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あみの3ブログ

ラーメン食べ歩きとお城歩き、その他感動したことを写真で綴る雑記帳
更新は不定期です

金沢城・兼六園ライトアップ 2022年11月25日

2022-11-26 05:56:34 | 城歩き
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【金沢城・兼六園ライトアップ】

四季物語り「秋の段」
入園無料(11月27日まで)
11月月26・27日には金沢城五十間長屋前で、今年最後の「五彩提灯回遊路」が開催されます。


【金沢城】

鼠多門櫓・鼠多門橋





玉泉院庭園
三十間長屋と石垣


色紙短冊積石垣


三十間長屋と極楽橋


五十間長屋・橋爪門


石川門


本丸石垣
お堀通り辰巳櫓




【兼六園】

徽軫灯籠


霞ヶ池と唐崎松の雪吊り








霞ヶ池と内橋亭





栄螺山より







【金沢城】
《多聞が巡り隅櫓並び建つ加賀百万石の大城》

名称(別名);
所在地;金沢市丸の内
城地種類;平山城
築城年代;天正8年(1580)、天正11年(1583)
築城者;佐久間盛政、前田利家
主な城主;佐久間氏、前田氏
文化財区分;平成20年金沢城址として国史跡
近年の主な復元等;平成13年に菱櫓、五十軒長屋、橋爪門続櫓、橋爪一の門、
平成22年に河北門、いもり塀を復元、平成27年に橋爪二の門を復元、玉泉院丸庭園を整備
天守の現状、形態;
追記:兼六園は金沢城の外郭庭園として五代藩主綱紀が作庭、以後さらに整備され江戸時代を代表する大名庭園で、
水戸の偕楽園、岡山の後楽園と並んで「日本三名園」のひとつに数えられている
※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)


地図;



金沢城@石川県金沢市 2022年11月19日

2022-11-20 15:04:52 | 城歩き
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日本100名城・国指定史跡・重要文化財
金沢城
石川県金沢市
2022年10月15日より「金沢城御城印」が発売となりました。
場所は金沢城公園 五十間長屋入場券売り場。
金沢城の御城印と紅葉をを求めて訪れると、重要文化財(石川門・鶴丸倉庫・三十間長屋)の特別公開が行われており、一度で三度美味しい(笑)素晴らしい一日となりました。
石川門の枡形虎口を俯瞰するなんて、初めて見る景色に感動でした(^^)/
兼六園と金沢城のライトアップもやってますよ~


♪重要文化財特別公開♪

★菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓(平成13年7月復元)




★石川門(重要文化財)
石川櫓


一の門(高麗門) 枡形


二の門(櫓門)


石川門潜り戸


石川門特別公開 続櫓格子からの紅葉




★鼠多門・鼠多門橋(令和2年7月復元)




★三十間長屋(重要文化財)


三十間長屋特別公開




★極楽橋





★鶴丸倉庫(重要文化財)







鶴丸倉庫特別公開 格子窓からの本丸石垣




♪紅葉♪

鶴の丸広場横の紅葉と落ち葉



色紙短冊積み石垣横石垣



丑寅櫓石垣と紅葉



乾櫓横・本丸石垣のレンガトンネル



玉泉院丸庭園(平成27年3月完成)からの色紙短冊積み石垣




おまけ
しいのき迎賓館周辺





金沢城二の丸御殿復元計画
現在二の丸では発掘調査が行われている最中です。


礎石の跡が発掘調査により明らかになりました。
朝日新聞記事より→こちら





兼六園ライトアップ・無料開放
11月3日~27日 
18:30~20:45



金沢城公園ライトアップ
毎日、日没から午後9時まで


【御城印】
「辰巳用水」と「なまこ壁」の2種類
販売所は五十間長屋内入場券販売所




【金沢城】
《多聞が巡り隅櫓並び建つ加賀百万石の大城》

名称(別名);
所在地;金沢市丸の内
城地種類;平山城
築城年代;天正8年(1580)、天正11年(1583)
築城者;佐久間盛政、前田利家
主な城主;佐久間氏、前田氏
文化財区分;平成20年金沢城址として国史跡
近年の主な復元等;平成13年に菱櫓、五十軒長屋、橋爪門続櫓、橋爪一の門、
平成22年に河北門、いもり塀を復元、平成27年に橋爪二の門を復元、玉泉院丸庭園を整備
天守の現状、形態;
追記:兼六園は金沢城の外郭庭園として五代藩主綱紀が作庭、以後さらに整備され江戸時代を代表する大名庭園で、
水戸の偕楽園、岡山の後楽園と並んで「日本三名園」のひとつに数えられている
※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)


地図;


高原諏訪城・江馬氏舘@岐阜県飛騨市神岡町 2022年11月6日

2022-11-16 09:08:02 | 城歩き
お城検索は→こちら

高原諏訪城は、下館跡の背後にある規模の大きな山城です。城の南裾において、山之村道が上宝村から分岐し、山之村で鎌倉(有峰)街道と連絡しています。江馬氏の本拠地である殿段丘を見下ろすとともに、周辺の山城と連絡し、越中方面の峠を監視する立地となっています。その立地や規模から、江馬氏の本城であったと考えられますが、築城年代・築城者共に不明です。
 天正10年(1582)の八日町合戦で当主の江馬輝盛が討たれると、高原諏訪城は三木氏方であった、小島城主・小島時光に攻められて落城してします。その後も江馬氏は滅亡せず、活動は認められていますが、古川盆地の城跡に見られるような石垣の多用や枡形虎口の利用といった、その後の改修の痕跡は認められず、江馬氏が構築した戦国時代の山城の様相が色濃く残っています。
 地元で通称「一本松」と呼ばれている山の高台が主郭で、城の仲秋区画であったと考えられます。その主郭を取り巻くように帯曲輪が巡っています。また、北尾根の延長に巨大な堀切や竪堀を連続して設け、尾根筋からの攻撃に備えています。主郭の南方にも巨大な堀切を設け、その先にも平坦地があり、さらに尾根の先端にも巨大な堀切と竪堀を設けています。
 この山城の最大の特徴が、これらの各区画を区切るように構築されている巨大な堀切や長大な竪堀です。大規模な戦国時代の土木工事の跡を今も体感することができる飛騨有数の山城です。飛騨市教育委員会・飛騨市山城マップ江馬編より


場所は岐阜県飛騨市神岡町和佐保



道の駅スカイドーム・神岡から史跡江馬氏舘前を通り500m程行くと県道484号線と交差しますので、大きく左手前方向の山に登る道に入ります。山腹をS字カーブが連なり、高圧送電線の鉄塔が見える辺りのヘアピンを曲がったところにカーブミラーがあります。その根元付近に「史跡江馬氏城舘跡・高原諏訪城跡」と書いた白い標柱が建っています。
そこが県道からの入り口となります。





