民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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古典は「昔の日本語」である 橋本 治

2015年01月09日 00時08分14秒 | 古典
 「ハシモト式 古典入門」 橋本 治 1948年生まれ  ごま書房 1997年

 古典は「昔の日本語」である P-230(文庫)

 「古典をわかるようになる」のに一番必要なのは、「慣れる」ということです。「慣れる」のに一番手っ取り早い方法は、「暗記する」です。だから、「古典の冒頭を暗記して暗唱する」は、古典学習の場合、とても重要です。

 古典は、「昔の言葉」で書かれたものです。「今の言葉」じゃありません。その点で、「古典をマスターする」は、「外国語をマスターする」と同じです。「外国語をマスターする」で重要なのは、「その言葉に慣れる」です。だから、今では「英語の外国人教師」というものが、当たり前にいます。「直接外国の人が話すのを聞く」は、「慣れる」に関してとっても重要なことだからです。でも、その「外国語のようなもの」である「古典の言葉」は、もう話す人がいません。「本の中にしかない言葉」です。だから、どうなるのか?――自分で古典の言葉を暗記して暗唱して、それが「今でも使われている言葉の先祖だ」ということに、時々自分で気がつくのです。そのためにも、「暗記・暗唱」は有効な手段なんです。

冒頭を暗唱しなさい 橋本 治

2015年01月07日 00時11分02秒 | 古典
 「ハシモト式 古典入門」 橋本 治 1948年生まれ  ごま書房 1997年

 冒頭を暗唱しなさい P-229(文庫)

 この本で、「内容紹介」を無視して、原文の書き出しだけをできるかぎりあげるようにしたのは、「この古典はこういう文体で書かれているのか」ということを知ってもらいたいためと、もう一つ、「この古典はこうふうに始まっているのか」を知ってもらいたいためです。

 今ではあんまりはやらなくなりましたが、昔は「古典の勉強」というと、まず「暗唱」でした。冒頭の部分を覚えて暗唱するんですね。古典という「昔のもの」とつきあうのなら、「昔のつきあい方」は有効です。だから私は、「暗唱」をおすすめします。それをしてほしいがために、「冒頭」を並べたんです。ただ、この本に並べたのは「冒頭のさらに冒頭」ですから、その先を知りたかったら、本屋さんか図書館で「現物」に当たるしかありません。どうぞ、それをやってください。もうあなたは、「冒頭の冒頭」を知っているのです。全然知らないものに当たったら身がまえますが、でもあなたは「全然知らない」というわけじゃないんです。「ちょっと知っていることの先はどうなっているのかな?」と、ほんのちょっとのぞくつもりで見てください。「知識」なんかどうでもいいんです。そうやって、「慣れる」ということをするのです。
 泳ぎをマスターするのにまず必要なのは、「水に入ること」です。古典の冒頭とは、その「水」なんです。

私が『枕草子』を 橋本 治

2015年01月05日 00時12分52秒 | 古典
 「ハシモト式 古典入門」 橋本 治 1948年生まれ  ごま書房 1997年

 私が『枕草子』を「女の子のおしゃべり言葉」で訳したわけ P-217(文庫)

 「和漢混淆文」は、日本人が日本人のために生み出した、もっとも合理的でわかりやすい文章の形です。これは、「漢文」という外国語しか知らなかった日本人が、「どうすればちゃんとした日本語の文章ができるだろう」と考えて、長い間の試行錯誤をくりかえして作り上げた文体です。「自分たちは、公式文書を漢文で書く。でも自分たちは、ひらがなで書いた方がいいような日本語をしゃべる」という矛盾があったから、「漢文」はどんどんどんどん「漢字+ひらがな」の「今の日本語」に近づいたんです。漢文という、「外国語」でしかない書き言葉を「日本語」に変えたのは、「話し言葉」なんです。つまり、日本人は、「おしゃべり」を取り込んで自分たちの文章を作ってきたということです。

 その「書き言葉の文章」が、どこかで壁にぶつかったんです。だから、「活字離れ」という現象が起きたんです。だったら、その壁にぶつかった「書き言葉の文章」をもう一度再生する方法は、一つしかないんです。「硬直化した書き言葉の中に、生きている話し言葉をぶちこむ」です。日本人は、ずーっとそれをやってきたんですから、またそれをやればいいんです。でも、いつの間にか、「話し言葉はちゃんとした文章にはなれない」というような偏見が生まれていました。しかもそれは、「古典なんてもう古い」と言われるようになってしまった時期と、重なっていました。

