民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「早川義夫のエッセイ」 その2 

2013年02月08日 01時00分42秒 | エッセイ(模範)
 早川義夫 エッセイ その2 「ラブ・ゼネレーション」

 「この世で一番キレイなもの」初回プレス付録パンフレット 1994年

 歌をやめた時、僕はいつか、たとえば五十か六十歳で、
また歌を歌いたいと漠然と思っていた。
そうしなければ自分が終わらない気がしたのである。

 歌いたいことがあるから歌う。
歌いたいことがないなら歌わない。
それが歌っていることなのだ。

 声を出さなくとも歌は歌える。
僕は歌わなかった二十数年間、実は眠っていたのではなくて
「歌っていたんだね」と思われるように今歌いたい。

 音が出る一歩手前の沈黙。
音を出す一歩手前の息づかい。
それが美しいかどうかですべてが決まる。

 音楽は音でもない、言葉でもない。
沈黙なのだ。

 言葉をどこに届けるか。
音をどこに届けるか。
その距離がわかっていなければ、歌は歌えない。

 声が聞こえてくるだけではいけない。
顔や体や足が見えてきてはじめて歌になる。

 音が鳴っているだけではいけない。
色や形や風景が見えてきてはじめて音楽になる。

 音を記録するのではない。
空気を記録するのだ。
加工しなくていい。

 何かをいじると、必ず何かがゆがむ。
その音が本当に必要なのか。

 その音が本当に聞こえてくるのか。
なにか意図があってはいけない。

 きどったところから、くさりはじめる。
伝えたいものがないと、

 えらく引いてしまうか、でしゃばるかどっちかだ。
音はその人自身であるゆえ、
こういう音を出してくれって頼むすじあいのものではない。

 人を選んだ時点で音は決まってしまう。
音で通じあえる人とは、言葉でも通じあえる。

 言葉で通じあえない人とは、結局、音とも通じあえない。
人をバカにして優越感を味わうな。劣等感が丸見えだぜ。

 なぜそこを離れるか答えは簡単だ。
得るものより失うものの方が多いからである。

 考え方や生き方を押しつけてはいけない。
そんなにステキならば嫉妬させてほしい。

 第一印象が正しい。
あなたの第一印象が正しい。
作品と作者は同じである。

 共に歌うのではない。
互いに歌うのだ。

  早川義夫 エッセイ その2 完

「早川義夫のエッセイ」 その1 

2013年02月06日 00時34分20秒 | エッセイ(模範)
 ここんとこ、民話の主題から離れているけど、
離れついでに、むかし、心に残ったエッセイを紹介します。

 

 早川義夫 エッセイ その1 「感動と本物 」 

 僕はいまだかつて、絵や写真や文章に対し、猥褻と思った事がない。
不愉快ならば見なければいいし、読まなければいい。

 ところが、電車の中のおしゃべりや街にあふれる騒音や排気ガスはいけない。
あれこそ猥雑である。
目はそっぽを向くこどができるが、耳や鼻はふさいでいられないのだ。(中略)

 歌は恋文のようなものだ。

 伝えたいことと、伝えたい人がいれば、才能がなくとも、歌は生まれる。
本当のことは本当らしく伝わるし、嘘ならば、嘘らしく伝わる。

 嘘を本当らしく伝えることも技術があれば出来るかもしれないが、見破られてしまう。
伝えられるものは本当のことしかなくて、伝わってくるものも、本当のことしかない。

 何も伝わって来なければ、何も伝えるものがないのであって、
かっこだけが伝わって来るのは、かっこつけてるよということを伝えたいのだろう。

 歌も文章も、写真も演技も、日常で会話を交わすことも、
怒鳴り合うことも、黙っていることも、すべてその人が伝わってくる。

 それは、言葉からではなく、息づかいからだ。(後略)

 これでいいのだ。
きどることはない。

 鏡に映る姿は歳とともに老いてゆくが、頭の中は何も変わっていないことに気づいた。
心は歳をとらないのだ。

 恋をしていいのだ。
恥をかいていいのだ。

 心の底に降りて行っていいのだ。
そう思ったら、歌ができるようになった。

 かつて感動したことは今でも正しいのだ。

 早川義夫 エッセイ その1 完

「捨てる基準」

2013年02月04日 00時32分17秒 | 身辺雑記
 前にメモしておいた。

 「捨てる基準」

1、もったいないと思うもの

2、いつか必要と思うもの

3、過去の栄光や思い出

4、現在の自分のレベルを下げるもの


 「あの人死んだら捨てるもの一つもない」
というのがオレの理想。

 ずいぶん捨てたつもりだけど、
まだ捨てなきゃならないもの、けっこうあるな。

「私に帰る旅」を読んで その4

2013年02月02日 01時15分58秒 | マイ・エッセイ&碧鈴
「私に帰る旅」を読んで その4

社会に出て、自分の自由な時間もなくなり、だんだん本を読まなくなった。
流されて、流されて、35年。

 結婚して、子供も生まれ、あっという間に過ぎた。
「何かが違う」「芸術的なことをやりたい」
くすぶった気持ちはずっと感じていた。
 だけど、生活に追われ、それどころではなかった、というのは言い訳だろうか。

 そして60才、定年退職。
決して生活は楽ではないけど、待ちに待っていた隠居生活。

 あけみちゃんを知ったのはそんな頃。
ギターでジブリの曲をやっていて、ネットでジブリの情報を集めていて、
あけみちゃんのジブリについて書いてあったブログにたどりついた。
 
 その感性に心惹(ひ)かれて、あけみちゃんに感想を送ったら、
こころよくマイミクになってくれた。

「私に帰る旅」を読み始めた。
女性なのにオレの若い頃にそっくりな考え方。

「出家とその弟子」倉田百三
「無常といふ事」小林秀雄
「愛の無常について」亀井勝一郎

 オレも読んだ本だけど、女性が読む本とは思えない。

 あけみちゃんは突然の病気で「死」の重みに直面させられた。
オレは今まで病気にもならず生きてこられた。
しかし、いつ病気に苦しむようになるかわからない。

 その時はこの本を思い出そう。
オレは好きだった太宰治、坂口安吾、宮沢賢治より長く生きている。
そのことに「後ろめたさ」も感じている。
 決して自分の身体をいたわっているとはいえない。

 しかし、あけみちゃんのように死に直面した人のことを思うと
もっと自分の身体、大事にしなきゃと本気で思う。

 そのことを気づかせてくれただけで、この本を読んだ価値がある。

 完