ここで当日の行程を縄張り図で示します。
飛騨市教育委員会、、、飛騨の山城マップ江馬氏編より(北が上になるよう変換してあります。ブログ管理者加筆)



ヤマップの行動履歴と照らし合わせてみます。



登城口から数分で北尾根の二重堀切に突入。
庫尾根の両側には長大な竪堀が彫り込まれています。


二重堀切俯瞰



同掘り部分と土塁部分 中央にお地蔵さんが鎮座


二重堀切1断面



二重堀切2断面


北尾根の削平地
見張り台のように眼下に堀切を望む位置



主郭北側堀切



主郭台地
今回訪問した「野口城」「小島城」に共通した盛り土状の遺構。不思議な形です。


主郭を取り巻くような左右に配置された帯曲輪。



主郭削平地
休憩所が建てられ、現地説明板が設置されています。


城址碑


主郭からの眺望
写真右下に「江馬氏舘」が写っています。




主郭帯曲輪から南尾根
縄張り図にある東側尾根の遺構を確認するために崖を降りてみましたが藪と急な崖に阻まれ行きつくことができませんでした。



南尾根堀切


同断面



南尾根先端の堀切と竪堀





【高原諏訪城】
《たかはらすわじょう》

名称(別名);旭日城,江馬城
所在地;岐阜県飛騨市神岡町和佐保
城地種類;山城
標高/比高;622m/170m
築城年代;不明
廃城年代;天正10年(1582)
築城者;江馬時経
主な改修者;江馬氏
主な城主;江馬氏
文化財区分;国指定史跡(「江馬氏城館跡」の1つ)
主な遺構;曲輪、土塁、堀
近年の主な復元等;
地図;





江馬氏館群遺構の中で「会所」と呼ばれる接見の間と「主門」「土塀」が復元されている。
背後の山に高原諏訪城がある。



発掘・復元された中庭の石庭は大名庭園として国の名勝に指定されている。
庭園越しの高原諏訪城




【江馬氏舘】
住所:岐阜県飛騨市神岡町殿573−1
地図:


【御城印】



販売所:道の駅 スカイドーム神岡
住所:岐阜県飛騨市神岡町夕陽ケ丘6
営業時間・定休日等:webページにて確認→こちら
地図:



小島城@岐阜県飛騨市古川町沼町 2022年11月6日

2022-11-15 10:29:08 | 城歩き
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小島城は姉小路三家の一角・小島氏の居城です。高原郷と小島郷を結ぶ神原峠の峠道が脇を通る要衝に位置し、高原郷からの敵の侵入を睨んでいます。
 小島氏は、三木氏の勢力が強くなるとそれに付き従い、天正10年(1582)の八日町合戦の直後、当主の小島時光は江馬氏の本拠・高原諏訪城に攻め入り落城させます。その折に手に入れた大般若経が、小島城の麓にある寿楽寺(古川町太江)に収められています。
 小島城には、石垣を使用した大規模な枡形虎口があり、算木積みの石垣がその背面に構築されています。これは「土造り」を基本とする旧来の飛騨の山城には見られないものです。そのため小島城も古川城と同じく金森氏が改修した可能性があります。小島氏は金森氏の飛騨侵攻の際に滅ぼされたと伝えられていますが、その後に入った金森氏が統一政権の威光を示すために臨時的に改修を加え利用した可能性が考えられます。飛騨市教育委員会・飛騨の山城マップ姉小路編より

場所は岐阜県飛騨市古川町沼町



国道41号線(国道472号線バイパス)中野交差点を左折、宮川に架かる「鮎之橋」を渡り、JR高山本線の踏切から250m程先にあるY字路を県道75号線方向に右折。
1.2Kmほど行くと「かあちゃんの店」が右手に見えます。


その交差点には「史跡小島城3Km]の案内看板が建っていますので案内通りに右折。


「奥飛騨田中牧場」の牛舎を通り


田んぼの中を山に向かって走る農道があります


突当りまで行くと害獣防止用の柵に行き当たります。
例によって自分で開閉し柵の中に入ったら戸締りを確認して、林道を山に向かって登ります。


途中一か所分岐があります。「右小島城」
カーブミラーの所に案内石碑が建っていますので見おとさないように。


林道の紅葉



程なくして城址駐車場に到着です。


城址遠景




ここで当日の行程を縄張り図で示します。

飛騨市教育委員会、、、飛騨の山城マップ姉小路編より(北が上になるよう変換してあります。ブログ管理者加筆)


ヤマップの行動履歴と照らし合わせてみます。





駐車場の看板がある辺りの真下におおきな堀切があります。



切岸を滑り落ちるように下へ降りてみました。
尾根から斜面に沿って深く長く彫り込まれています。
東側堀切断面


同西側断面




駐車場から主郭の方に向けて進んでいくと小山のような櫓台が見えます。



櫓台から駐車場方向
櫓台下郭「出丸」と右手には南尾根からの大手道
内枡形虎口がかろうじて見えますかね?(>_<)




櫓台
主郭方向より


櫓台頂上


櫓台からの眺望



櫓台から主郭方向



主郭には一段高くなった台地があります。現在は休憩所が建っており中には現地説明板が整備されています。
その台地の基礎部分に残る石積み。




主郭からの眺望




主郭下の段郭「二の丸」


段郭より主郭を見上げる



石垣が残る段郭「二の丸」先端
写真左が虎口で「内枡形虎口」を形成している。


段郭「二の丸」先端の石垣





同角石 算木積み



石垣が残る段郭から西側の尾根は急な崖となっておりロープが設置されています。
その斜面には崩れた石垣の一部と思われる石材が多数落下していました。




急な坂を降りると一転して緩やかな尾根道となる。


堀切


その先に不自然は高まり(櫓台?)と傾斜した通路、


その先に平坦地「三の丸」が広がる。



削平地「三の丸」から櫓台?方向
「小島古城」の石碑



西尾根先端の大堀切


同断面


同北側


この先は麓の杉崎口(登城口)に向けて遊歩道が設けられていました。


東西に延びる尾根上に連続的に築かれた曲輪。四方への広がりはないものの高低差を活かした城郭で麓の集落や街道からも目立ちます。
豊臣秀吉の命で飛騨統一に乗り込んだ金森長近は、近世城郭・石垣で威光を見せつけようとしたのかもしれません。
これは飛騨地方で石垣が残る城が、金森氏によるものであることを示しているようです。
「神岡城(東町城)」→こちら
「増島城」→こちら
「松倉城」→こちら
「高山城」→こちら




※参考、、、飛騨の山城マップ姉小路編、現地説明板他

【小島城】
《こじまじょう》

名称(別名);
所在地;岐阜県飛騨市古川町沼町
城地種類;山城
標高/比高;620m/120m
築城年代;南北朝時代?
廃城年代;
築城者;不明
主な改修者;姉小路小島氏、金森氏
主な城主;姉小路小島氏、金森氏
文化財区分;岐阜県指定史跡
主な遺構;石垣、土塁、郭、堀、櫓台(天守台)、虎口
近年の主な復元等;
地図;




