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「将棋の鬼」 坂口 安吾

2015年01月27日 00時47分37秒 | エッセイ(模範)
 「日本の名随筆」 別巻 8  「将棋」 団 鬼六 編  作品社 1991年

 「将棋の鬼」 坂口 安吾 P-227

 将棋界の通説に、升田は手のないところに手をつくる、という。理屈から考えても、こんなバカな言い方が成り立つ筈のものではない。
 手がないところには、手がないにきまっている。手があるから、みつけるのである。つまり、ほかの連中は手がないと思っている。升田は、見つける。つまり、升田は強いのである。
 だから、升田は手がないと思っているところに手を見つける者が現れれば、その人は升田に勝つ、というだけのことだろう。

 将棋指しは、勝負は気合だ、という。これもウソだ。勝負は気合ではない。勝負はただ確実でなければならぬ。
 確実ということは、石橋を叩いて渡る、ということではない。勝つ、という理にかなっている、ということである。だから、確実であれば、勝つ速力も最短距離、最も早いということでもある。

 升田はそういう勝負の本質をはっきり知りぬいた男で、いわば、升田将棋というものは、勝負の本質を骨子にしている将棋だ。だから理づめの将棋である。
 升田を力将棋という人は、まだ勝負の本質を会得せず、理と云い、力というものの何たるかを知らざるものだ。
 升田は相当以上のハッタリ屋だ。それを見て、升田の将棋もハッタリだと思うのだが、間違いの元である。
 もっとも、升田の将棋もハッタリになる危険はある。慢心すると、そうなる。私は現に見たのである。

 昨年の12月8日、名古屋で、木村升田三番勝負の第一回戦があって、私も観戦に招かれた。
 私が升田八段に会ったのは、この時がはじまりであった。

 以下 略

 坂口 安吾 1906~1955 小説家
 「風博士」等のファルスを収録した「黒谷村」を刊行し注目される。以後、矢田津世子との恋愛の行く末を小説化した「吹雪物語」ほかを執筆したが、戦後、焼跡闇市の世相を鋭く突いた「堕落論」等の評論エッセイで時代の寵児となる。破天荒な生き方と作風から無頼派と称された。
 棋士の中で特に好きだった木村義男と升田幸三の対局を心理面から分析した「観戦記」も面白い。