日に日に陽ざしが強くなり、いよいよ春本番の様相となってきた。桜前線に限らず、これからの新緑の季節は、どこか宛もなく出掛けたくなるものだ。今年は何十年か振りに行ってみたい路線がいくつかある。もちろん人の動くGWは避けたいところだが、ある程度時間的余裕も必要になり、いつ実行に移せるのかチャンスを伺っているのである。一方で、現在花粉もピークを迎え、かつ感染症も気にかかる状況の中で、いかに毎日を快適に過ごすかという日常にも頭を抱えている。平穏な日々を送れるのはいったい何時になるのだろうか。
タブレット現役時代の八高線。いよいよそのシステムの廃止が迫り、鉄道ファンによる団体列車が走ったことがある。旧客使用という事だけで、もの好きなアントンKも当時出向いていた。イベント列車だからか、今でも何かと登場のDD51 842号機が当てられ、特別感に拍車がかかる。うららかな春の野山にデーデーのエンジン音が響き渡り、目の前を通過していく。あれから30年余り、平成の御召列車の大役を何度も熟し、未だ現役機であるDD51 842号機。そう思うと凄い機関車だと改めて考えさせられる。
1994-04-17 9235 DD51 842 旧客4両 JR東日本/八高線:竹沢にて
仕事で頻繁に群馬へと足を運んでいた時代。ちょうど国鉄時代から民営化され、全国的にも何から撮影しようかと試行錯誤していた頃だった。せっかく車で向かうのだからと、カメラを忍ばせ北へと急いでいた日々。もちろん本業には支障の出ないよう計画的に事を運び、あくまでも自然体で、そして日常の延長のような心持でカメラを構えていたことが懐かしく思い出される。始業までの時間が勝負時間で、とにかく許す限り早朝から動き回った。もっとも回を重ねるごとに要領もわきまえてきて、効率も良くなってきたから不思議なものだった。ただ撮影地の発想が、高崎線と八高線、信越線くらいしか出来なかったことが少し悔しい。
掲載写真は、そんな行路で撮影した八高線の貨物列車。冬季の晴天の日は特に気合が入り、暗いうちから線路端を廻っていた。ここ八高線の北部から、三国連峰をはじめ谷川、榛名、浅間、妙義、赤城まで見渡せた記憶が蘇ってくる。当時、全国的に活躍していたDD51の貨物列車では、今一つ萌えなかったが、冬場の美しい朝日を浴びたDD51は別次元の輝きがあり好きだった。フィルム時代だから、現在のように撮影結果は直後には不明だが、確実な手ごたえの有無は解る。思い通りいけば、その日は大安吉日。運休、あるいは単機、または直前の陰りを食らった場合は、その日一日大人しくしていたはず。そんな単純な日々を送れていたことが、今更ながら微笑ましい。
1997-02-14 5292 DD51 813 JR東日本/八高線:用土付近
前述の続きになってしまうが、今回のダイヤ改正では、知らぬまま数を減らしフェードアウトしていく車両達もあるようだ。普段からあまり気にも留めていないから、気が付いた時には再会には間に合わず、過去を遡ることとなる。そんな中から今回は、石巻線で活躍していたDE10ディーゼル機関車を掲載。
後継機関車であるDD200が早々にデビューし、お仲間からはDE10も毛嫌いしないで機会を見付けて置けば、とアドバイスは散々頂いていたが、やはり若い頃からの印象は捨てられず、今までは自分に正直に行動してきた。気が付けば新鶴見区のデーテンでさえ数台の配置、実際にはそのうちの2台しか稼働してないのだそう。機関区の奥を覗けば確かに、色落ちしたDE10が寂しそうに留置されているのがわかる。しかしアントンKも今さらという心境で、それなら新車のDD200の方が目新しくて撮影意欲が沸いてきてしまうのであった。
DE10の思い出と言えば、やはり陸羽東線経由で迂回していた、ブルトレ「あけぼの」を定期運転していたことが思い出される。期間限定だったこの迂回運転、とにかくDE10重連の走行写真は至難を極めた。もちろん夏至の前後に撮影は限られ、いくら天気予報を当てにしてもまず当たらず、数年にわたるチャレンジは涙を飲んだのだった。また当時は、団体臨時列車が毎月のように運転され、磐西や北上線、大船渡線などのローカル線入線時に出向いた思い出がある。いずれにしても、大した写真にはならず、この頃から臨時のようなイレギュラーより日常の列車へと興味が移っていったことが再確認できるのだ。
掲載写真は、被災地からのガレキ輸送に大活躍した石巻線のDE10 1719。臨時スジではなく、定期列車として運転されていたと記憶している。
2013-06-01 1650 DE10 1719 JR東日本/石巻線:上涌谷付近
先日、最新鋭のディーゼル機関車(DD200形)の撮影をしてみたが、同じ凸型ディーゼル機関車とは言っても、今までとは随分と印象が違うものだと思いながらシャッターを切っていた。アントンKにとって一番慣れ親しんだDLは、敢えて上げるのなら一番数が多かったDD51だろうか。とは言っても、凸型は昔から苦手な機関車で、撮りたくて出掛けたことは数えるくらいなはず。八高線に貨物列車があった時代には、よくカメラを向けたくらいで、特に思い入れが無かったためか、思い出は少ない。そんな中でも、北海道内を重連で爆走していた青いDD51には心惹かれるものがあった。やはりヘッドマークを掲げて長い寝台客車を牽く姿は、それまでのイメージを一新したと言ってもいいくらい、素直にカッコいいと呼べる被写体に感じたのだ。
そんな写欲をそそる列車たちも引退していき、今や凸型機関車は、どこにどんな列車で活躍しているのか、最近では分からなくなってしまった。新車や廃車の回送、工事列車の先頭に立ち、黙々と地味に余生を送っているのだろうか。これらにカメラを向ける気持ちにならず、今では傍観しているのみに収まってしまっていることに、ちょっと寂しさを感じている。
まだ高崎にいたDD51が元気だった時代の画像を掲載しておく。当時の吾妻線、臨時客車列車の入線となると、電化区間にも関わらずDD51がお供していたようだ。その昔、ここを走る団臨は、EF12やEF15のデッキ付きの茶色と決まっていたものだが、その時代から20年近くの歳月でディーゼル機関車に代わり、以降さらに20年の時間を置いて、今年は唯一残存していたここの工臨ですら消滅という事態に陥っている。さて、今後の高崎にいるDD51たちは、どんな処遇になるのかとても興味深い。
2000-12-19 9526 DD51 888 12系座敷やすらぎ編成 JR東日本/吾妻線:祖母島付近