野口城@岐阜県飛騨市古川町野口 2022年11月6日

2022-11-14 08:37:08 | 城歩き
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野口城は近世の地誌等でも城主が不明とされており、築城主に関する記録は伝わっていません。ところが立地的には、宮川沿いの越中西街道や数河峠がすぐ西で合流する場所で、向小島城や小鷹利城、古川城を望めます。西方面からの古川盆地への出入りを監視する重要な場所に位置します。このような立地から姉小路氏が築城した可能性が高いと考えられます。
 山の頂上には3か所の大きな曲輪が連なり、それを守るように堀切・竪堀・切岸と言った遺構があります。遺構からはダイナミックな飛騨の土づくりの城の様相を見ることができます。特徴的なのは、畝状空堀群とよばれる畑の畝のような連続した竪堀です。特に厳重に守りたい峠方向を中心に造られており、横堀を組み合わせて防衛力を増強しています。金森氏の侵攻に備えた三木氏の改修が考えられます。
 このように、歴史的にはなぞの多い野口城ですが、立地・遺構の規模に関しては、他の城跡に全くひけをとらない素晴らしい山城です。飛騨市教育委員会、、、飛騨市山城マップ・姉小路編より

場所は岐阜県飛騨市古川町野口
国道41号線と国道471号線が交差し、JR高山本線が並行して走る辺り。
富山からですと国道41号線、HOO古川・神岡線の「野口公民館前」バス停で側道を斜め右に入ります。国道41号線の高架下をくぐり、JR高山線と宮川を右手に見ながら野口の集落に入ります。集落の外れからお墓の脇を通って山へ登ると登城道入り口となります。



集落の奥に「野口城跡この先500m」「通り抜けはできません」という看板があり行く手を阻まれ躊躇していると


近所の御主人がやってきて『ここに車を停めていいよ』と教えてくれました。そこには『ご自由に駐車してください』という看板までありました。





さらにお墓の辺りで山に登る分岐まで案内してくださり、パンフレット(飛騨市教育委員会、、、飛騨市山城マップ・姉小路編)まで頂き感謝感激でした。お世話になりありがとうございました。



登城口には害獣対策の柵が設置して有り、例によって自分で開閉し最後はしっかり戸締りを確認して山の中に分け入ります。



登り始めて5分位で大きな竪堀が待ち構えています。



そこからさらに5分ほど登ると主郭に到着です。



ここで当日の行程を紹介します。
飛騨市教育委員会、、、飛騨市山城マップ・姉小路編より(北が上を向くように変換してあります)


ヤマップの行動履歴と照らし合わせてみます。



主郭中央部にはこんもりとした盛り土がありますが、これが天守台や櫓台だったのかはわかりません。



盛り土の頂上には小さなな祠が建っています。
祠から主郭北方向


同、南方向




主郭から西尾根の曲輪に向かうつもりですが、下へ降りる通路が見当たりません。5mほどある主郭切岸を滑り落ちるように下って尾根に出ました。
堀切


西の曲輪に向かう尾根



西曲輪南側の堀切


西曲輪の西側を時計回りに進むと
畝状空堀群がありました。



西曲輪北側の二重堀切






次に北側の曲輪に向かいます。
北曲輪、北側の尾根に施された三重堀切
先ずは手前の連続堀切


同断面1


同断面2


先端にある三番目の大堀切




北曲輪から東尾根へ


東尾根段郭


畝状空堀群


同、土塁と堀の組み合わせ


横堀を組み合わせて守りを厳重に固めています。



今回は万全を期してGPS機能の地図アプリ「ヤマップ」と目印テープを取り付けながらの移動でしたが、藪化した場所があり曲輪や尾根が明確ではなく迷う場面がありました。
特に北曲輪から東尾根に進み、戻ろうとした際帰り道を見失ってしまい焦りました。下って帰ると思い込んでいたのが失敗の原因でした。途中で気づきヤマップの軌跡を辿り、ようやく帰路に復帰できました。

根っからの方向音痴と、加齢による判断ミス。今後も注意しなければなりません(;^ω^)


※参考、、、飛騨市山城マップ・姉小路編、現地説明板、他

【野口城】
《のぐちじょう》

名称(別名);
所在地;岐阜県飛騨市古川町野口
城地種類;山城
標高/比高;566m/96m
築城年代;不明
廃城年代;
築城者;不明
主な改修者;不明
主な城主;吉川左衛門尉
文化財区分;市指定史跡
主な遺構;土塁,郭,堀
近年の主な復元等;
地図;


大和郡山城@奈良県大和郡山市 2022年10月22日

2022-11-13 06:59:43 | 城歩き
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和歌山・奈良お城めぐり まとめは→こちら

続日本100名城・奈良県指定史跡
大和郡山城(やまとこおりやまじょう)

天正6〜7年(1578~1579)に筒井順慶が縄張りを行い、同8年の一国一城令に基づき拡張、同11年には天守閣も完成を見た。同13年、豊臣秀長が入部してさらに拡張され、文禄5年(1596)には増田長盛による秋篠川の付け替えが行われ、外堀を一周させ、城下町の完成を見るに至った。
 関ケ原の合戦後、長盛が改易され、大阪夏の陣以降、水野勝成が、さらに松平、本多が入城し、享保9年(1724)以降、幕末まで、柳澤15万石の居城として栄えた。
 現在残る縄張りは、秀長時代のもので、左京堀、鰻堀、鷺堀で囲まれた本丸、二の丸、三の丸などが城内で、それ以外の外堀に囲まれた地域が城下となる。
奈良県教育委員会、、、現地説明板より

場所は奈良県大和郡山市城内町2
大和郡山市役所の目の前です。
近鉄郡山駅にも近く周辺にはいくつも駐車場がありますが、自分は「大和郡山市立三の丸駐車場」(奈良県大和郡山市南郡山町520−4)に停めて徒歩で城址に向かいました。




郡山城址案内絵図、、、観光協会作成



市役所前には「郡山城 頰當門跡」と反対側には「頬当門」があり、現在でも交差点に大きな石積みの櫓台が残っています。
城門を通って車や人が行き来する様は古都ならではの景観です。


市役所前には「大手堀」が残り、中堀・大手橋の欄干を見ることができます。(市役所周辺は工事中で正面に架かる橋からの入場はできませんでした)


