朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

民数記 14章

2024年05月10日 | 民数記
民数記 14章
あなた方の子どもたちを、わたしは導き入れよう。彼らはあなた方が拒んだ地を知るようになる。
(14・31 新改訳)


信仰とは何でしょう。それは、神の御言(約束)を信頼することです。神は、イスラエルの民に何と約束されたのですか。エジプトを出てカナンの地へ導き入れる……と約束されました。

その旅がいかなる道であろうとも、途中どんな事件や困難に遭遇しようとも、神が約束なさったのだから、必ずカナンの地に入ることができると信頼すること……それが信仰です。
カレブとヨシュアはそのような信仰を根拠に、入って行ってこの地を攻め取ろうと提案したのです。

しかし、反対者たちは信仰に立っていませんでした。神の約束を信頼していませんでした。たとえ天地が滅びようとも、神の御言はむなしく地に落ちることはないという神の御言への信頼を見失っていました。

神は、ご自分の言葉を信用しない人々を悲しまれます。信仰がなければ神を喜ばせることができない(ヘブル11・6)とは、神の御言を信頼する者を神は喜ばれるという意味です。

さて、冒頭の聖句が示すように、当時の20歳以上の人々は約束の地に入ることはできない。屍を荒野にさらすことになるが、その後の新しい世代が約束の地を受け継ぐことになると、主は言われました。

かくして40年間を荒野で過ごすことになり、世代が変わって新しくなった民が、ヨシュアとカレブに率いられて約束の地カナンに入ることになるのです。

この出来事は、新約において何を意味しているのでしょうか。

このことを、ある人は、罪の奴隷の地から「出エジプト」したものの、天国に入れずに途中で滅びてしまう人がいると考えます。つまり、イエス・キリストを信じて救いを受けたものの、誰しもが天国に入るわけではない。信仰生活の内容によっては天国に入ることができないということになります。

そう解釈するなら、イエス・キリストを信じて救いを受けるという福音は嘘になります。イエスを信じても、その後の努力が天国に入れるか否かを決定することになります。

それは違います。注目すべきは、イスラエルの〝新しい世代〟が約束の地に入ったことです。

新約の私たちは、イエスを信じて〝出エジプト〟しましたが、古い自分の考えや価値観や習慣が残っています。それが時々出てきてきて、あのイスラエルの民が嘆いたように「エジプトにもどりたい」という葛藤をもたらします。

でも、それは救われていないからではありません。むしろ逆で、救われているので葛藤が生じるのです。エジプトから出てきたとういう事実があるので、戻りたいという不信仰も働くのです。

しかし、私たちはこの葛藤に負けるわけには行きません。〝エジプト時代〟に培った価値観や習慣や考え方を、ひとつひとつ十字架につけて滅ぼし、新しいいのちへと生まれ変わって天国に入ります。

古い私という世代ではなく、キリストにある新しい私という世代になって約束の地である天国に入って行きます。肉なる自分は荒野で滅んで、御霊に属する新しい私が天国に入ります。この神の方法を忘れてはなりません。

今日も滅び行くべき「古い私」「肉なる自我」を示されることでしょう。その時は惜しげもなく十字架につけよう。いつでも〝肉〟を十字架に付けて滅ぼせるようにと、日々十字架を背負っているのです。


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