一枚の “ 珈琲絵画 ”

2018-04-01 | 日記

          

先日、用で長岡市内に出て、長岡駅隣にあるド・トール・コ-ヒー店で、220円のアメリカンコーヒーで一枚の絵を描いたのがこの写真である。本を読みながら、そして絵が描きたくなって、いつも茶色の革鞄の中に入れて持ち歩いている “ Cotman ” のスケッチブックに描くのである。ペンのインク線を、コーヒーの液体で中指を濡らしてなぞって行くと、線がいいボカシになるのである。薄くコーヒー色のにじみがなんとも柔らかい。見ていた本のカットにあったジャコメッティ (1901-1966) の彫刻の写真が掲載されていたから、それは彫刻家の奥さんのアネットだったが、それをコーヒーカップのサイドに描き置くのである。紙の上では何を描こうと、どこに何を置こうと何も問題なし、である。ピカソは言う、

幸か不幸か、多分それは歓びなのだが、私はすべてものを好き勝手に画面に置く。果物の籠とあわないからといって好きな金髪娘を画面からオミットするような画描き、或いはまた絨毯と調子が合う為に、好きでもない林檎を常に描かなければならないというような画描きの運命は何と惨めなものだろう。私は気に入ったものは全部、画の中に描き入れる。描かれたものには気の毒だが、互いによろしくやって貰うほかはない。

と。ピカソ (1881-1973) の大胆さが表れている言葉だが、ここにピカソ絵画の生命があるのであって、絵画とは自由のことである、を実践したピカソの説得力をもった言葉である。読みながら思いつつ、描きながら考えつつ、一枚の “ 珈琲絵画 ” ができたのである。