「人間臨終絵巻」 上 山田 風太郎 著 角川文庫 平成26年
「尾崎放哉」 1885~1926 P-233
一高で漱石の講義を聴き、東大法学部を出て、東洋生命保険会社(いまの朝日生命)に就職した尾崎秀雄は、約十年後退社して、朝鮮火災海上保険会社の支配人となったが、一年で馘首(かくしゅ)されて、妻とともに満州を放浪した。大正十二年、38歳のときである。原因は、一応は、酒を飲むと人が変わる酒癖の悪さであった。
しかし、、ほんとうの原因は、人間界に暮らせない「底のぬけた柄杓(ひしゃく)」のような、彼の異様な性格にあった。彼は帰国し、妻と別れ、京都や須磨や小浜(おばま)の寺男となってさまよい出した。それらの寺を短時日に追い出されたのち、彼は、大正十四年八月、小豆島(しょうどじま)の西光寺奥の院の堂守となった。そして、七ヶ月後の大正十五年四月七日にひっそりと死んだ。
一流の大学を出ながら、俗界と縁を断ち、ただ短詩の極限ともいうべき句を作り捨てるのみの孤独漂泊の人生にはいったその生き方は、後までふしぎに、ある人々の憧憬のまととなった。
しかし、実際の放哉の生活は、当然苛烈なものであった。彼は孤独を望んだにちがいない。が、人間は孤独にいきるにも、最低限度の収入が必要であった。それがなかった。彼は友人や島の人々に金や食物を乞わなければならなかった。
「入れ物が無い 両手で受ける」
彼は孤独を愛したにちがいない。しかし彼は、別れた妻を恋した。
「咳をしても ひとり」
放哉は、ほとんどもらいものの焼米と焼豆だけで暮らした。満州で病んだ肋膜炎はやがて肺結核となり、さらに咽頭結核に進んだ。怖ろしい栄養不足はその症状を昂進した。
十二月二十五日、『食記』と題する手記に彼は書く。
「銭湯ニ行ク。全ク四ヶ月目ナリ。(中略)入浴シテ久シ振リニ姿見ニ、吾ガ裸体ヲウツシテ見ル。イヤ痩セタリナ、マルデ骨皮ナリ。(中略)十貫目モアラザルベシ」
彼の身長は五尺三寸三分(約1メートル60センチ)であったが、それが十貫(37.5キロ)ないというのである。
翌年の三月には、体温計を腕と肋骨の間にはさんでも、隙間があいて落ちるようになった。口にくわえてみると、熱は38度を越していることが多かった。
三月十五日に彼は書いた。
「スキ焼キで一杯ヤッテ死ニタシ、タノムタノム、扨(さて)、誰ニタノム」
そして彼は、四月七日の午後四時ごろに息をひきとった。彼の最後を看とったのは、親切で朴訥な近くの漁師の家の老婆シゲであった。シゲはいう。
「いよいよこと切れたのが四月の七日の午後四時頃でした。いつにも似ず元気が無うて<おばさん、私はもう駄目じゃ、どうもそういう気がしてならん>と、いいなさるので、私が<それじゃ、どこかへ電報でも打つところがあれば言いなさいませ、知らせてあげますから>と、いいますと、<いやいや、私には誰も知らせてやるものはおらんのじゃ。わしはひとりで死ぬるのじゃ>(中略)そうして、むっくり起き上がり、<おばさん、手紙を書こうかな>といいますので、<何を言いなさる、そう弱って手紙なんか書けますかいな>というと、<そうだな>と、うなづかれましたが、そのままがっくりと私の膝の上に頭を仰向けに落として、両側の眼をくうと上に吊りあげました」
この年で大正は終わる。
彼は道を求めるというより死を求め、死を求めるより、人間世界から逃避するために、たった一人の生活にはいった。しかし、その孤独の極限ともいうべき生き方は、意外に多くの人々のあこがれるところとなり、彼の死んだ小豆島の西光寺には彼を記念する立て札と句碑が建てられた。
しかし、彼よりも哀切なのは、彼に捨てられ、紡績工場の女工の寮母となり、放哉の死後三年十ヶ月で、チフスで死んでいった美しい妻の薫(かおる)であったろう。
