故事成語で見る中国史 「推敲」 http://www23.tok2.com/home/rainy/seigo-suiko.htm
漢詩は、李白と杜甫に代表され、他の時代の追随を許さない、ひとつの高みを実現しました。
では、そうした高みを見せつけられたそれ以後の詩人たちは、自らの個性を発現するための新しい地平をどのような方向に求めることになったのでしょうか。
ごくおおざっぱに言えば、明快な詩を目指す詩人と、難解な詩をものす詩人との二つの流れが現れました。平明な語彙を用いて、より分かりやすい作風の詩を目指した詩人の代表格に、白居易(はくきょい)がいます。一方、難解な語や人の知らない故事を好んで用いて詩を作った代表的な人物に、韓愈(かんゆ)がいます。そして、その韓愈の系統に、賈島(かとう)という詩人がいました。
賈島(かとう)は漢詩をつくる際、アブラ汗をにじませて悩みに悩みぬき、ほとんど命を削るようにして、一字一句を定めていった詩人です。その詩作に対する態度は、まさしく苦吟派というにふさわしいものでした。
その賈島、役人になるべく科挙の試験を受けるために都・長安にやって来たのですが、そんな折りにも詩のことが頭を離れず、あるときロバの背にゆられながら、一句をひねります。その中で、次のような一節を思いつきました。
僧は推(お)す 月下の門
静まりかえって、月明かりだけがあたりを照らす夜、ある僧侶が友人宅を訪れて、その門を開ける、というシーンです。賈島(かとう)は僧侶だった時期があるので、この詩中の僧侶も自分をイメージしているのかとも思われます。
しかし、この一節を噛みしめてみて、「僧は推(お)す」よりも、「僧は敲(たた)く」の方がよいのではないか、と賈島(かとう)は迷います。
もし門を「推(お)す」のであれば、その音は「ぎいい~」といった感じであり、屋敷の友人はその僧侶の来訪をすでに知っており、勝手に入ってゆくことになります。一方「敲(たた)く」にすれば、月明かりの下に「ゴンゴン」という音が響くはずで、屋敷の友人は、その音によって僧侶の来訪を知ることになります。
このどちらのイメージで詩を作るか、街なかであるのも忘れて、ロバに揺られながら賈島(かとう)は悩みに悩みます。そして詩に気を取られるあまり、うかつにも政府の高官・韓愈(かんゆ)の一行にぶつかってしまいます。
もちろん本来ならば、賈島(かとう)が道をゆずらなければならず、大変な非礼にあたることは言うまでもありません。賈島はあわてて、ぼんやりしていた理由をくわしく韓愈(かんゆ)に話しました。
すると、詩人としても名の通った韓愈(かんゆ)のこと、賈島(かとう)の非礼をとがめず、少し考えてから「そこは「敲(たた)く」とした方がよかろう」とアドバイスしたのです。そこから二人は意気投合して、身分の高下もよそに、馬を並べて詩作について語り合う仲になったといいます。賈島のこの故事から、文章を書く際に、じっくり考えて、よりふさわしい字句を選ぶことを「推敲(すいこう)」と言うようになりました。
実際には、まだ賈島(かとう)が僧侶だった頃、僧侶は午後外出してはならないという法令が出され、それを嘆いて賈島がつくった詩を韓愈(かんゆ)が認めて、そこから二人の交友が始まったといいます。しかし後代、この「推敲」の故事の方が広く知られるようになりました。
賈島(かとう)は、墓碑銘にも「名は高く、位は低く」と見えるほどで、官吏としては望むような出世を果たすことはできませんでした。しかし、執着した詩句にまつわる故事に名を残せたのは、あるいは本望であったかも知れません。
漢詩は、李白と杜甫に代表され、他の時代の追随を許さない、ひとつの高みを実現しました。
では、そうした高みを見せつけられたそれ以後の詩人たちは、自らの個性を発現するための新しい地平をどのような方向に求めることになったのでしょうか。
ごくおおざっぱに言えば、明快な詩を目指す詩人と、難解な詩をものす詩人との二つの流れが現れました。平明な語彙を用いて、より分かりやすい作風の詩を目指した詩人の代表格に、白居易(はくきょい)がいます。一方、難解な語や人の知らない故事を好んで用いて詩を作った代表的な人物に、韓愈(かんゆ)がいます。そして、その韓愈の系統に、賈島(かとう)という詩人がいました。
賈島(かとう)は漢詩をつくる際、アブラ汗をにじませて悩みに悩みぬき、ほとんど命を削るようにして、一字一句を定めていった詩人です。その詩作に対する態度は、まさしく苦吟派というにふさわしいものでした。
その賈島、役人になるべく科挙の試験を受けるために都・長安にやって来たのですが、そんな折りにも詩のことが頭を離れず、あるときロバの背にゆられながら、一句をひねります。その中で、次のような一節を思いつきました。
僧は推(お)す 月下の門
静まりかえって、月明かりだけがあたりを照らす夜、ある僧侶が友人宅を訪れて、その門を開ける、というシーンです。賈島(かとう)は僧侶だった時期があるので、この詩中の僧侶も自分をイメージしているのかとも思われます。
しかし、この一節を噛みしめてみて、「僧は推(お)す」よりも、「僧は敲(たた)く」の方がよいのではないか、と賈島(かとう)は迷います。
もし門を「推(お)す」のであれば、その音は「ぎいい~」といった感じであり、屋敷の友人はその僧侶の来訪をすでに知っており、勝手に入ってゆくことになります。一方「敲(たた)く」にすれば、月明かりの下に「ゴンゴン」という音が響くはずで、屋敷の友人は、その音によって僧侶の来訪を知ることになります。
このどちらのイメージで詩を作るか、街なかであるのも忘れて、ロバに揺られながら賈島(かとう)は悩みに悩みます。そして詩に気を取られるあまり、うかつにも政府の高官・韓愈(かんゆ)の一行にぶつかってしまいます。
もちろん本来ならば、賈島(かとう)が道をゆずらなければならず、大変な非礼にあたることは言うまでもありません。賈島はあわてて、ぼんやりしていた理由をくわしく韓愈(かんゆ)に話しました。
すると、詩人としても名の通った韓愈(かんゆ)のこと、賈島(かとう)の非礼をとがめず、少し考えてから「そこは「敲(たた)く」とした方がよかろう」とアドバイスしたのです。そこから二人は意気投合して、身分の高下もよそに、馬を並べて詩作について語り合う仲になったといいます。賈島のこの故事から、文章を書く際に、じっくり考えて、よりふさわしい字句を選ぶことを「推敲(すいこう)」と言うようになりました。
実際には、まだ賈島(かとう)が僧侶だった頃、僧侶は午後外出してはならないという法令が出され、それを嘆いて賈島がつくった詩を韓愈(かんゆ)が認めて、そこから二人の交友が始まったといいます。しかし後代、この「推敲」の故事の方が広く知られるようになりました。
賈島(かとう)は、墓碑銘にも「名は高く、位は低く」と見えるほどで、官吏としては望むような出世を果たすことはできませんでした。しかし、執着した詩句にまつわる故事に名を残せたのは、あるいは本望であったかも知れません。