朝マナ

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民数記 20章

2024年05月17日 | 民数記
民数記 20章
主はモーセとアロンに言われた、「あなた方はわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができないであろう」。
(20・12)


荒野で水が枯渇しました。人々は水不足をモーセとアロンに訴えるとともに、こんな荒野に導いた彼らを責めました。

「先に我々の兄弟たちが主の前に死んだ時、我々も死んでいたらよかったものを。なぜ、あなた方は主の会衆をこの荒野に導いて、我々と我々の家畜とを、ここで死なせようとするのですか。」(20・3~4)

「先に我々の兄弟たちが云々……」とはコラによる反逆のことです。今もなお、あの事件を引きずっていて、恨みがましく皮肉る民に対してモーセとアロンはどのように対応したのでしょうか。

主の命令はあなたは杖をとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、その目の前で〝岩に命じて〟水を出させなさいでした(20・8)。こうして岩の前に民を召集し、「モーセは手をあげ、〝杖で岩を二度打つと〟、水がたくさん湧き出たので、会衆とその家畜はともに飲んだ」のです(20・11)

神は岩に命じてといわれたのに、モーセは杖で岩を打ったのです。

天幕の建造では「神が言われたとおりに……」と何度もくり返されていたのに、さすがのモーセもこの時ばかりは御言通りに行いませんでした。モーセとしたことが、どうしたのでしょうか。

神は民をあわれんで水を出してくださったものの、御言通りにしなかったモーセとアロンに、冒頭の聖句のように「約束の地に入ることはできない」ことにされたのです。

くり返される民の不平や不満に耐えかねたモーセは、内心では怒りがこみあげていたのではないでしょうか。それが「岩を打つ」という行為になって現れたのかも知れません。というのも、モーセが民に向かって「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」といった口調の中に彼の怒りが感じられます。

聖書に「人の怒りは、神の義を全うするものではない」(ヤコブ1・20)とあるように、人が怒るのは、自分を正しいとするからです。つまり、怒りによって自分の義を全うしようというわけです。しかし、それは逆に、神の義を全うすることにならない。つまり、神の義をないがしろにします。

また、こうも考えられます。エジプトを出立した直後に水不足に陥ったことがありました。その時は、ホレブ岩を前にして、「杖を取って岩を打て」と神は命じられたのです。そして、その岩から水が湧き出ました(出17・6)

モーセは前回の場合と同じだと勘違いしたのかも知れません。以前はこうだったから今回も同じに違いない……と勝手に思い込むのではなく、日々神の御言に聴き従うことの大切を教えられます。

いずれにしても、出エジプトの立役者ともいえるモーセが約束の地に入れないなんて、神さま!それは厳しすぎませんか。我々には非情と思える神の定めですが、神の意図という大きな視点でこれを理解しなければなりません。

それはこうです。モーセは律法を象徴する人物です。その律法によるなら、一点一画でも間違いがあるなら、それは律法に違反したのです。そのような「律法」によって天国に入ろうとするなら、誰も入ることはできないことを、この出来事は予表しています。

また、モーセの死後ヨシュアが民を率いてカナンの地に入りました。このヨシュアという名はイエスと同じ語です。律法ではなくヨシュア(イエス)によって天国に入って行くことを予表しています。

モーセ個人としては悲しい出来事ですが、それを用いて神は、新約で実現する真理と恵みを預言なさっています。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理とはイエス・キリストを通して現れた(ヨハネ1・17)と言われているとおりです。このために自分の失敗が用いられたとすれば、律法の象徴とされたモーセとしても本望ではないでしょうか。


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