「尾崎放哉」 1885~1926 P-233
一高で漱石の講義を聴き、東大法学部を出て、東洋生命保険会社(いまの朝日生命)に就職した尾崎秀雄は、約十年後退社して、朝鮮火災海上保険会社の支配人となったが、一年で馘首(かくしゅ)されて、妻とともに満州を放浪した。大正十二年、38歳のときである。原因は、一応は、酒を飲むと人が変わる酒癖の悪さであった。
しかし、、ほんとうの原因は、人間界に暮らせない「底のぬけた柄杓(ひしゃく)」のような、彼の異様な性格にあった。彼は帰国し、妻と別れ、京都や須磨や小浜(おばま)の寺男となってさまよい出した。それらの寺を短時日に追い出されたのち、彼は、大正十四年八月、小豆島(しょうどじま)の西光寺奥の院の堂守となった。そして、七ヶ月後の大正十五年四月七日にひっそりと死んだ。
一流の大学を出ながら、俗界と縁を断ち、ただ短詩の極限ともいうべき句を作り捨てるのみの孤独漂泊の人生にはいったその生き方は、後までふしぎに、ある人々の憧憬のまととなった。
しかし、実際の放哉の生活は、当然苛烈なものであった。彼は孤独を望んだにちがいない。が、人間は孤独にいきるにも、最低限度の収入が必要であった。それがなかった。彼は友人や島の人々に金や食物を乞わなければならなかった。
「入れ物が無い 両手で受ける」
彼は孤独を愛したにちがいない。しかし彼は、別れた妻を恋した。
「咳をしても ひとり」
放哉は、ほとんどもらいものの焼米と焼豆だけで暮らした。満州で病んだ肋膜炎はやがて肺結核となり、さらに咽頭結核に進んだ。怖ろしい栄養不足はその症状を昂進した。
十二月二十五日、『食記』と題する手記に彼は書く。
「銭湯ニ行ク。全ク四ヶ月目ナリ。(中略)入浴シテ久シ振リニ姿見ニ、吾ガ裸体ヲウツシテ見ル。イヤ痩セタリナ、マルデ骨皮ナリ。(中略)十貫目モアラザルベシ」
彼の身長は五尺三寸三分(約1メートル60センチ)であったが、それが十貫(37.5キロ)ないというのである。
翌年の三月には、体温計を腕と肋骨の間にはさんでも、隙間があいて落ちるようになった。口にくわえてみると、熱は38度を越していることが多かった。
三月十五日に彼は書いた。
「スキ焼キで一杯ヤッテ死ニタシ、タノムタノム、扨(さて)、誰ニタノム」
そして彼は、四月七日の午後四時ごろに息をひきとった。彼の最後を看とったのは、親切で朴訥な近くの漁師の家の老婆シゲであった。シゲはいう。
「いよいよこと切れたのが四月の七日の午後四時頃でした。いつにも似ず元気が無うて<おばさん、私はもう駄目じゃ、どうもそういう気がしてならん>と、いいなさるので、私が<それじゃ、どこかへ電報でも打つところがあれば言いなさいませ、知らせてあげますから>と、いいますと、<いやいや、私には誰も知らせてやるものはおらんのじゃ。わしはひとりで死ぬるのじゃ>(中略)そうして、むっくり起き上がり、<おばさん、手紙を書こうかな>といいますので、<何を言いなさる、そう弱って手紙なんか書けますかいな>というと、<そうだな>と、うなづかれましたが、そのままがっくりと私の膝の上に頭を仰向けに落として、両側の眼をくうと上に吊りあげました」
この年で大正は終わる。
彼は道を求めるというより死を求め、死を求めるより、人間世界から逃避するために、たった一人の生活にはいった。しかし、その孤独の極限ともいうべき生き方は、意外に多くの人々のあこがれるところとなり、彼の死んだ小豆島の西光寺には彼を記念する立て札と句碑が建てられた。
しかし、彼よりも哀切なのは、彼に捨てられ、紡績工場の女工の寮母となり、放哉の死後三年十ヶ月で、チフスで死んでいった美しい妻の薫(かおる)であったろう。