同交差点、三の丸緑地方向



三の丸緑地を抜けて近鉄の踏切を渡り、


「五軒屋敷堀」に架かる橋を渡り、


「郡山城 鉃御門跡」から入城しました。
角石には巨石が使われています。



二の丸の中を貫通している生活道路で、クランクした狭い通りを車が頻繁に行き来しています。




かつてここに「表門」があった
二の丸に建つ「郡山高等学校」



最初に目指したのは「追手門」
鉄御門から両側の堀に挟まれた「陣甫郭跡」を通り、本丸北東隅方向に歩きました。
内堀と本丸南西隅石垣



「追手門向櫓」と「追手門」
豊臣秀長時代に築かれた追手門だが、関ケ原の戦い後城は破却され、建物のすべては伏見城に移された。その後入封した水野勝成、松平忠明が幕府直轄として荒廃した城の修築を進め、諸門は伏見城から再び郡山に移された。追手門もその一つで当時は「一庵丸門」と呼んでいたが、15万石で入封した柳沢吉里は「梅林門」と改名し明治維新で解体された。昭和に入り秀長時代姿で追手門が復元された。


石垣で囲まれた枡形虎口


復原された追手門は櫓門形式の格式の高い門でした。


「追手門向櫓」
追手門(梅林門)を守るための櫓で、本多氏時代(1639-1722)は大手先艮(うしとら)櫓と呼ばれていました。
昭和に入り復元されました。




城址会館も趣のある建物です。
旧奈良県立図書館




「東隅櫓」


「東隅多聞櫓」




「柳澤文庫」




「極楽橋」
左柳澤文庫、右白澤門


極楽橋から、堀を挟んで右手追手門方向、左手本丸天守台方向



極楽橋を渡ると白澤門が待ち構えている





「白澤門」




「竹林橋櫓跡」
搦手にあたり、二か所ある本丸入口の一つ
当時は内堀に木橋が架かっており、非常時には橋を落として本丸を守ったのかもしれません。



本丸石垣と内堀
天守から中仕切り門方向(西面)





「城址碑」



「柳澤神社」
藩祖柳澤吉保公を祀る神社。
五代将軍徳川綱吉の側用人で川越城主から甲府城主を経て15万石で郡山城主となり、柳澤氏は以来6代140年続き明治維新を迎えた。





「天守台」
本丸の北端部に位置し城内最高地。
南東側


東側登り口
明治時代に付けられたもの。発掘調査の結果、付櫓台からは地下を伴う築城時の入り口が確認されました。




転用石
逆さ地蔵
天守台石垣は野面積みで、自然石の他に石仏や礎石、墓石などの転用石が多く用いられている。逆さ地蔵は特に有名です。


「逆さ地蔵」お地蔵様


五輪塔の一部




左大天守、右小天守(付櫓)
発掘調査の結果、天守へは付櫓台南面から入り、付櫓内の半地下式階段を上がり、付櫓内から天守台南面の入り口を通って天守内に入っていたことが分かりました。



天守台展望施設



天守台より追手門
東方への眺望が開けており、遠くに東大寺や興福寺などが一望でき、大和の寺社勢力に睨みを効かせていたと思われます。



天守台の修復工事を記録した動画



筒井順慶が信長によって城主となったが、それよりも秀吉の弟・豊臣秀長が100万石で奈良を統治。強大な寺社勢力に壮大な城の威厳でにらみを利かせたことが印象深い。
転用石や金箔瓦など往時に思いをはせる材料が多いですね。
そして、市民の郡山城を強く感じることができました。



※参考、、、続日本100名城 公式ガイドブック・現地案内板・公式パンフレット他

【大和郡山城】
《大国大和の支配拠点》

名称(別名);やまとこおりやまじょう
所在地;奈良県大和郡山市城内町2
城地種類;平山城
築城年代;天正8年(1580)
築城者;筒井順慶
主な城主;筒井氏、豊臣氏、水野氏、松平氏、本多氏、柳澤氏
文化財区分;県指定史跡
近年の主な復元等;天守台石垣解体整備、展望デッキ整備、天守台・附け櫓台・周辺園路部舗装
         追手門、極楽橋
天守の現状、形態;天守台石垣現存

※出典、、、続日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
地図;



【御城印】



販売所:柳澤文庫
住所:大和郡山城内
開館時間:9時から17時
休館日:月曜日・第4火曜日、年末年始・お盆他

宇陀松山城@奈良県宇陀市大宇陀春日 2022年10月22日

2022-11-11 06:14:02 | 城歩き
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和歌山・奈良お城巡り まとめは→こちら


国指定史跡・続日本100名城
宇陀松山城(うだまつやまじょう)

天正13年(1585)以後に入部した豊臣家配下の大名により改修を受け、元和元年(1615)に取り壊されました。現在見受けられる城郭プランの大半はこの織豊期から江戸時代初期にかけてのものです。その構造は、主郭部(天守曲輪・本丸・帯曲輪・虎口曲輪・大御殿部)と二の丸で構成される中心曲輪群と、中心曲輪群の外側下を取り囲むように配される外縁部の曲輪群(御定番郭・御加番郭など)に大きく分かれます。
 中心曲輪群は総石垣で築かれ、大規模かつ巧緻な枡形虎口の構築、多聞櫓や本丸御殿などの礎石建物群、桐・菊紋瓦等の大量の瓦の使用など、織豊系城郭の特徴を良好に残しています。外延部の曲輪群の外側に設けられた横堀と堀切によって画された城域は、東西約400m、南北約250mの規模を持ち、西側の城下町からの比高は120~130mを測ります。
 また、宇陀松山城は、元和元年の城割の具体的状況が観察でき、幕府の城郭統制や中世から近世にかけての宇陀地域の城郭と城下町の在り方を考えていくうえで重要な城郭跡と言えます。宇陀市教育委員会、、、現地説明板より

場所は奈良県宇陀市大宇陀春日
国道166号線と同370号線が交わる「道の駅宇陀路大宇陀」(奈良県宇陀市大宇陀拾生714-1)の交差点を166号線菟田野町(うたのちょう)方向へ曲がり、一つ目の信号角に「まちかどラボ」(御城印販売所)があります。その次の路地を左に入ると宇陀松山城登城口になります。
駐車場が無いので「道の駅宇陀路大宇陀」に車を停めてそこから歩くことになりますが、「まちかどラボ」で御城印や資料を戴いたり、城下町を散策するのも良いと思います。
自分は先に「まちかどラボ」で御城印を買い求めたので、店主のご厚意でお店裏に駐車することができました。

城址は住宅街の裏山という感じで、コンクリートで舗装された道が城郭跡の真下まで伸びており、駐車場まで整備されていたようです。
そうなんです、何時の頃からかは分かりませんが、現在この道は一般車両進入禁止の歩道となっています。
その旧駐車場から城郭までがまた見事に整備され、手すりが付いて緩やかなスロープは車いすでも登れるくらいです。

