなることがあります。あぁエジプトはよかったなぁと、罪の奴隷であった時代をなつかしむこともあります。これは荒野における誘惑です。

何に根ざし何処に向かって生きるのか。これがあやふやだと、この手の誘惑に惑わされます。エジプトにもどろうとします。天国を目指す旅より、地上での栄華や繁栄を優先します。これは誘惑です。

私は何者なのかという自覚(アイデンティティー)が肝心です。私たちは罪の奴隷であったエジプト、即ちこの世から救い出されて、天国々籍の民、神の子どもとされた者たちです。

イスラエルの民はこの肝心な部分が揺らいでいたのです。その原因として彼らの内に混じってきていた者が激しい欲望にかられと記しています(11・4)

出エジプトの時、エジプトを出たのはイスラエル民族だけではありませんでした。数少ないエジプト人等の他民族も行動を共にしたようです。その人々のことを「混じってきた者」といっています。新共同訳では雑多な他国人と訳しています。

彼らは〝出エジプト〟に込められた神の意図をどれほど自覚していたでしょうか。自分は神の所有とされたこと、神の御心のために用いられる民であること、約束の地を目指す者であること。これらに同意したのでしょうか。この雑多な他国人たちはイスラエルと行動を共にしたものの、それは打算的な決断だったのです。エジプトに下される神の激しいさばきを目の当たりにして、イスラエルの神の側についた方が、分が良いと考えた人々です。

このような天国々籍の民としての自覚のない「雑多な他国人」の激しい欲望が、イスラエルの民を惑わし、影響を与え、大きな不平不満運動へと展開して行ったのです。

新約の教会も同じことが言えます。教会は、イエスをキリストと信じて、神の子どもとされた者たちの集まりです。天国に国籍があることを自覚し、誇りとし、天国を目指す者たちの集まりです。

この点がぼやけてしまうと、天に国籍のない人々の考えや不平や不満が教会の中で支配的になります。自分が何者であるかという自覚と誇りが、私たちの生活の基準となりますように祈ります。

さて、その後、神はうずらの大群を呼び寄せて、飽き足りるほどの肉をお与えになりました。民は大喜びで肉を喰らいました。しかし、神の御怒りによって疫病が発生し多くの民が死んでしまいました。

なぜ?と疑問符がともります。

一晩中働いても収穫のなかったペテロは、イエス様の御言に従って沖へ出て網をおろしてみたところ大量の魚が捕れたとき、彼は神への畏敬の念に満たされて悔い改めました。私は罪深い者です。主よ、私から離れてくださいと。

大量のうずら肉を前にした民に、ペテロのような悔い改めがありませんでした。「うぉ~肉だ!肉だ!」とあさましい食欲を満たすばかりでした。そんな民に対する神の御怒りであったのです。〝肉〟から始まって〝肉〟で終わる人々に対する警告です。

かたや、モーセと重荷を共にする長老70人には、神の霊が彼らの上に留まりました(11・16~17)。肉なる民もいれば、御霊によって生きようとする者たちもいました。新約の民である教会もまた同じです。

肉に属する者か。それとも御霊に属する者だろうか自問してみよう。


民数記 10章

2024年05月06日 | 民数記
民数記 10章
銀のラッパを二本つくりなさい。すなわち、打物造りとし、それで会衆を呼び集め、また宿営を進ませなさい。
(10・2)


イスラエルは旅人です。約束の地カナンを目指す旅人です。ですから、荒野における生活は約束の地に入るための準備期間です。同様に新約のクリスチャンたちも旅人です。天の御国を目指してこの地上での人生を旅人として歩んでいます。地上の生涯は天の御国に入るための大切な準備の期間です。

私たちは地上では旅人であって寄留者です。この地上に永住しようというのではありません。イエス様も、あなた方の住む場所を天に用意しに行くのだと約束して、天に昇られたのです。

そして、用意ができたなら、私たちを天に迎え入れるために、主イエスは再び来られるのです。この重要な約束を忘れて、この地上に永遠に住もうと固執してはなりません。

イスラエルの民にとって、荒野は定住する場所ではないことを神は示しておられます。幕屋に現れている雲が移動すれば、彼らはすべての荷物をまとめて移動しました。雲がとどまるときは、そこで宿営しました。

この移動に際して、神は、銀のラッパを吹き鳴らすように命じられました。このラッパは、移動以外にも種々の連絡手段として用いられました。そのことが10章の前半に記録されています。ラッパは様々な重要な場面で吹き鳴らされたわけです。

そして、新約に至って、天のラッパが鳴る時が来ると預言されています。

それは、主イエスが天からくだってこられる合図としてのラッパです。つまり、私たちの地上の旅を終えて、この地上を旅立つ合図です。

聖書は次のように記しています。「主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」(Ⅰテサ4・16~17)

それからもうひとつ。世に臨むさばきの合図としてのラッパです。黙示録では、7つのラッパが吹き鳴らされるたびに、神の御怒りのさばきが地上にくだる様子が預言されています。

雲の柱の動き(聖霊の導き)と天使たちのラッパの音に関心を持とう。それは目を覚まして祈る生活のことです。


民数記 9章

2024年05月04日 | 民数記
民数記 9章
すなわち、2月の14日の夕暮にそれを行い、種入れぬパンと苦菜を添えて、それを食べなければならない。
(9・11)


