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「使ってみたい武士の日本語」  野火 迅

2014年01月25日 00時11分28秒 | 雑学知識
 使ってみたい「武士の日本語」  野火 迅(のび じん)著  草思社 2007年

 あとがき―――やせ我慢と品格

 戦国乱世から泰平の世に移るとともに、武士の信条は「腹が減っては軍(いくさ)はできぬ」から
「武士は食わねど高楊枝」へと移り変わった。
戦国乱世にあって軍(いくさ)に明け暮れた武士たちは、食うことの大切さを、
いやというほど体で(胃で)味わったはずだ。
遠征は、兵站(へいたん)がじゅうぶんに整っていなければ成り立たないし、
籠城戦は、兵糧が尽きればおのずと敗北が決する。―――
軍(いくさ)と出世と治世が一体になっていた戦国乱世においては、「腹が減っては軍はできぬ」は、
たんなる生物的欲求の次元を超えた「武士の理念」であったということができる。

 ところが、戦国乱世の総決算である関ヶ原の戦いに決着がついて江戸に徳川幕府が
開かれてからというもの、軍(いくさ)は、武士の本分ではなくなった。
江戸時代とは、一口にいえば、徳川幕府の強大な軍事力と抜かりのない諸国大名への
監視体制によって築かれた泰平の世である。
その世においては、軍(いくさ)は、むしろあってはならないものだった。

 その時勢に応じて、主君への忠誠が下克上に取って代わり、剣は実戦の武器から
心身修養の道具になり、鎧をまとって戦場に馳せる武士の仕事は、肩衣(かたぎぬ)を着けて
城へ出仕(出勤)することに変わった。
そこで生まれたのが、「腹が減っては軍(いくさ)はできぬ」の実践論に対する
「武士は食わねど高楊枝」の精神論である。

 この言葉は、ありていにいえば、「武士のやせ我慢」を表したものだ。
内職なしには家計を支えられない五十石取りの「平侍(ひらざむらい)」も、
港湾の重労働で日銭を稼ぐ「裏店(うらだな)住まい」の浪人者も、武士は武士。
たとえ今日の米や酒代に窮することがあっても、彼らは、武士の気位を保ちつづけることができた。
実際には、藩財政逼迫(ひっぱく)のあおりを食って薄給を減給された平侍などは、
すっかりしょぼくれて武士の風格と精彩を失い、
大名取り潰しによって生み出された食い詰め浪人の多くは、堕落して博徒の用心棒や盗賊と化した。
だがそれでも武士の誇りは、彼らの心の拠り所でありつづけたのだ。
立身出世によってしか自分の価値を測れなかった戦国武士とは、えらい違いである。

 江戸時代の武士は、「武事をおこなわずして武士とはこれいかに」といいたくなる
奇妙な存在なのだが、逆にいえば、もはや港湾労働者やヤクザの用心棒でしかない浪人にまで、
「食わねど高楊枝」の気位をほどこした「武士」というコンセプトの強さは驚嘆に値する。
徳川幕府が念入りにつくりあげた「武士道」のたまものであろう。

 ちょっとむずかしげな理屈を並べてしまったが、ここで筆者が注目したいのは、
ひとえに「武士のやせ我慢」である。
「やせ我慢」は、「品格」と紙一重だ。いや、ほとんど同義とさえいえる。
金に困っているときにも困っていないようにいい、怒っているときにも冷静なように見せかけ、
何かへの欲に駆られているときにも無欲恬淡(てんたん)のようにふるまい、
明らかに自分の損になるとわかっていることを名誉(意地)に懸けておこなう。―――
それらはすべて、「やせ我慢」という本体が形のうえで「品格」になって現れたものだ。

 思うに、本書で紹介した「武士の日本語」の多くは、
やせ我慢を素にした品格によってつくられている。
たとえば、当座の金がないことを表す「手元不如意(ふにょい)」は、いかにも品格のある言葉だが、
生活全般の苦しさにあえいでいることを隠すという意味で、やせ我慢が素になっている。
また、「これはしたり」というクールな一言は、
「何をいうか!」と叫び立てたい怒りを抑えたところから出てくる。
さらには、「武士の一分」などは、利にも欲得にもかかわらない武士の対面を表している点で、
「武士のやせ我慢」を象徴する言葉であるといえよう。