「まちかどラボ」と奥に見えるのが「道の駅宇陀路大宇陀」


登城口から見下ろした城下町「まちかどラボ」方向


登城口は閉鎖中です(車両進入禁止)
ここから城址まで600m


旧駐車場と城郭に至る緩やかなスロープ



スロープは大きな現地説明板があるところまで続きますが、その先は未舗装の山道となります。

宇陀松山城図面、、、現地説明板より


古絵図、、、同


当日の行程、、、ヤマップより



現地説明板があるところから少し登ったところの右手、雑木林(吉野杉植林)の中に竪堀がありました。
ここには説明板がないので縄張り図が無いと見逃します。





また、その左手方向
南西虎口手前にある広い削平地とそれを取り巻く横堀ですが、こちらにも説明板はありません。
深い藪に包まれていますので、やはり分かっていないと足を踏み入れる勇気は湧きませんでした。



登城道を登って初めて目にするのが(目にできるw)「西御加番郭横堀」です。
こちらは登城口に接しているため、下草が刈り取られ整備の手が入っています。




本丸より俯瞰
方形に成形された削平地ということがわかります




「南西虎口部」(雀門跡)
南西虎口部は、中心郭群と城外との結節部を構成する要の位置を占めている。本丸前面に設けた虎口郭を軸に本丸・本丸西側下の御加番郭・帯部・城外縁部の4方向への通路が続く。構造は、城外郭の石垣線の折れと門を組み合わせることで大規模な外枡形の虎口空間を作り、さらにその内側上部に設けた虎口郭を第二の枡形空間とする複合的な在り方を示している。櫓台上には多聞櫓や隅櫓が構築されていたと考えられている。
雀門は礎石跡や規模から高麗門の可能性が高い。





角石




「虎口郭」

南西虎口部より虎口郭


本丸より俯瞰


石段


石垣


石垣拡大
鏡石か? 大きな石を小石(間詰石)で取り囲んでいるように見えます。


虎口枡形




「本丸」
本丸は東西50m、南北45mの広さを有する城内最大の郭である。西辺の中央に15m×10mの張出を持つ。本丸上には対面・接客などの儀礼空間としての本丸御殿が建つ。本丸御殿は「広間」を中心に「遠侍」、「家臣溜」「書院」「台所」の5棟からなる。
本丸御殿は檜皮ないしは杮葺きと推定される。また、本丸周辺の石垣沿いには瓦葺きの多聞櫓が連なる。北西隅を除いて全周し、途中西虎口、南東虎口の2つの門徒も繋がり、強固な防衛ラインを形成する。
天守閣への虎口は2か所確認されている。そのうち北側の虎口は石垣積の付け櫓を構築する格式のあるものとなっている。

本丸西斜面


本丸東斜面


本丸削平地から天守台



本丸天守台下の方形窪み
刀洗い池的なものか? それとも発掘跡?



「本丸石垣」
本丸南斜面からの石垣石材と思われる落石


本丸東斜面
大御殿郭より本丸天守台を見上げる


同拡大 天守台


東側斜面の残存石垣


同、落下した石材


同、落下石材2 矢穴





「天守台」


天守台石垣
中央のスロープ


北側石段


南側隅部


天守台最上段石碑


礎石? 文字が書いてあるようですが方位を示すものか?


天守からの眺望
北方向


南方向




「西帯郭から東帯郭」
左方向が本丸、奥が東帯郭


西帯郭の本丸側虎口


同石段拡大



「東帯郭」
東帯郭から奥の大御殿郭に向かう
本丸南斜面下から東斜面下にかけて彫られた空堀のような溝(南側)


同(東側)
右手大御殿郭、左手本丸斜面





「大御殿郭」
本丸より俯瞰



大御殿郭先端(東側下)の段郭俯瞰




「東御加番郭」
大御殿曲輪より俯瞰




「二の丸」
南東虎口部の南東方向に二の丸があるが、藪と雑木林(吉野杉植林)に阻まれ立ち入れなかった。




「南東虎口部」(大門跡)
南東虎口部には、城域東側からと二の丸を巡る通路が集まる。東西に並ぶ2つの石垣積の櫓台が残る。
その構造は、通路の折れと石垣の喰違虎口により枡形状の空間を作り、櫓台により横矢を効かせている。
その構造は、東西2つの櫓と一体になって構成される櫓門形式の門であると推定されている。

残念ながら発掘調査から経年し、荒れており現在は説明板も藪の中。もったいないです。
残存石垣






信長亡き後、秀吉の天下取りに向け大和一国を得た秀吉の弟・豊臣秀長が改修。
秀吉に反感を持つ勢力(越中の佐々成政等)や徳川家康と甲賀・伊賀・伊勢・紀伊の在地勢力(伊賀衆・根来衆・雑賀衆等)が結託して、西に攻め上るのを阻止・監視する目的があったようです。
本丸を中心に整備されていますが、周囲の尾根筋にはたくさんの空堀や竪堀などの遺構が残っているようなので、その辺の整備が進めば山城ファンにとっても楽しめると感じました。



※参考、、、続日本100名城 公式ガイドブック・現地説明板・公式パンフレット他

【宇陀松山城】
《南北朝の山城から近世城郭へと改修》

名称(別名);うだまつやまじょう(秋山城)
所在地;奈良県宇陀市大宇陀春日
城地種類;平山城
築城年代;南北朝期(豊臣家配下の天正13年(1585)以降に改修)
築城者;秋山氏
主な城主;伊藤市、加藤氏、羽田氏、多賀氏、福島氏
文化財区分;国指定史跡
近年の主な復元等;発掘調査中
天守の現状、形態;天守台石垣現存

※出典、、、続日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
地図;



【御城印】



販売所;まちかどラボ
住所;奈良県宇陀市大宇陀出神1817・1818
地図;

高取城@奈良県高市郡高取町高取 2022年10月22日

2022-11-10 06:46:19 | 城歩き
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日本三大山城・国指定史跡・日本100名城
高取城(たかとりじょう)


備中松山城
美濃岩村城(訪問記事は→こちら
とともに日本三大山城に数えられる高取城


高取城跡は、奈良盆地の南端、標高584mの高取山の山頂を中心に、急峻な山上の地形を巧みに利用して築かれている。何段にも重ねた石垣や喰違虎口、急斜面により守られ、山麓の城下町との比高差は400m以上を測る。
 14世紀前半に土豪越智氏が南朝の呼びかけで築城したのが始まりと言われている。織田信長の一国破城により、天正8年(1580)に一旦は廃城となるが、天正12年(1584)の筒井順慶による復興を経て、豊臣秀長の家臣本多氏により天正から慶長の頃近世城郭として完成した。その後江戸時代に入り、寛永14年(1640)に譜代の植村氏が入部して2万5千石の居城とした。以後明治維新まで、植村氏が14代にわたって城主となった。山上に本来の城と家臣の屋敷地を取り込んで、城と城下町の二様相を山城としてまとめた特徴ある形であった。そのため山城としては広大にならざるを得なかった。しかし、平穏な時代には山上の生活が不便なため、藩主をはじめ多くの家臣が山を下り、その結果、城郭と城下町が離れた特異な形態となっている。
 二の門・壺阪口門・吉野口門の内側は「城内」と呼ばれ、山中のすべての曲輪を含んだ範囲が「郭内」と呼ばれている。現在は、郭内に建物は残っていないが、広大な縄張りと堅牢な石垣群が残されており、国史跡に指定されている。奈良県教育委員会、、、現地説明板より

