あみの3ブログ

038 岩村城@岐阜県恵那市岩村町 令和二年(2020)9月27日 見どころ編

岐阜県指定史跡 日本三大山城 【岩村城



《山麓には藩主亭の表御門や太鼓櫓が再建される》
岩村城は近世山城の代表で、標高717mの日本一高い地に築かれた城である。高取城・備中松山城とともに近世城郭における日本三大山城と言われる。城の創築についてはっきりとした時期は不明であるが、永正年間(1504~21)には遠山氏の居城として築かれていたと考えられる。戦後時代には遠山氏、江戸時代には丹羽氏と松平氏が城主となった。城は山頂一帯に階段状に配された曲輪群と山麓部の居館群からなっていた。各曲輪には石垣が巡らされ、数多くの櫓や多門櫓が立ち並んでいた。山麓部の居館群は明治14年(1881)に焼失したが、平成2年に太鼓櫓や表御門などが再建された。
※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)


前夜出発し
東海北陸道関JCから東海環状線ー土岐JCから中央道ー恵那IC下車ーR257-R365
途中車中泊し、早朝に到着するも早すぎたため一旦戻って
「農村景観日本一」、「盛巌寺」を見学の後改めて「藩主居館跡」「岩村町歴史資料館」駐車場に到着。
すでに何人か登城を開始していたのでそれに続きました。

一番の杞憂は
山頂部が717mもあるという事。
海抜0メートルから717メートルまで登らなくてはならないのかと恐れていました(笑)
しかし
城下町は標高の高い山里にあり、「藩主居館跡」「岩村町歴史資料館」駐車場の海抜は約530m、
なので
頂上までの標高差は約180m、距離にして約800m、徒歩で20分から30分ほどの時間と知って
安心しました(笑)


ではさっそく登城しましょう!
【見どころ編】
【登城口は】8:10
「岩村山荘」前の三差路を民家の方に登る方向にあり、大きな石碑と看板・幟端が建っているのでそれが目印です。



【藤坂】8:14
藤坂の名は岩村城創築者・加藤景廉の妻が紀州藤村城から持ってきた藤の実を植え大木になったという伝説に因んでいます。
、、、藤村城跡マップより
民家や「下田歌子生誕地」を過ぎると足元は「石畳」に変わります。切り揃えられた石材が規則正しく敷き詰められ、階段状になってとても歩きやすいです。


その石材のいくつかには切り出した時の鏨の後が残っており、これはもしかして築城当時の古いものが発掘されたのか?(信長の安土城みたいに)、と思っていましたが後で歴史資料館の方に伺ったところでは「岩村城創築800年記念事業」の一環で再現したものであることがわかりました。



【初門】8:16
直線的に延びる「登城坂」でこの部分だけが行く手を遮るように鍵の手に大きく曲げられている。有事の際にはここに臨時の門を構えて通行を遮断するようになっていた。岩村城最初の門である。
、、、案内板より



【一の門】8:22
二層の櫓門で大手一の門と呼ばれている。櫓門や土塀で厳重に固められており、張り出した石塁により死角から敵が近づかないよう工夫されている。、、、同



岩村城最初の石垣が目に飛び込んできて、先ずは萌える。古木の根が張り出したり、石垣に膨らみが見受けられ、崩壊しそうです。


一の門休憩所、番所があったところかな。



【土岐門】8:29
岩村城第二の門で、内側は馬出状の曲輪になっている。土岐氏を破ってその城門を奪って移築したという伝承からその名が付いたとされる。廃城後に徳祥寺に山門として移築、現存している。、、、同
徳祥寺に行って見学したかった💦


土岐門を過ぎると道は狭く大きく曲がっている。
再現された石畳はここまでで、ここから先は細くて急な上り坂もあって足元には要注意!



【畳橋・三重櫓】8:33
追手門は櫓門と棟門を直角に組み合わせた外枡形門です。前面に架かる橋は、敵が攻めてきたとき畳を上げるよう橋板を取り外すことができたことから「畳橋」と呼ばれています。
城内唯一の三重櫓は、一の門を突破し追手門に迫る敵に強力な射撃を浴びせる防御の要です。
城下町から城を見上げると最もよく見える場所にあり、天守の役割も果たしていました。

、、、復元CG説明文より



写真左の石垣から右側の石垣にかけて「畳橋」が架かっていた。
右側の石垣上には三重櫓(橋櫓)そびえ立ち、実質的な天主閣であったという。



【追手門】8:35
土岐門に続く第三の門で、前面の空堀には「畳橋」が架かっていた。
畳橋から棟門をくぐり、直角に右に曲がって櫓門に入る枡形門である。

、、、同



二の丸から三重櫓の間にある平坦地(曲輪)には二つの井戸があります。
【龍神の井】8:35
三重櫓のすぐ上に位置する龍神の井戸


もう一つは二の丸に近いところにあって、向かい側は八幡神社のある八幡曲輪
【霧ヶ井】8:36
霧ヶ城と言われるもととなった井戸。敵が城を急襲した時この井戸へ城秘蔵の蛇の骨を投げ入れると忽ち霧が立ち込め城を覆い隠したという伝説があります。この水は今も枯れることなく湧き出し、昭和62年に岐阜県名水50選に認定されました。
、、、岩村町


