今日は、人は願うものがある限り果てしないでした。
C&Aさんのtwo-fiveライブでの決め台詞なわけですが、
ライブのお話は別にするとして、
今回のテーマは「人」ということで、
ライブの終わり付近に、こんな散文詩を読んでいました。
---
人は願うものがある限り 果てしない
人は願うものがある限り 果てしない
僕の世界 君の世界
僕の宇宙 君の宇宙
人は 宇宙の中にいるのではなく
人が 宇宙を持ってる
人はすごい 人はすごい 人はすごい
人はすごい 人はすごい 人はすごい
人は願うものがある限り 果てしない
人は願うものがある限り 果てしない
(two-fiveさんより転載)
---
そうなんです。
人はすごいんです。はい。
なにをどう言おうが、
これは変え難い事実です。
そんな詩を聴いていて思い出したのが、
「犬(dog)」さんのひとつの回答として、
7年前の97年に生んだ、散文詩です。
---
「神(god)」
全てを創れる力が欲しい
全てを壊せる力が欲しい
そのふたつを持ってる奴がいるらしい
“神”って呼ばれてる奴なんだ
俺達も奴に創られたんだって
俺達も奴に壊されるんだって
ふざけるんじゃねえつ~の
俺達が奴を創ったんだ
俺達が奴を壊せるんだ
ってことは
俺達は全てを創れる奴を創ったんだぜ
俺達は全てを壊せる奴を壊せるんだぜ
だからさ
全てを創れなくても
全てを壊せなくても
それで十分じゃん
な、そうだろ
---
そうですね。はい。。。
コワイっす。。。
けれど、突き詰めて考えたとき、
人が行き着くところって、ここだと思うんですよね。
自分自身の持つ、
果て無き可能性を信じてみようよ、っていう。
「犬(dog)」さんのキャッチコピーは、
良い意味にも悪い意味にもかかってますけど、
『可能性は、誰にでもあるんです』ですしね。
そんななので私は、
特定の神様を信仰する宗教に入り込んでしまう人に、
どこか違和感を感じてしまうんです。
道徳を学ぶための宗教はいいと思いますし、
貧困や圧制に耐えかねたが故の逃げ道、
大病して不安になったが故の頼り先、
そういうときに安直な答えとしての神様は、
いてもいいとは思うんですよね。
でも、貧困も圧制もないこの飽食の時代、
わざわざ自分を見失って特定の神様を信仰しなくても、
自分の内にあるものを信じてさえいれば、
それでいいんじゃないでしょうか。
自分の価値基準の中では、
自分の生み出す想像がなによりも優れているんですからね。
特定の神様がすごい、っていう信仰の柱さえ、
全て自分の想像の範疇ですからね。
お話をしやすくするための単なる想像物でしかない、
特定の神様にすがる必要なんてないと思うんです。
…なんて、否定し始めちゃうと、
それは宗教戦争になっちゃいますよね。
象徴としての神様と、自分の内にある神様と、
どちらの神様が優れてるんだ、っていうところですから。
でもそうではないです。
喜ばしいことに日本国では、
信仰は自由だと憲法でも認めています。
ひとりひとりが別の宗教で、
ひとりひとりが別の神様を信じていていいのです。
なので私は、特定の神様も素晴らしいと思います。
それは認めております。どうか神様を信じ続けてください。
でも、私は私の内にある神様を信じ続けますので、
お気遣いなく。。。
それに、どう転んでも1対多で勝てないので、
私は戦えません。ごめんなさい。
出来れば私も教祖のフリして、
お手軽にお金儲けしたかったんですけどね。
自分の内の神様が、
神様なんて人の数だけいるんだって許してくれないんで、
不便なんですよね。
しかも自分の内の神様は、どんなに良いことしても、
存在しない天国へ連れてってくれるわけでもありませんし、
一緒に信仰する友達も出来ませんし、
ポイントもなにもくれませんからね、
この人を信仰しても遣り甲斐ってものがありません。
特定の神様を信仰するっていう行為が、
羨ましいです、ホントに。
私もそうして簡単な目標ぶら下げられて、
楽に生きたいです。
でも、どんなに羨ましくても、
神様が自分の内で見守ってる以上、
信仰を変えることは出来ませんけどね。
ちなみに、あなたが信じてる宗教の概念に輪廻転生があるなら、
何代か前にあなたも神様の生まれ変わりだったかもしれませんよ?
元々神様だったあなたが、
なぜ現世代で神様になってる人を信じます?
さて話が散在しましたが、
人は願うものがある限り果てしないわけです。
あなたの願うものは、
今、どこにありますか?