場所は;奈良県高市郡高取町高取
登城ルートは、麓の城下町から「遊歩道を徒歩で登る」ルートと、国道169号線清水谷交差点から県道119号線に入り「林道を車で登る」ルートがある。
徒歩では約2時間かかり、車では約4kmの林道を登った先に駐車場がある。
自分はタイトなスケジュールのなか、車での登城を選択したが途中で道を間違えたと思い元に戻ったりして時間のロスをしてしまった(;^ω^)

公式パンフレットより



高取城之図(古絵図面)、、、観光案内所「夢創館」にて配布




壺阪寺を経由して県道119号線の終点、通称八幡口登り口から登り始めました。
(一般車両通行止めの先を登ると「七つ井戸」に至ります)



現地説明板付近にパンフレットも準備されていました。(品切れの場合はご容赦願います)



当日の行程です、、、ヤマップより
左下が駐車場方向
左上が城下、水堀・二の門方向
右下が本丸方向となります



本丸周辺の詳細、、、同
分岐から右下の主郭部への行程



遊歩道


登城道を登ってすぐに石垣が現れテンションが上がる。
武家屋敷跡




「壺阪口門」
両脇に大きな石垣を伴う枡形


櫓が建っていたんでしょうね




「壺阪口郭門」
ここから先は大手門に繋がる




ここも枡形が構築されている



本丸方向(上段)と武家屋敷方向(下段)の分岐



「大手門」


大手門枡形



十三間多聞



「二の丸」


二の丸虎口


二の丸多聞



二の丸高石垣



七つ井戸
この先八幡口登り口に通じている。
高取城の搦手には七つ井戸と呼ばれる石垣造りの井戸が四つ見られます。(水の手は山城の生命線ですね)


七つ井戸側から見上げた太鼓櫓・新櫓の威容
七つ井戸のある斜面には石垣が連なるように築かれています。下から見上げると、新櫓台まで巨大な高石垣のように錯覚します。



「太鼓櫓・新櫓」
大手門→二の丸→太鼓櫓・新櫓→本丸虎口→本丸と並ぶ厳重な守り
本丸の手前に配置された特徴的な石垣です。昭和47年度に修復されました。

太鼓櫓・新櫓全景(天守より)





太鼓櫓・新櫓高石垣


十五間多聞


新櫓石垣


新櫓上部の多聞跡


七つ井戸方向の虎口俯瞰




本丸下帯曲輪からの高石垣
高取城の本丸は大天守・小天守・三層櫓群を多聞櫓でつなぐ壮大な構えでした。
城址碑


本丸石垣


本丸高石垣西面


本丸天守台西面石垣


本丸北側石垣
鐙(あぶみ)櫓台石垣


本丸北側虎口




「本丸帯曲輪 搦手口


屈折
和歌山の新宮城の搦手と非常によく似ている


高石垣




「本丸」
本丸虎口
本丸の枡形虎口は城内でも特に強固です。







本丸削平地









「天守台」






天守台穴蔵


天守台穴蔵転用石
高取城の石材には古墳の石材が転用されています。
写真左側の上段と上から三段目が古墳転用石です。



天守台高石垣
城内最大の高さ(約12m)を誇る圧倒的な天主台石垣。かつて三層の天守が建っていました。








天守台天端角石


天守からの眺望





本丸から武家屋敷分岐まで戻り、出段の武家屋敷曲輪群と要所要所に設けられた門を見ながら水堀・二ノ門まで下って行くことにします。



千早門





宇陀門





松ノ門






矢場門


国見砦分岐




三ノ門






水堀
二の門の左脇に、山城には珍しい石垣造りの水堀が現在も水を湛えています。水量が増量すると奥の谷に排水する工夫も見られます。



猿石
猿の石造ですが謂れは不明で、近隣の明日香村でも類似の石像が見つかっているそうです。



二ノ門





この先、明日香村方面岡田門と、高取城下町方面黒門へと分岐します。
麓の城下町から登ってくると、黒門を通ってここに至ります。

自分はここからもう一度本丸分岐まで登って帰路につきました。

日本三大山城の美濃岩村城と比べて、圧倒的な石垣の量、高石垣の高度な技術、そしてなんといっても険しく高い山の上にまるで平城のように整然と縄張りされていることに感動しました。
例えるなら
標高530mの山のてっぺんに、藤堂高虎の高石垣で有名な「伊賀上野城」と石垣の量がハンパない蒲生氏郷の「松坂城」を合わせたような城が建っているという印象でした。(個人の感想です)



※参考、、、日本100名城、現地説明板、公式パンフレット他

【高取城】
《吉野山系の急峻な山頂に築かれた近世山城》

名称(別名);たかとりじょう(芙蓉城)
所在地;奈良県高市郡高取町高取
城地種類;山城
標高/比高;534m/390m
築城年代;元弘2年(1332)ころ、天正13年(1585)
廃城年代;一国一城令の際も重要な山城として破却を免れ、現在に至るまで石垣や石塁が残されている。
築城者;越智邦澄、本多利明
主な改修者;本多氏、植村氏
主な城主;越智氏、本多氏、植村氏
文化財区分;国指定史跡
主な遺構;石垣、石塁、天守台、櫓台、門跡、水堀、堀
近年の主な復元等;台風被害復旧に伴う石垣復元
地図;



【御城印】



販売先:城下町の一画 観光案内所「夢創館(むそうかん)」

住所:〒635-0152 奈良県高市郡高取町大字上土佐20−2
営業時間:99:30~16:30
高取城資料やグッズの販売もあります
地図:




岸和田城@大阪府岸和田市岸城町 2022年10月22日

2022-11-05 14:35:43 | 城歩き
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続日本100名城
岸和田城(きしわだじょう)

築城時期は不明だが、現在地より北東約500mに位置していた岸和田古城から戦国時代にに移ったと言われ、江戸時代初期にかけて段階的に完成していった。永禄年間(1558~70)に松浦肥前守、豊臣氏の家臣中村一氏、小出秀政がそれぞれ改修を加えた。小出氏3代、松平(松井)2代の後、寛永17年(1640)に入った岡部宣勝が城を完成させ、13代続いて明治維新を迎えた。

変則多角形をした本丸は水堀に囲まれ、海岸よりの北西に馬出状に設けられた二の丸と土橋で接続していた。本丸の北・東・南は水堀を隔ててコの字形に二の曲輪が取り囲み、その外周を水堀と三の曲輪、さらには外郭と、二重三重に本丸を囲む構造となっており、極めて厳重な輪郭式の縄張りで構成されていた。本丸には小出秀政が建造した五重の天守が聳えていた。