今は飲まないでくださいの看板もあって、、、



【八幡神社 八幡曲輪】8:38
中世の城主遠山氏の氏神で始祖加藤景廉を祀る。入り口に鳥居が建ち中段には別当寺にあたる薬師寺が建ち、最奥部には拝殿
と本殿、八幡櫓があった。棟札から永正5年(1508)には神社があったことがわかっている。

、、、案内板より



【俄坂(にわかさか)】8:41
戦国期までの登城坂
八幡神社の東面に設けられた門が「俄坂門」で二層の櫓門が構えられていました。戦国時代までの400年間の岩村城の正門です。

、、、岩村城跡マップより

実際はこの写真の向かい側の藪の中です。



【菱櫓】8:42
石垣を地形に合わせて積んだために菱形になり、その上に建てた櫓も菱形に建っていました。菱櫓は山城ゆえの特殊な形状の建物でした。
、、、同
写真左奥に見えるのが本丸「六段壁」
手前右側が「菱櫓」の石垣



【二の丸】8:42
岩村城最大の曲輪で、番所・役人詰め所・朱印蔵・武器庫・米蔵などの施設が設けられていました。その中心部には弁天池が配置されていました。
、、、同

二の丸は雑木林に覆われ開発の手が入っていない状況です。
なので通り過ぎてしまい写真はありません。
写真は本丸六段壁と菱櫓下の井戸、二の丸はこの写真の手前右方向にあったものと思われます。



【六段壁(ろくだんへき)】8:44
本丸の北東面に雛壇状に築かれた見事な石垣である。もとは絵図のように最上部だけの高石垣であったが、崩落を防ぐために前面に補強の石垣を積むことを繰り返した結果、現在の形になった。
、、、案内板より



六段壁を下から見上げると圧倒的迫力に感動します。


石垣の最下部には巨大な石が組み込まれており「鏡石」の役割でしょうか?
観る者に屈強の印象やその権威を誇示する狙いかも知れませんね。



【東曲輪】8:50
本丸長局の東側一段下に設けられた曲輪で、本丸に対する外枡形的機能を持ち、二重櫓が構えられていました。
、、、岩村城跡マップより


東曲輪よりの展望



【長局埋門(ながつぼねうずめもん)】8:49
本丸は上下二段の曲輪からなっており、下段は長局と呼ばれています。下段から上段に入る門は三か所ありましたが、防御は重要視されておらず、本丸御殿の格式を整えることを重視していました。
、、、同



【埋門(うずみもん)】9:01
野面積み、打ち込みハギ、切り込みハギといった3種類の石の積み方が一度に見られる日本でも珍しい場所です。
、、、同


上段、本丸から見た埋門



【東口門】9:02
岩村城正門
東曲輪側にあるひときわ大きな門
門から入ると正面に石垣が立ちはだかり左に直角に曲がっている。幅の広いゆったりした石段で上段に登ると、そこには本丸が広がっている。


本丸広場から見た正門(虎口)東口門



【本丸】8:50
本丸には「納戸櫓」など二重櫓が2棟、多門櫓が二棟、石垣上に構えられ、門が3基設けられていました。
、、、案内板より


古い時期に建てられた木製の「岐阜県史跡 岩村城跡」碑
奥の一段高いところにあった本丸櫓は、藩主邸が完備するまで藩主が居住してました。
、、、岩村観光協会HP岩村城跡より引用



【本丸昇竜の井戸】8:52
標高717mと日本一高いところにある城“岩村城”本丸にあるのが昇竜の井戸。山の頂きにありながら、水が枯れることが決して無かったといわれています。 山の頂上にあるのにどこから水が湧いてくるのか不思議ですね。
、、、岩村観光協会HP「岩村城跡」より引用



【本丸から城下町の展望】8:54
標高717mからの展望は素晴らしく、登頂した達成感と満足感が味わえる瞬間。
この日は天候にも恵まれ素晴らしい景色を目にすることができました。
周辺にはベンチや案内板も整備され、御城ファンはもとよりハイキングを楽しむ人たちにも憩いの場となっています。
ここで持参のお弁当を食べるのも良し、写真撮影するのも良し、ゆったりと休みました。



