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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

民数記 6章

2024年05月01日 | 民数記
民数記 6章
男または女が、主のものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合……、
(6・2)


第6章ではナジル人の誓願について記録されています。

「ナジル人」とは部族とか氏族のことではありません。ナジルとは「分離する」とか「聖別する」という意味の「ナーザル」という動詞から派生した言葉だといわれています。

つまり、何らかの誓願を神に願い出て、自分の決意を表すために、ぶどう酒やぶどうから作られた食物を口にしません。そして、髪を剃らないことで、自分を聖別する生き方をする人のことを「ナジル人」と呼んだのです。

神の働きはレビ人だけの特権ではありません。また、男性だけの働きでもありません。自ら信仰をもって神に願い出る者は、男でも女でも、ナジル人として自分を聖別し、整えることによって神に仕える働きが用意されていました。

このような人々は自発的な奉仕者です。

旧約で活躍した人物はレビ人以外にも多くあります。たとえば、サムソンは生まれながらのナジル人として、彼は髪に剃刀をあてませんでした。そのことによって、彼には神からの特別な力が注がれました。

また、預言者サムエルも、母胎にあるときから母ハンナによってナジル人として聖別の祈りがささげられました。彼には特別な預言の働き、霊的指導者としての働きが与えられました。

今日の私たちにも、自らを聖別して神の働きに捧げることができます。断酒をしたり、髪を切らないというのは、験を担ぐという意味ではなく、自分自身を世俗と区別する意味があります。

信仰のない人々と同じ生活や感覚や価値観のままで、神の働きをなすには少々無理があります。神の価値観、神の習慣、神の方法というものに、自分を合わせるという工夫が必要です。そのために、今まで常としてきたものを断つことによって、自らを神のものとして位置づけることは有益なことです。そんな工夫をもって、ご用にあたるなら幸いです。

かくして、現代のナジル人とは、信仰による自発的な献身者と言えるでしょう。


民数記 5章

2024年04月30日 | 民数記
民数記 5章
イスラエルの人々に命じて、重い皮膚病
ツァラトにかかっている者、漏出のある者、死体に触れて汚れた者をことごとく宿営の外に出しなさい。(5・2 新改訳)


なぜ、神は、このような非情なことを命じられるのでしょうか。この箇所のみならず、旧約聖書にはこのような厳しい命令が出てきます。神は、何を意図されているのでしょうか。

まず、抑えておくべきことは、旧約は新約に至るための予表(ひな型)だということです。新約が実際であって、旧約は新約の比喩として理解すべきです。

たとえば、旧約ではイスラエルが異教徒と戦争をします。それが新約の時代に、十字軍のように異教徒を滅ぼす戦争を意味しているのではありません。中世の時代はそう解釈して戦争を正当化しましたが、それは間違った戦争であったと私は考えています。旧約における戦争の記述は、新約における私たちの内なる偶像との闘いであり、闇の世の主権者である悪魔とかサタンと呼ばれる者たちとの闘いを表しています。

さて、話しをもどしましょう。当時のイスラエルは成人男子だけでも60万人規模の大所帯です。しかもテント暮らしです。そんな密集状態で伝染病が発生すれば、枯れ木に火がつくように被害は拡大しました。そういう意味からも、公衆衛生を保つことは重要な課題でした。そのために、厳しいようですが、宿営の外に出すという処置が必要でした。

もうひとつは、民にきよさを教えるためです。とはいえ、この場合、肉体の清さ(衛生的清さ)に重きがおかれていました。漏出の放置、重い皮膚病、死体に触れるといったことは衛生面で問題があります。しかし、死者が出た場合、当然ながら対応しなければなりません。そして、律法の規定通り、水で体をきよめて衛生的な対処をし、きよめの期間を他者と隔離して過ごしました。 ※2015年に西アフリカで発生したエボラ出血熱は、遺体の取り扱いがずさんであったことから大流行となった。

このように、肉体の衛生面でのきよさを通して、さらに霊的なきよさを学ぶように神は意図なさったのです。ここから学ぶべきことは内なる霊魂の清さです。罪から遠ざかる清さです。

新約にいたって、イエス様は、外側(肉体、見た目)はきよめても、それは白く塗られた墓だと指摘なさいました。外側は白く塗られて綺麗だけれど、中身は死に至る罪で満ちている……と。

外側の手は水できよめて食事をしているが、本当に人を汚すものは、口に入るものではなくて、口から出るもの、即ち、罪に満ちた内なる霊魂から出るものが人を汚すのです。

ですから、旧約の人々が、重い皮膚病や漏出の者や死人に触れて汚れた人々を宿営の外に追いやったように、新約の私たちは、日ごとの罪を告白し、私たちの内側から罪を追い出します。