場所は大阪府岸和田市岸城町9-1
岸和田市役所のお隣です。というか三の曲輪?跡に市役所が建っているわけですね(^^)/
岸和田城は市中心部の城址公園という感じで、周辺には駐車場が幾つもあります。自分は岸和田市役所の駐車場(有料)に停めましたが、西側のお堀沿いに「岸和田市営駐車場」、「岸和田市役所第4駐車場」「タイムズ五風荘」と並んでいます。

訪れたのが午前7時と早い時間だったので、ランニングや散歩で訪れる市民でにぎわっていました。また、二の丸跡に建設された「市立市民道場・心技館」では剣道の早朝練習が行われており、気合の入った掛け声が朝の空気を切り裂いているようでした。

当日の行程
岸和田城絵図(再現)、、、現地説明板より
市役所位置と赤線加筆



現在公園内に残っているのは「本丸」と「二の丸」そして本丸を取り囲む「内堀」です。
中堀にあたる「百閒掘」は一部が埋め立てられ市役所となっていますが、「二の曲輪軍料倉庫」の石垣沿いから二の丸公園をコの字に取り囲むようにして現存しています。


昭和29年に市民の寄付などにより、連結式望楼型3重の復興天守が再建されました。

二の丸側正面より(北側)
野面積み天守台石垣



西側より
打込み接ぎの布積み、本丸石垣



南側より
野面積み本丸石垣
石垣の底部に「犬走」が見られます。



東側より
角石は算木積み、本丸石垣
南東面の石垣の底部に「犬走」が見られます。



岸和田城の犬走については、泉州砂岩で造られた石垣が崩れるのを防ぐためと考えられています。この犬走り周辺の石垣は平成11年 の豪雨で崩れ、今は強度のある花崗岩で補修され、その部分だけ石垣の色が違っています。


本丸櫓門(再建)
開門時間(天守開館)が午前10時とちょっと遅め(-_-;)
しかし訪問したのが7時だったので、残念ながら天守閣と国の名勝に指定されている「八陣の庭」は観ることができませんでした。



本丸隅櫓(再建)
西側より


北側より



「市立市民道場・心技館」
昭和36年には御殿風建物の市民道場「心技館」も建設されました。


二の丸側より




伏見櫓?を模したトイレ
環境に馴染んでおり、とても清潔なトイレでした。




水堀と石垣
内堀は本丸をぐるりと一周取り囲んでいる水堀と、二の丸の外側に彫られた「百閒堀」で構成されています。
本丸に入るには西と東にある二か所の土橋を渡って二の丸に入ってから、さらに土橋を渡り大手櫓門をくぐることになります。

「百閒堀」は北側が一部埋め立てられていますが、極楽橋を起点として
☆北東面の「二の曲輪軍料倉庫」跡石垣から、


   軍料倉庫から見た二の丸石垣(左は伏見櫓を模したとみられるトイレ)



☆北西面の県道204号線(堺阪南線)沿い、



☆南西面の二の丸隅櫓跡(市立市民道場・心技館)を取り囲むコの字形に見ることができます。



岸和田城は和歌山城と大阪城の中間地点にあり、紀州監視の岸和田城とも言われているそうだが、今回和歌山城から泉南郡岬町の道の駅を経由して岸和田城に向かって分かったことは、和歌山と大阪がこんなにも近いんだ~という事。
それゆえ、信長の時代の石山本願寺攻め、秀吉の時代の紀州在地勢力(根来衆・雑賀宗)掃討、そして江戸時代になると徳川幕府の相互監視政策にと、歴史の表舞台に引きずり出された城だったのかなと思いました。

タイトなスケジュールの中「御城印」や、3代城主が起源とされる岸和田だんじり祭の「だんじり会館」に少なくなった後ろ髪を引かれる思いで、岸和田を後にしました(;^ω^)


【岸和田城】
《紀州街道と大阪湾の水上交通を押さえた城》

名称(別名);きしわだじょう(千亀利城)
所在地;大阪府岸和田市岸城町9-1
城地種類;平城
築城年代;不明
築城者;不明
主な城主;小出氏、松平氏、岡部氏
文化財区分;府指定史跡
近年の主な復元等;天守、櫓門、多聞櫓、隅櫓
天守の現状、形態;復興天守

※出典、、、続日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
地図;




和歌山城@和歌山市 20212年10月21日

2022-11-04 13:00:29 | 城歩き
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国指定史跡・国名勝・日本100名城
和歌山城(わかやまじょう)

和歌山城は天正13年(1585)、羽柴(豊臣)秀吉が紀州を平定し、弟の秀長に命じて岡山(虎伏山)の峰に創建したのが和歌山城。藤堂高虎らが普請奉行を務め、高虎が手掛けた最初の本格的な近世城郭と言える。秀長は大和郡山城を居城としたため、桑山重晴が城代を勤めた。秀長家が途絶えると、桑山氏が城主となる。豊臣・桑山時代に山頂部分や岡口の整備に取り組んだ。
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、浅野長幸が37万6千石の領主となり、城の大規模な増築を行った。連立式の天守閣を建て、現在の本丸・二の丸・西の丸に屋敷を造営。大手を岡口門から一の橋の門に変え、本町通りを大手珠洲として城下町を整備した。
 元和5年(1619)徳川家康の十男・頼宜が55万5千石を拝領して入国し、紀州徳川家が成立する。二の丸を拡張するため西内堀の一部を埋め立て、南の丸・砂の丸を内郭に取り入れ、ほぼ現在の和歌山城の姿となった。紀州徳川家は、「南海の鎮」として西日本を監視する役目を担い、八代将軍吉宗、十四代将軍家茂を輩出した。
 明治4年(1871)の廃藩置県により、和歌山城は陸軍省の管轄となる。明治34年和歌山城公園として一般に公開され、昭和6年(1931)に史跡に指定された。
嘉永3年(1850)に再建された天守は第2次世界大戦で焼失したものの、昭和33年(1958)鉄筋コンクリート造りで再建された。

場所は和歌山市一番丁3、和歌山城公園。
国道26号線(国道42号線)県庁前交差点から県道138号線(三年坂通り)に入り、一つ目の信号から公園内駐車場に進むことができますが公園内の一般駐車場はここだけで、公園反対側の市役所南別館(わかやま歴史館)前にある駐車場は大型観光バス専用です。
周辺にはコインパーキングも多数ありますが、自分は県庁前交差点歩道橋の北西角にあるコインパーキングに停めました。

和歌山城公園案内図、、、公式パンフレットより




「天守閣」
浅野家が虎伏山の西の峰に、黑板張りだが、ほぼ現在と同様の天守閣を築造。三層の大天守から時計回りに多聞、天守二之御門(楠門)、二之御門続櫓、多聞、乾櫓、多聞、御台所、小天守へと続く連立式天守だった。