 ところで、筆者の目的は、武士の品格の正体がやせ我慢であることを暴(あば)き、
「つまるところ、武士も、本質的には現代人と同じだった」などと総括することにはない。
人が自分自身を律する方法は、しょせん、やせ我慢しかないのだ。
それがなかなかできないから、現代人は、しばしば品格のない言動を人前にさらすことになる。
そこへいくと、やせ我慢がしっかりとできた江戸時代の武士とは、
なんと成熟した人々であったことか。―――筆者はそういいたいのである。



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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
武士は食わねど高楊枝 (MAYU)
2014-01-26 00:41:21
私の父や夫がまさにこんな感じでして・・・

威厳を保ち続けたい気持ちがあるようですが
周囲に見栄を張ってばかりいるため
家族にしわ寄せがやってくるので
家族は迷惑しています・・・

偉そうなことを言って、自分はやらないで
奥さんや娘に頼っていたりしますし。

けれど、そういうやせ我慢の部分に支えられて
自分を保っていたりしますしね。

自分の生き様を大切にしたいと考える姿勢は
ある意味品格があると言えるのかもしれません。

我慢しすぎもこまりますが(^_^;)
返信する
RE武士は食わねど高楊枝 (akira)
2014-01-26 02:31:34
 江戸時代、おもしろいです。

 よく今の若者はすぐ切れるというけど、
それはやせ我慢ができないからとも言えますね。
やせ我慢、言葉は悪いけれど、
やせ我慢ができない世代になってきたような気がします。
返信する
興味深い! (MAYU)
2014-01-27 09:41:35
非常に興味深い内容です。

江戸って確かにまだ西洋の影響をさほど受けていないので
日本のよさが出ていた時代ですよね。

私なんかは結婚生活をしていて
三歩下がるを実践していても、ストレスが積み重なって
爆発してしまうタイプです・・・
「今の時代は~」という考えがどうしても強くなってしまいまして。

けれど、三歩下がりながらも<夫をコントロールする妻>というのは
自分を殺しているわけではないですね。
自由を主張する女性よりも、筋が一本通っているような気さえします。

とはいっても、熟年離婚という言葉があるように
死ぬまで三歩下がる妻はやりたくない!
という60代くらいの妻の考えもチラホラと出てきているので
夫が「妻の尻に敷かれる」ことも大事なのでは?と思ったりもします。

昔の人が残してきた言葉は興味深いですね。
それがお話だったり、格言だったり、
生きる上で大切なエキスが含まれているように思います。

若者が悪いのではなく、若者がそうなってしまいそうな
社会環境を作ってしまった大人にも責任があるように思います。

昔からの考えと、今の考えが手を繋いで
日本らしさを残せたらいいのですが
男尊女卑が時代背景にあるだけに、特に女性には受け入れがたいのかもしれません。
返信する
RE興味深い (akira)
2014-01-28 01:41:26
 なにかを考え直す機会になれば幸いです。

 むかし、日本は「恥の文化」といわれたけど、
そんなことにも思い至ります。

 恥ずかしいことをするなら死を選ぶ。
「武士は食わねど高楊枝」とは
そんな武士の心情(矜持)を表したものではないか。

返信する
漱石の『こころ』を読んで・・・ (MAYU)
2014-02-03 00:15:33
akiraさん、夏目漱石の『こころ』をたまたま読む機会があったので読んでいたら
私はこの作品に出てくる登場人物(特に男性から)
「恥」のようなものを感じ取りました。

厳密に言うと「恥」ではないのですが
男性が大切にしてきたこととでも申しましょうか。

漱石の作品は、以前、朗読の講演会で聞いたことがあったのですが
改めて深い読みが問われる作品だと思いました。

お話を語るのとは違いますが、創作物を語る場合の
何かの参考になる気がしましたよ。
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RE漱石の『こころ』を読んで・・・ (akira)
2014-02-03 10:46:22
 一度(前に)読んだ本を読み返すというのは
エネルギーがいります。
 映画は何度も観た映画があるのに、
読み返した本はほとんどないですね。

 どうしてなんだろう?
はずれはないと思うんだけどな。
 たぶん、読みたい本がまだまだあって、
そっちを優先させているってことかな。
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