【織田信長公宿営の地】8:53
本丸東側


説明文


【織田信長と女城主】
文治元年(1185)源頼朝家臣・加藤景廉によって築城されてから遠山氏350年、関ヶ原以降徳川政権から明治維新までの丹羽・松平氏が250年城主として君臨してきたわけだが、
戦国時代の末期のほんの一瞬の出来事がこの地を有名な舞台にした。

天正元年、武田信玄に仕えた秋山信友は、城主遠山景任を亡くし未亡人となっていた修理夫人(女城主)が織田信長の五男御坊丸を養子として守っていた岩村城を攻撃。なかなか陥落しそうもないため、秋山は計を巡らし、密使を城中に送った。 「結婚して無事に城を明渡し、御坊丸を養子として家督を譲ることとしてはどうか」などとひそかに夫人を説得した。 夫人も到底最後まで城を守ることができないと悟り、この提案を承諾。家臣や領民を守ることの引き換えに政略結婚の道を選ぶこととした。 しかし、信友は信長の叔母と結婚したことを信玄に嫌われるのを悟り、御坊丸を甲府に人質として送ってしまった。御坊丸は七歳の時だった。 これを聞いた信長は大いに怒ったが、その頃は武田の勢が強く、かつ近畿攻略に追われていたので、そのまま放任せざるを得なかった。しかし、信長は、岩村城を信友に奪われたのを無念とし、その周辺の小城に加勢を送り、ひそかに岩村城の奪還の期をうかがうこととした。 天正3年3月、長篠の戦に武田勝頼の軍が敗戦したことにより、武田と織田の勢力の均衡が逆転。信長はこの機を逸せず、同年6月、岩村城を攻略すべく嫡子信忠を大将とする軍勢を岩村城攻略に送り込んだ。信忠の大軍は数日間激しく攻め立てたが、岩村城兵も命を惜しまず防戦したため、容易に攻略はならず、信忠は戦法を変更し持久戦をとることとした。6月から10月まで数ヶ月の時が経ったころ、さすがに城中も次第に糧が乏しくなり、兵卒も疲れをみせはじめ、武田の応援も無くなり、ついに岩村城は陥落した。 信長は、秋山信友をはじめ修理夫人(御坊丸を人質としたことを憎まれていた)らを岩村城外の大将陣において、逆磔(さかさはりつけ)にして殺害。この時夫人は、声をあげて泣き悲しみ、「我れ女の弱さの為にかくなりしも、現在の叔母をかかる非道の処置をなすはかならずや因果の報いを受けん」と絶叫しつつ果てたという。 信長が本能寺で殺される、七年前の出来事だった。
、、、岩村観光協会HP「女城主の物語」より引用

(信長公記巻八の12岩村城落城)では以下の通り
岩村の城衆はこの敗戦に精根を使い果たし、塚本小大膳を通じて織田勢へ降伏助命を願い出てきた。ここに塚本小大膳を目付として塙伝三郎が添えられ、城衆の降伏が認められた。
しかし11月21日になって城将の秋山信友・大島杢之助・座光寺為清が赦免の参礼に訪れたところ、彼らは織田勢の手によって捕縛されてしまった。そしてそのまま岐阜へ連行され、長良川の河畔で磔に処されてしまった。

ここでは「おつやの方(修理夫人)」の記述は無いが、おつやの方もまた信長に捕らえられて逆さ磔で処刑された。あるいは信長が裏切られた鬱憤を晴らすために自ら斬ったともいわれる(『当代記』)。

【おんな城主の里】
この悲劇をモチーフに1992年から岩村城下の本通り沿いの家々で家族の女性の名前を記した暖簾を掛けたり、


地元の醸造会社岩村醸造が「女城主」と名付けた日本酒を売り出したりして、


地域おこしに活用している。

女城主の里 岩村城下町散策の記事は→こちら
岩村城主邸宅、岩村町歴史資料館の記事は→こちら
お城歩きとこの日のラーメンの記事は→こちら



【岩村城】
《急峻な山頂に壮大な石垣が巡る近世山城》
名称(別名);霧ケ城
「農村景観日本一」背景に見えるのは、別名のとおり霧に包まれた城山(岩村城)



所在地;岐阜県恵那市岩村町字城山
城地種類;山城
築城年代;文治元年(1185)、永正年間(1504~21)、天正3年~慶長年間(1575~1615)
築城者;加藤景廉(伝)、遠山氏、河尻秀隆、各務兵庫、松平家乗
主な城主;遠山氏、秋山氏、河尻氏、団氏、各務氏(城代)、田丸氏、松平(大給)氏、丹羽氏、松平(大給分家)氏
文化財区分;県指定史跡
近年の主な復元等;平成2年太鼓櫓、表御門、平重門などを再建
天守の現状、形態;石垣、門跡、櫓台のみ
地図;



※出典、、、日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
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