寛政10年(1798)十代藩主徳川治宝により白壁の白亜の天守となるが、弘化3年(1846)の落雷で焼失。御三家ということで特別に認められ嘉永3年(1850)にほぼ元のまま再建される。昭和10年(1935)国宝に指定されるが、同20年7月9日の和歌山大空襲で焼失。戦後市民からの要望もあり、昭和33年に鉄筋コンクリートで復元された。
天守台石垣より(南面)


西の丸より(北面)


追廻門より(西面)




「岡口門」
築城時は大手門だったが、浅野期の途中から搦手門(裏門)となる。現在の門は元和7年(1621)、徳川家が建造した二階建ての門である。岡口門は空襲でも焼けずに残った旧藩時代の数少ない遺構で、北側の土塀と共に昭和32年(1957)重要文化財に指定された。






「二の丸」
徳川家が藩主の時代、本丸御殿が山上にあったが、不便で手狭なため、二の丸に殿様の居館や藩の政庁が置かれた。二の丸の機能は藩の行事の場である「表」、殿様の公邸である「中奥」、殿様の私邸で、奥女中の生活の場である「大奥」の三つに分かれていた。




「御橋廊下」
御橋廊下は殿様とお付きの人、奥女中が二の丸と西の丸を行き来するために架けられた徳川期の橋である。そのため外から見えないように壁と屋根が設けられ、部屋のような造りになっている。斜めに架かる廊下橋としては全国的に珍しい。平成18年3月に復元。


西の丸庭園(紅葉渓庭園)より




「西の丸庭園(紅葉渓庭園)」
江戸時代初期に作庭された池泉回遊式の城郭庭園。虎伏山の渓地形を利用し、立石として緑色片岩(紀州青石)を多用する。御舟石のある上の池だけではなく、柳島を浮かべて内堀を池に見立てている。昭和60年(1985)には、国の名勝に指定。






「追廻門」
追廻門は西から和歌山城(砂の丸)に入る門で、大手門の反対側の搦手に位置します。門を出て道を隔てた外側に、馬術を練習する追廻があったので、この名が付いた高麗門形式の門です。元和5年(1619)に紀州徳川家初代頼宜が入国し、和歌山城を拡張して砂の丸や南の丸を内郭に取り込みました。当然、追廻門もその際に建立されたもので、岡口門と共に空襲でも焼けずに残った旧藩時代の数少ない遺構です。追廻門は藩主が座る二の丸御座之間の南西に位置し、陰陽道の裏鬼門にあたるので、除災のため朱色に塗られたと考えられています。








「和歌山城の石垣」
和歌山城の石垣は、城主ごとに違いがあり、豊臣・桑山期(1585-1600)、浅野期(1600-1619)、徳川期(1619-1869)を通じて積まれました。
 虎伏山頂上から山裾にかけて多く分布する結晶片岩による野面積みの石垣は、主に豊臣・桑山期のものと考えられています。浅野期になると、和泉砂岩も用いられるようになります。主に打ち込み接ぎの石垣で、刻印が多くみられるのも特徴の一つです。
 徳川氏により新たに造成された砂の丸・南の丸では、17世紀前半に積まれたと考えられる和泉砂岩による打ち込み接ぎの石垣が見られます。またより時代が下がると、切込み接ぎの石垣が見られるようになり、隅角部等一部には、花崗斑岩が用いられているものもあります。

◆天守台石垣
和歌山城は天正13年(1585)羽柴(豊臣)秀吉が弟の秀長に命じて築城されました。天守台の石垣はこの築城時に積まれた和歌山城の中でも最も古い石垣と考えられています。
結晶片岩による野面積みで、各所に転用石(石塔や石仏)が見られるのが特徴です。



◆新浦坂下の石垣
浅野期(17世紀前半)に積まれたと考えられている打ち込み接ぎの石垣です。石材は和泉砂岩で浅野期の石垣の特徴である刻印が数多く見られます。



◆砂の丸高石垣
元和5年(1619)徳川頼宜が城主となって以降、大規模な城の増改築が行われ、城の西側・南側に新たに砂の丸・南の丸が作られました。その際に積まれたのがこの石垣で、和泉砂岩を用いた打ち込み接ぎです。



◆鶴の渓の石垣
浅野期に鶴が飼われていたという伝説から鶴の渓と呼ばれているこの場所には、山の斜面に沿って緩やかな石垣があります。豊臣・桑山期(16世紀後半)に積まれたと考えられ、天守台石垣と比べると非常に大ぶりな結晶片岩を用いた野面積み石垣です。



◆不明門跡付近の高石垣
角石に熊野地方産の花崗斑岩が使われ、他は和泉砂岩で積まれた徳川期の石垣。


◆松の丸櫓台石垣
角石に熊野地方産の花崗斑岩が使われ、他は和泉砂岩で積まれた徳川期の石垣。


◆一中門跡の石垣
熊野地方産の花崗斑岩を多角形に加工して積む亀甲積という技法が見られます。


◆不明門跡奥の松の丸石垣
和歌山城の中には城主ごとに変遷していった石垣の様子がよくわかる場所がいくつかあります。この場所では、豊臣・桑山期(16世紀後半)に山の斜面に沿って積まれた野面積みの石垣に、打ち込み接ぎの石垣が後で取り付けられた様子がわかります。打ち込み接ぎの石垣は徳川期(17世紀前半)のものです。



「伏虎の像」
和歌山城が建っている虎伏山は、海上から見ると虎が伏している姿に似ていることからのの名が付いたと伝わり、その故事にちなんで銅像が建立され有吉佐和子の小説「紀の川」にも登場するが戦時中に供出され現在は二代目。



東側内堀の高石垣
藤堂高虎の気配を感じます。





天守からの眺望
紀の川と和歌山湾が見渡せる交通の要衝ということもわかります。



恥ずかしながら「和歌山城」ハツホーです💦
櫓・門・石垣・庭園、広大な城域
徳川御三家の威厳をまざまざと見せつけられました。
しかし、豊臣秀長・藤堂高虎らが手掛けた近世城郭だということも忘れてはならないと思いました。




※参考資料、、、公式パンフレット、現地説明板、和歌山城石垣散策MAP他

【和歌山城】
《西国支配の要となった紀伊徳川家の巨城》

名称(別名);わかやまじょう(竹垣城、虎伏城)
所在地;和歌山市一番丁3
城地種類;平山城
築城年代;天正13年(1585)、慶長5年(1600)、元和5年(1619)
築城者;羽柴(豊臣)秀長、浅野幸長、徳川頼宜
主な城主;羽柴(豊臣)氏、桑山氏、浅野氏、徳川氏
文化財区分;国指定史跡、国指定名勝
近年の主な復元等;平成18年に御橋廊下を復元、表坂入り口付近・西の丸西側石垣修理等
天守の現状、形態;層塔型 三重三階 鉄筋コンクリート一部木造

※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
地図;


【御城印】


販売所:和歌山城チケット売り場
場所:和歌山城公園内 天守閣入り口