また、罪から離れようとせず、忠告を受け入れようともしない者を、教会の交わりから出さなければなりません。

コリント教会には、姦淫の罪を改めようとしない者がいましたが、その者を除くように命じています。このような悪質な罪を放置しておくなら、パン種がパン全体をふくらませるように、教会全体に悪影響を及ぼすからです(Ⅰコリント5章)

実際にそのような場合は希であろうと思いますが、そうなる前に、互いが愛をもって戒め合い、信徒同士のきよい交わりがなされることが肝心です。


民数記 4章

2024年04月29日 | 民数記
民数記 4章
庭の回りの柱と、その台座、釘、ひも、これらの用具と、その奉仕に使うすべての物である。あなた方は彼らが担う任務のある用具を名指して割り当てなければならない。
(4・32)


先の3章では、幕屋で直接仕え奉仕するためにレビ人が聖別されました。第4章ではその働きの詳細が記録されています。レビ人の各氏族ごと、各自に至るまで働きが及びました。

「幕屋」とはテントでできた神殿のことです。荒野における神殿ですから、一箇所に定住するわけではありません。移動することもあります。そういう時は、分解し手分けして移動しました。第4章には、その分担が記されています。

分担は移動の時だけでなく、日頃の清掃やメンテナンスの分担でもあったと考えられます。ここで注目したいのは、その分担には「契約の箱」の担当からはじまって、冒頭の聖句のように、ひもとか釘1本に至るまで大切にされ、また、それを担当する奉仕者が名指しで割り当てられたことです。

これは新約の教会の姿にも共通しています。釘1本もおろそかにされない神は、教会で仕える聖徒たちの小さな働きさえも覚えておられるのです。

ある人は清掃かもしれません。清掃の中でも、この部屋のこの箇所はいつも気にかけている……という奉仕があるかもしれません。目立たない奉仕もあります。執り成しの祈り、トラクトの配付、手紙を書く、友や病人への訪問……様々です。

それらは〝釘1本ほどの奉仕〟かもしれません。あなたに神が名指しでお与えになった奉仕があります。大切な働きです。あなどることなく、誠実に仕える人は幸いです。


民数記 3章

2024年04月27日 | 民数記
民数記 3章
わたしは、イスラエルの人々のうちの初めに生れたすべての初子の代りに、レビびとをイスラエルの人々のうちから取るであろう。レビびとは、わたしのものとなるであろう。
(3・12)


イスラエルの部族の中で「レビ人」は神のものとして取り分けられました。もちろん、大きな意味ではイスラエルの民全体が神のものですが、レビ人は、幕屋で直接神に仕える民として区別されました。

冒頭の聖句の初子とは何を意味するのでしょう。 ※初子とは「初めて生まれた子」のこと。

事の発端は、エジプトを脱出する前夜、あの過越しの事件があったことを思い出してください。その夜、神はエジプト中の初子――人であれ家畜であれ全ての初子――のいのちを奪われました。

エジプト在住のイスラエルも例外ではありません。しかし、彼らは初子の身代わりに小羊を屠っていのちを捧げ、そのしるしに小羊の血を玄関に塗りました。そのことによって、死のさばきはイスラエルの家を過ぎ越して行きました。

本来ならば、イスラエルの初子も死んでいたはずです。しかし、身代わりの死があったので、イスラエルの初子は死ななかったのです。 ※これは、やがてイエス・キリストが人類の身代わりに死なれることによって、死のさばきは、イエス・キリストの血を塗られた民を過ぎ越して行くことの預言となっている。

身代わりの小羊が殺されたお陰で死なずに済んだイスラエル人の初子は、神の所有であると宣言なさっているわけです。小羊の血であがない取った神のものだという意味です。とはいえ、全イスラエルの初子を神のものとなさるのではなく、レビ人をその初子の代わりに神のものとなさると冒頭の聖句は宣言しているわけです。

イエス・キリストの死は全ての人類の死の身代わりです。でも、イエス様が私の代わりに死んでくださったので、「あぁ~やれやれ、あとは自分の好きなように生きよう」というのでしょうか。神がレビ人を初子の代わりに取られたように、イエスを信じる民を、全人類の初子として神のものとなさったのです。

こうして、神に仕え、神に奉仕する者として、彼らを区別なさったのです。神の選びと働きに召された者は幸いです。


民数記 2章

2024年04月26日 | 民数記
民数記 2章
イスラエルの人々は、おのおのその部隊の旗のもとに、その父祖の家の旗印にしたがって宿営しなければならない。また会見の幕屋のまわりに、それに向かって宿営しなければならない。
(2・2)


