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「瞽女唄の特色」 斎藤 真一

2015年01月19日 00時35分35秒 | 伝統文化
 「瞽女(ごぜ) 盲目の旅芸人」 斎藤 真一  日本放送出版協会 1972年(昭和47年)

 「瞽女唄の特色」 P-187

 瞽女唄には一見くどくどと口説き込んだ大変意味のむずかしい唄がある。
たとえば祭文松坂や口説きのように非常に長い一段三十分もの語り物もあるが、
これらは昔言葉、侍言葉で彼女たちが伝統をある種の盲目的と思えるほど素直に維持したためだと思う。しかし、けっして当時としてはそんなにむずかしい言葉ではなかった。
なぜなら今六十歳以上の老人は、その意味をよく解し、涙をながしていつまでも聞き入り、
今日は何段目、明日は何段目とその先を、幼児のごとく待ち焦がれていたからだ。
そしてろれらの語り物はくどくどと面白おかしく、そして悲しく、
すばらしい人間絵図の展開でもあった。

「瞽女さんよ、明日の晩も泊まって次を聞かしてくんないかね。最後はどうなるかね」
と村びとはしきりとせがみ、話のなりゆきを案ずるばかりの熱の入れ方であった。
だから今の人にはこれらの段物を一聞して、
なんとくどいむずかしい意味の文体だと思うかも知れないが、
けっして形だけの理性にふりまわされた唄ではなく、当時の人びとの本能に食い入るものであった。

 私は唄というものは、理屈ではなく本能的なものでなくてはならぬと思っている。
感動でなくてはならぬと思っている。
しかしいたずらに精神的でありすぎたり、また逆に本能的に個性的になりすぎてもだめだと思っている。唄はたえず民衆と直結していなくてはならぬし、
何といっても、真実の人間の歓びや悲しみでなくてはならぬはずでもある。
人間の命のない唄ほどつまらないものはない。
人びとは理性を尊びすぎてメカニックになったり、
本能を重要視しすぎて動物的になり下がったりするものだ。
体内にこんこんと流れる血のような唄、それに理性の喜びをあたえたのが真の人間の唄であると思う。(略)
知性と教養と情感の三位一体は遠い昔から人間のもとめた一つの美の鉄則でもあった。

 私は最近よく僻地の農村を巡って時にふれ、折にふれて、
文明からかくぜつされた村の人びとが親切で素朴で実直で人柄のいいのに驚くことがある。
教養は大学教授や賢夫人だけにあるものではなくて、僻地の農家の婦人にもあったりするのである。
そこの魚屋さんのおかみさんにあり、茶屋女にあり、遊女にだって存在している。
むしろ全く正反対であった。
その情感や、やさしく親切で心ある教養に心うたれる。
知性だけの冷たい才女はほとほとごめんである。
瞽女唄は、情感の唄であり、すばらしい教養の唄であるといつも思っている。