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「私の文章修行」 吉行 淳之介

2015年05月23日 01時35分10秒 | 文章読本(作法)
 「私の文章修行」 吉行 淳之介 「物書きのたしなみ」所載 実業之日本社 2014年

 長年のあいだ文章を書いてきているのならば、いわゆる「手がきまる」というかたちになって、それほどの苦労もなく文章が書ける、と小説家についてそう考えている人が多いようだ。このことについては、ジャーナリストといえども油断ならない。
 先日も、ある雑誌社から電話がかかってきて、
「お手すきのときに、ちょっと小説を五十枚、書いてくれませんか」
 と言われた。
 私は唖然として、「は、はい」と返事しておいた。
 言うまでもないことだろうが、文章というものはそれだけが宙に浮いて存在しているわけではなく、内容があっての文章である。地面の下に根があって、茎が出て、それから花が咲くようなものである。その花を文章にたとえれば、根と茎の問題が片付かなくては、花は存在できないわけである。
 そこが厄介なところで、おまけに一つの作品ができ上ると、いったんすべてが取り払われて、地面だけになってしまい、またゼロからはじめなくてはならない。その上、その土地の養分はすべて前に咲いた花が使い切ってしまっているので、まず肥料の工夫からはじまる(土壌と根と茎が十分なかたちで揃えば、おのずから立派な花が咲くとおもっていいのだが、やはりその花の様相を整えることが必要である。ここではじめていわゆる「文章」が独立した問題として出てくる。技術についての事柄もいろいろとあるわけだが、私が言いたいのは、自分自身の花については花弁の繊毛についても敏感だが、他人の花のことはそんなに細かいところまで見ない。立派に咲いているかどうか、というその様子のほうにもっぱら眼がゆく。ということは、花を支えるもののほうに、はるかに重点を置いて考えていることになる。もちろん、花自体も肝心なことに間違いないが、他人の花の細部まで調べているヒマはない。下部構造がしっかりさえしていれば、花の整え方はその人の個性に属することで、かなり歪んだ花のかたちでもその人にとってはそれでいいわけである)
 ・・・・・文章を書く苦労が私をかなりうんざりさせていることについて、書いているのである。

 以下略

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