荒野におけるイスラエルの人々の宿営地は、各部族ごと、各父祖ごとに整然と並んでいました。興味のある方は、民数記の記述をもとに図を書いてご覧になると明確です。

さて、おのおのの宿営地はすべてが幕屋に向かっていました。

幕屋とは、神が住まわれる所です。正確には「神の御名」が置かれている所です。神の御名がある所……それは、神が臨在なさる所と言っても間違いではありません。

こうして人々は幕屋を中心に生活したのです。

私たちの生活の中心はどこにあるりますか。職場やビジネスですか。家庭での家事や育児ですか。もちろん、そのために多くの時間を費やしますが、だからといって、それが中心ではありません。

神を礼拝すべく幕屋、「祈りの家」と唱えられる幕屋が中心です。それは神への礼拝です。もちろん、多くの時間は仕事や家事や子育てに費やしていますが、中心は「神への礼拝」です。

この中心をずらしてはなりません。この中心……つまりフォーカスをずらしてはなりません。フォーカスをずらすとピンぼけの写真のように、何が写っているのか分からないような人生です。礼拝を疎かにして、ピンボケ人生になってはいけません。

イスラエルの人々が幕屋を中心に宿営したように、新約の私たちは神への礼拝を中心に据えよう。


民数記 1章

2024年04月25日 | 民数記
民数記 1章
イスラエルのうちで、すべて戦争に出ることのできる二十歳以上の者を、あなたとアロンとは、その部隊にしたがって数えなければならない。
(1・3)


「民数記」とは読んで字のごとく、民の数を数えたことから名づけられた書名です。

先の出エジプト記は幕屋が完成した時点で終わっていました。時は、エジプトを出立して1年が経過していました。こう記されています。「第2年の正月になって、その月の元日に幕屋は建った」(出40・17)

そして民数記はエジプトの国を出た次の年の2月1日に、主はシナイの荒野において、会見の幕屋でモーセに言われた(民1・1)とあるので、幕屋完成から1ヶ月後以降の記録です。

幕屋が完成し、律法が与えられ、生活の諸規定が定められ、いよいよ約束の地へ向かって旅を進めるわけですが、そこで神は、冒頭の聖句のように兵役に就くことのできる20歳以上の男子を数えるように命じられました。約束の地への旅には幾多の戦いがあり、その備えをするためです。

これは新約の私たちにとって何を意味しているのでしょうか。

イスラエルの民が約束の地に向かって旅をすることは、新約の私たちが天の御国に向かって地上生涯を生きることの予表なのですが、民数記の記事を根拠にクリスチャンたちによる軍隊を編成するという意味ではありません。

新約の私たちの闘いは霊的な闘いです。聖書はこう記しています。

「私たちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」(エペソ6・12)

イスラエルの民の行く手を異教徒たちが阻んだように、新約の私たちの旅路を妨害するのは、闇の世の主権者である悪魔やその手下たちです。

ですから、救いの兜をかぶり、正義の胸当てをつけて、御言の剣をとって戦うようにと命令しています。悪魔を恐れてはいけませんが、しかし、あなどってもなりません。

私たちはその戦いの用意ができているでしょうか。20歳以上の男――新約では男女の区別はない――に数えられる成長をなしているだろうか。主の闘いのために間に合うものとなれるよう祈ろう。


民数記36章

2021年04月22日 | 民数記

民数記36:8 そうすればイスラエルの人々は、おのおのその父祖の嗣業を保つことができる。

嗣業の割り当てにあたって、ある父祖の家には後継ぎである男子なく、嗣業が割り当てられないという事態が生じました。マナセ族のゼロペハデの娘たちはそのようなケースでした。

彼女たちは父祖の名を残すべく嗣業を与えてくれるようモーセに訴え、神はそれをよしとなさいました。その経緯は先の27章に述べられていました。

36章では、嗣業を割り当てられた娘たちは、他の部族に嫁いではならないと命じられています。他部族との婚姻によって嗣業の地が入り交じり、嗣業がうやむやになってしまわないためです。

このように、旧約の民は自分に与えられた嗣業を何としてでも守ろうとしました

新約の私たちも、神に仕えるべく嗣業を受けていますが、それが絶えてしまわないように、祈り、工夫します。 ※新約における嗣業とは信仰であり、その群れや地域といえるだろう。

ある人々は、子供たちにこの嗣業を受け継がせようと身悶えます。信仰は強制できないですから、涙の祈りなくしてはたすことができません。

また、ある人は、未信者の夫(妻)と嗣業を共にしようと日夜闘いの中にあります。また、ある人は、隣人や友人に伝道することによって、この嗣業を絶やすまいと愛をもって働きます。

また、キリスト教会も「嗣業」といえるでしょう。恵みキリスト教会はイエス様からいただいた高崎市中居町における嗣業です。この嗣業を絶やしてはならない。信仰の火を受け継ぐ牧師と聖徒たちを絶やしてはならないのです。

どうか、私たちの嗣業が天に至るまで脈々と受け継がれて行きますように。そのために、涙をもって種まく者たちに、喜びの収穫がありますように祈ります。

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