 それで私は、「ああそうか」と思って、忘れられかけた古典を、現代の女の子のおしゃべり言葉で訳したんです。「春って曙よ!」で始まる私の『桃尻語訳枕草子』は、それで生まれました。「古典」と「話し言葉」は、ちゃんと重なるんです。

 でも、それをやった当時は、「え?」とびっくりされました。でも、「ひらがなだけの文章」で書かれた清少納言の『枕草子』は、話し言葉の方がふさわしいんです。この章で、私が『徒然草』の文章を「ああだこうだ」と訳していたことを思い出してください。「古典の文章だからふざけて訳しちゃいけないんじゃないか」なんて手加減をして中途半端な訳し方をしていたら、「とってもわかりの悪い訳文」にしかならなかったでしょう?

『徒然草』は、 橋本 治

2015年01月03日 00時16分17秒 | 古典
 「ハシモト式 古典入門」 橋本 治 1948年生まれ  ごま書房 1997年

 『徒然草』は、別に現代語に訳さなくてもいい古典

 やっと『徒然草』の出番です。「やっと」と言っても、べつに『徒然草』が日本の古典の最高峰というわけじゃありません。「やっとそのままでも読める古典が出てきた」ということですね。

 <神無月のころ、来栖野といふ所を過ぎて山里に尋ね入る事はべりしに、遥かなる苔の細道を踏みわけて心ぼそく住みなしたる庵あり>

 『徒然草』の第十一段です。なんとわかりやすい文章なんでしょう。
「神無月」とはいつか?「来栖野」とはどこか?「はべり」という言葉の意味はなにか?「庵」というのはどんな建物か?それは、辞書を引けばわかることです。わかりにくいところは、<心ぼそく住みなしたる>というところだけですが、これは、主語を考えればわかるでしょう。「神無月のころ、来栖野のいふ所を過ぎて山里に尋ね入」ったのは兼好法師で、「遥かなる苔の細道を踏みわけて心ぼそく住みなし」ているのは、兼好法師とは違う「庵の住人」です。「この庵の住人はきっと心ぼそく暮らしているのだろうなァ」と兼好法師には思えるような「庵」が、そこにあるんです。訳はかんたんにできそうですね。もしかしたら、これは「英語に訳しなさい」も可能な文章です。関係代名詞を使えばいいんですからね――「庵 which 遥かなる苔の細道を踏みわけて心ぼそく住みなしたる」です。それくらい、この文章の構造は明快です。

 兼好法師の文章は、よく「近代の日本語の先祖」というような言われ方をします。つまり、兼好法師の文章は、現代人でもそのまんま読めるんです。「でもオレは読めない」なんてことは言わないでください。この「読める」は、「読める人だったら読める」ということなんですから。この文章の構造は、我々の知っている現代日本語とほとんど同じものですね。だから私は、この『徒然草』をわざわざ現代語に訳す必要なんかないんだと思います。

平安時代に、 橋本 治

2015年01月01日 00時04分57秒 | 古典
 「ハシモト式 古典入門」 橋本 治 1948年生まれ  ごま書房 1997年

 平安時代に、ラブレターは「生活必需品」だった P-77(文庫)

 「目と目が合った」だけで「処女を失った」という時代です。そんな時代に、男と女はどうやって”知り合い”になればいいんでしょうか?

 顔がわからなくたって、「そこに女がいる」と思えば、どうしても男は気になります。女の方だって、自分がじっとしている前をすてきな男が通りかかったら、やっぱり心が動きます。そんな時、「あなたに関心を持っている人間がここにいますよ」ということを、どうやって相手に伝えるのか?和歌というものは、そのことを伝えるための道具だったんです。

 顔は見せられないけど、声だけはかけられる。手紙だけは送れる。そういう時代には、和歌が重要なんです。和歌がなかったら、男と女は恋愛ができないんです。恋愛だけじゃありません。和歌がなかったら、男と女はあいさつもできません。男と女だけじゃなくて、男同士だって、和歌で「会話」をします。平安時代の和歌がほとんど「言葉」とか「感情」というものと同じだったということは、紀貫之のかいた『古今和歌集』の序文からでもおわかりになるでしょう。「和歌というものは、人の心の中にある感情を核として生まれた言葉によってできている」「人間は、なにかを見たり聞いたりするにつけて、自分の感情を形にした和歌を詠む」です。