窓辺

2017-06-16 | 日記

            

昨日は『 マイ・スキップ 』7月号の原稿締切日だった。先日の6月号のそれを提出してからで、かれこれもう一か月が立とうとしている。余りにも時間は早く通過して行くが、「人生は急がない」のがいい。

 


清音を聴く

2017-06-15 | 日記

       

夕方、草取りをしたという竹藪を見に行った。同級生のその家は谷川の清流が流れるほとりにあるから、川の流れる音が心地いいのだった。竹の直立する姿を見ていると、水の流れが竹の筒を通って聴こえてくるようなそういう錯覚を覚えるくらいに、流れは夕景と混然するのだった。帰りにはおみやげをもらった。僕が行く前に収穫したというネギと、サツマイモの煮物と蕗の煮物を丁寧に新聞紙に包んでくれた。今日も天気のいい日だった。

       よきひとよ、はかなからずや  うつくしきなれが乳ぶさも

       いとあまきそのくちびるも   手をとりて泣けるちかひも

       わがけふのかかるなげきも   うつり香の明日はきえつつ

       めぐりあふ後さへ知らず    よきひとよ、地上のものは

       切なくもはかなからずや。 ( 佐藤春夫著『 殉情詩集 』より「よきひとよ」)

 


『 パリ 1959 』

2017-06-14 | 日記

               

『ソール・ライターのすべて』より、この「パリ 1959」の写真を掲載する。きっと赤いコートを着ているであろうパリジェンヌが小さなテーブルで手紙か何かを書いている。テーブルには白いコーヒーカップが一つ。新聞は畳まれたままで、一心にペンを走らせている。抜き差しならない朝日の中の1959年のパリの街の一角である。ライターの写真の中でも、どうも気になる一枚である。何故だろう?

 


“ ケルン コンサート ”

2017-06-12 | 日記

             

今夜はキース・ジャレット (1945生) の「ケルン コンサート」(1975年の演奏)を聴く。解説書によると (野口久光解説) 、今回の演奏は全てインプロヴィゼーションであるという。ジャズの生命はこの即興演奏にあるといわれる。何を思い、何を見たか、そして何を感じたか。即興演奏は演奏家の演奏しているその瞬間のライフそのものである。1975年1月24日、ドイツの古都ケルンでの演奏会である。キースは言う、「ここに演奏されたものは、私が以前に一度も演奏しなかったものであり、今後もこの通り演奏するものではない。妙なカテゴリーにはめこまなければ、今までにつくられたことのない種類の音楽であり、やがて一般化されることが望ましい」と。29歳のキースは「ケルン コンサート」でとても美しい音楽を奏でていたのだった。モーツァルトのようなキース。

 


「積読」の美学

2017-06-11 | 日記

      

      

「積読」は「つんどく」と読む。本を買っても読まないで、ただ家に “ 積んで置くだけ ” 。買って来ても読まないのである。ということを「読む」にかこつけて「積読」と言うのである。従って、僕のツン読書は相当な多読であると思う。 “ 稀代の読書家 ” である、と言わなければならない。誇っていいのか、そうでないのか。ま、家の中はこの写真のように、こんなになっていることは僕としてはうまく説明できないが、母に言わせると「あたしゃ、死ぬようだ」と言う表現になる。しかし僕としてはとても居心地がいいのが一つの “ 難点 ” で、どんどん積読用の本がその高さを更新しているのである。母を騙しながらの積読である。

ところで、この積読は僕には一つの美学であるのだ。美学という言い訳をすれば、一つには本は最高のインテリアであること。デザインされた表紙のいい本はその表紙を見せて飾って置けば、絵画同様であることだ。そして気が向けばいつでも読むことができる。側に置いて置けばいつでも開くことができる。中身はもちろん一流の先生が書かれたものだから、一流が日々の生活に寄り添ってあることは、僕の背景を作ってくれるのである。読んでも読まなくても、ここに一流が居るのである。もし積読を犯して読んだとすれば、それこそ “ 出会い ” である。男と女の運命の出会いのように、人生の新しい運命が開かれるかも知れない、と言う期待。変わり映えのしない生活に、期待が有ると無いとでは、人生への面白さが違うのだ!  母よ、だから積読はやめられない。