出エジプトしてから初めての過越しの祭が行われました。毎年1月14日の夕刻に持たれる祭で、イスラエル民族にとって最も重要な祭です。彼らのアイデンティティーとなる祭です。

そもそもイスラエル暦はエジプトを出た年が元年で、エジプトを出立する時の「過越し」があった月が、1月(正月)として定められているのですから、過越祭のもつ意味の重さはお分かりでしょう。

平たく言えばお正月のお祝いです。その祝いに参加できないということは、イスラエル人ではないに等しいほど、彼らにとっては重要な祭です。正月の祭である過越祭にあずかることで、自分が何者かを確認し、イスラエル人としての誇りと使命を新たにして1年を始めるのです。

ところが、律法の定めるところによって汚れた者とされた者たちは、過越祭にあずかれなかったのです。彼らは、この恵みから漏れてしまうのでしょうか。

民の訴えによって、神は道を開いてくださいました。それが、冒頭の聖句にあるように、2月14日に祝うわけですから、1ヶ月遅れの過越祭です。祭の儀式をそのまま同じようにしたのかは不明ですが、過越しの食事にあずかり、祝福を受けたのです。

私たちもやむを得ず礼拝に参加できないことがあります。聖餐式(過越しの食事が原型)にあずかれない時があります。だからといって、神から遠ざかる者にならないでください。

求める者には1ヶ月遅れの恵みがあることをお忘れなく。

私たちの教会では夕拝もあります。火曜礼拝もあります。木曜祈祷会もあります。家庭集会もあります。何らかのかたちで御言にあずかり、イエス・キリストにつながり、恵みの中にとどまり続ける工夫ができます。


民数記 8章

2024年05月03日 | 民数記
民数記 8章
アロンはレビ人を、イスラエル人からの奉献物として主の前にささげる。これは彼らが主の奉仕をするためである。
(新改訳 8・11)


レビ人が主に仕えるために、イスラエルの民全体の中から聖別され、神のものとなったことを、すでに3章で見てきました。あらためて、ここでレビ人を聖別するための詳細が記されています。

種々の儀式やささげ物があるのですが、冒頭の聖句では、〝レビ人自身が奉献物としてささげられる〟と記されています。ここに礼拝の本質が描かれています。

新約聖書に至っては次のように述べられています。あなた方のからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなた方のなすべき霊的な礼拝である(ローマ12・1)

礼拝は、神から何かを頂戴するために集うのでしょうか。もちろん、神は私たちに恵みを与え、祝福を与え、御子イエスのみならず、万物さえもお与えになるお方です。

しかし、それと同時に、礼拝とは自分自身を神に献げることです。

礼拝のことを英語では「worship」「service」といいます。後者のサービスとは「仕える」という意味からして、礼拝とは神に仕えること。そして、仕えるために自分自身をささげることを意味します。

献身こそ最高の礼拝であることを覚えよう。


民数記 7章

2024年05月02日 | 民数記
民数記 7章
あなたはこれを会見の幕屋の務に用いるために、彼らから受け取って、レビびとに、おのおのその務にしたがって、渡さなければならない。
(7・5)


幕屋が完成し、民からの祝いとして車(牛車)6台と、その車を引く雄牛12頭のささげ物がありました。神は、それを会見の幕屋の務に用いるために、レビ人に各々の務に従って渡すように命じられました。

レビ人の任務は先の4章で決められていました。コハテ氏族は幕屋の器具類の運搬と管理、ゲルション氏族は幕屋の布類の運搬と管理、メラリ氏族は幕屋の木材の運搬と管理でした。重量でいえばメラリ氏族の負担が大きく、土台まで管理するのですから土木関連の仕事です。その次に、重いのがゲルション氏族の布類といえるでしょう。

そこで、車と雄牛はどうなったかというと、メラリ氏族に車4台と雄牛8頭、ゲルション氏族には車2台と雄牛4頭。そして、コハテ氏族には与えられませんでした。なぜなら、コハテ氏族が担当する幕屋の器具類には竿を通すための輪っかや穴があって、そこに竿を通して肩にかついで運ぶのが原則だからです。ちょうど日本の御神輿のようにしてかつぎました。

私はなぜこのような任務なのか、人生なのかと釈然としない思いがありますか。でも、神はちゃんと見ておられて、レビの諸氏族のように、その人生や任務に応じて必要を満たされるのです。

一見して、聖所の器具を担当するコハテ族の働きは華やかです。かたや、土台や木材担当のメラリ族は地味です。各氏族ごとの違いに不満をいだいた人々もいたかもしれません。でも、神の目にはどの働きも大切です。キリストの体の各器官の形も働きも異なっていますが、不要な器官はありません。各器官に優劣はありません。むしろ、その違いが重要であり必要なのです。違う器官がバランス良く繋ぎ合わさってこそ体になるのです(Ⅰコリ12・12~27)

イスラエルの幕屋における奉仕も同じです。そして、神は必要に応じて、牛車の数を割り当てられました。配慮ある配分です。分に応じて、各自の働きをまっとうすることこそ、神の御前に正しいことです。

与えられた任務に忠実であろう。与えられた人生に忠実であろう。あのタラントを預かったしもべたちが、その務めに忠実であったように……。