って、全然上手く締めれてないな。。。
C&Aさんのtwo-fiveライブでの決め台詞なわけですが、
ライブのお話は別にするとして、
今回のテーマは「人」ということで、
ライブの終わり付近に、こんな散文詩を読んでいました。
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人は願うものがある限り 果てしない
人は願うものがある限り 果てしない
僕の世界 君の世界
僕の宇宙 君の宇宙
人は 宇宙の中にいるのではなく
人が 宇宙を持ってる
人はすごい 人はすごい 人はすごい
人はすごい 人はすごい 人はすごい
人は願うものがある限り 果てしない
人は願うものがある限り 果てしない
(two-fiveさんより転載)
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そうなんです。
人はすごいんです。はい。
なにをどう言おうが、
これは変え難い事実です。
そんな詩を聴いていて思い出したのが、
「犬(dog)」さんのひとつの回答として、
7年前の97年に生んだ、散文詩です。
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「神(god)」
全てを創れる力が欲しい
全てを壊せる力が欲しい
そのふたつを持ってる奴がいるらしい
“神”って呼ばれてる奴なんだ
俺達も奴に創られたんだって
俺達も奴に壊されるんだって
ふざけるんじゃねえつ~の
俺達が奴を創ったんだ
俺達が奴を壊せるんだ
ってことは
俺達は全てを創れる奴を創ったんだぜ
俺達は全てを壊せる奴を壊せるんだぜ
だからさ
全てを創れなくても
全てを壊せなくても
それで十分じゃん
な、そうだろ
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そうですね。はい。。。
コワイっす。。。
けれど、突き詰めて考えたとき、
人が行き着くところって、ここだと思うんですよね。
自分自身の持つ、
果て無き可能性を信じてみようよ、っていう。
「犬(dog)」さんのキャッチコピーは、
良い意味にも悪い意味にもかかってますけど、
『可能性は、誰にでもあるんです』ですしね。
そんななので私は、
特定の神様を信仰する宗教に入り込んでしまう人に、
どこか違和感を感じてしまうんです。
道徳を学ぶための宗教はいいと思いますし、
貧困や圧制に耐えかねたが故の逃げ道、
大病して不安になったが故の頼り先、
そういうときに安直な答えとしての神様は、
いてもいいとは思うんですよね。
でも、貧困も圧制もないこの飽食の時代、
わざわざ自分を見失って特定の神様を信仰しなくても、
自分の内にあるものを信じてさえいれば、
それでいいんじゃないでしょうか。
自分の価値基準の中では、
自分の生み出す想像がなによりも優れているんですからね。
特定の神様がすごい、っていう信仰の柱さえ、
全て自分の想像の範疇ですからね。
お話をしやすくするための単なる想像物でしかない、
特定の神様にすがる必要なんてないと思うんです。
…なんて、否定し始めちゃうと、
それは宗教戦争になっちゃいますよね。
象徴としての神様と、自分の内にある神様と、
どちらの神様が優れてるんだ、っていうところですから。
でもそうではないです。
喜ばしいことに日本国では、
信仰は自由だと憲法でも認めています。
ひとりひとりが別の宗教で、
ひとりひとりが別の神様を信じていていいのです。
なので私は、特定の神様も素晴らしいと思います。
それは認めております。どうか神様を信じ続けてください。
でも、私は私の内にある神様を信じ続けますので、
お気遣いなく。。。
それに、どう転んでも1対多で勝てないので、
私は戦えません。ごめんなさい。
出来れば私も教祖のフリして、
お手軽にお金儲けしたかったんですけどね。
自分の内の神様が、
神様なんて人の数だけいるんだって許してくれないんで、
不便なんですよね。
しかも自分の内の神様は、どんなに良いことしても、
存在しない天国へ連れてってくれるわけでもありませんし、
一緒に信仰する友達も出来ませんし、
ポイントもなにもくれませんからね、
この人を信仰しても遣り甲斐ってものがありません。
特定の神様を信仰するっていう行為が、
羨ましいです、ホントに。
私もそうして簡単な目標ぶら下げられて、
楽に生きたいです。
でも、どんなに羨ましくても、
神様が自分の内で見守ってる以上、
信仰を変えることは出来ませんけどね。
ちなみに、あなたが信じてる宗教の概念に輪廻転生があるなら、
何代か前にあなたも神様の生まれ変わりだったかもしれませんよ?
元々神様だったあなたが、
なぜ現世代で神様になってる人を信じます?
さて話が散在しましたが、
人は願うものがある限り果てしないわけです。
あなたの願うものは、
今、どこにありますか?
って、全然上手く締めれてないな。。。