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「執念の書」 吉田東伍

2014年10月12日 01時49分41秒 | 雑学知識
 「知の職人たち」  紀田 順一郎 著  新潮社  1984年(昭和59年)発行

 「天才学者の一本勝負」 吉田東伍

 「執念の書」 P-9

 早稲田大学図書館の書庫の奥深く、545の帙(ちつ)に収まって、数万枚の膨大な原稿が保存されている。美濃紙に木版手刷り、25字詰め14行の原稿用紙は毛筆の細字でびっしり埋め尽くされ、ところどころには苦心の推敲を窺わせる貼紙があるが、わずかな例外を除いて、たった一人の筆跡であることに驚かされる。字数にして1,200万字、おそらく個人の著述としては最大規模であろう。
 明治の後半という時代に、一人の貧しい無名の学究が、ひたすら学問情熱に駆られてこの原稿を綴った。学歴はなく、前途に何の保証もなかったが、天びんの才質と情熱に恵まれていることだけが、わずかな救いだった。周囲の人々も、その可能性という名の手形に賭けた。
 13年という年月を経て、すべての原稿が成ったとき、著者は序文にただ一言、「悪戦僅かに生還するの想いあり」とのみ記した。その真相を知る者はいまや絶えてしまったけれども、多くの心ある研究者たちは、いまなお学問的情熱そのものの源泉を、本書の中に見出している。書架に備えておくだけで不断に鼓舞されるという人も多い。
 著者の名は吉田東伍。書名は『大日本地名辞書』。1982年に「余材」と名づけられた未刊の稿本、約8,000枚を加えた増補版が完結した。初版以来70数年ぶりという息の長さも驚異だが、全国的に地名保存運動の動きが活発になっている現代にあって、地名の歴史的考証を目的とした本書の価値は、むしろ高まる一方とさえ言うことができる。そうした運動の一環として地名学の発展を目指す谷川健一は、「私は目標を模索する必要はない。すでに地名辞書がある。ひとりの人間の志と気迫と執念がかくも見事に業績として結晶した例を私は知らない。光栄ある辞書よ」(増補版推薦文)と述べた。この本の普遍的価値を、まことによく示していると言えよう。