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「台詞と科白」 別役 実

2015年10月10日 00時12分54秒 | エッセイ(模範)
 「ベスト・エッセイ」 2014 日本文藝家協会編  光村図書 2014年

 「台詞と科白」 別役 実 P-348

 舞台で俳優がしゃべる言葉を「せりふ」と言うが、これを漢字で書く場合、「台詞」と「科白」の二通りがある。もちろん、内容も少し違う。「台詞」は言葉だけのものを言い、「科白」は、それに仕草が加わったものを言うのである。

 そして、これをこのように使い分けるに当たっては、演劇の言葉に対する独特の感じ方がある、と考えていいだろう。たとえば「煙草はせりふを割って吸え」という教訓がある。舞台で煙草を吸う場合の、演技者に与えられる教訓であるから、一般には知られていないかもしれないが、「台詞」と「科白」の違いを体得するには、良い手がかりになるものと思われる。

 言っているのは、舞台で煙草を吸う場合、ひとつの「せりふ」を言い終わってから吸うのではなく、その「せりふ」の途中で、「せりふ」を割って吸え、ということである。当然煙草を吸う場合、それをポケットから出し、一本つまみ、口にくわえ、火をつけ、吸い、吐くという、細かい動作が必要とされるから、それらを全て、細かく「せりふ」と「せりふ」の間に、配分していかなければならない。

 「それでね(と煙草を出し)言ってやったんだよ、私は(と一本くわえ)あっちへ行けってね(と火をつけ)そいつの目の前(と吸い込み)でさ・・・(と吐く)というような具合である。「何だそれだけのことか」と思ってはいけない。実際にやってみるとわかるが、これくらいのことは日常やっているにもかかわらず、意識的にやろうとすると、かなり難しい。「せりふ」をスムーズに連続させようとすると動作が途切れ、動作をなめらかにしようとすると、「せりふ」が停まってしまったりするからだ。何度か練習して出来るようになると達成感すら得られることになるだろう。

 そして、効果のほどは明らかだ。こうして出来上がった「せりふ」は、一度身体をくぐらせてきたもののように、手触りのあるものに変質している。つまり「台詞」は「科白」に変わったのだ。同時に、その働きも変わったと言えよう。

 「台詞」の場合聞き手は、発信された情報を受信するだけだが、「科白」の場合の聞き手は、その動作に自分自身の身体のリズムを同調させざるを得ないから、情報の発信と同時に、それへの共鳴にも思わず誘われることになる。つまり言葉は、発信し受信されるだけでなく、それに加えて共有し共鳴されなければならない、というのが「科白」の考え方なのである。

 以下略