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「語りの力と教育」 その11 高橋郁子

2014年08月02日 08時48分20秒 | 民話(語り)について
「語りの力と教育」その11 高橋郁子

第3節 「語られない語り―再話と書物―」

 ここで、再話と語りの関係について考えておかねばならない。

「昔話研究者は、まず、そのように正確な土地言葉による記録を作ろうとこころがけます。(略)
ところが、土地言葉のままの昔話記録は、
それが言葉の発音に忠実であればあるほど読みにくいものとなります。(略)
そこで、広くわかってもらうために言葉に手を加えることになります。
つまり再話することです。(小澤p357」

 小澤氏はこのように再話の必要性について指摘しておられる。
優れた話は全国の人に知ってもらうためには再話で共通語に直し、
誰からも親しみやすくすることが大切なのである。

 しかし、「昔話がいったん書物に収められると、複雑な文章になったり、
くわしい描写がはいったりします。
そして全体として長くなります。

 ところがその物語を語り手が口で語り始めると、単純な文章になり、
くわしい描写は弱められたり、なくなったりします。

 そのことを昔話の『自己修正』というのです。(略)
絵本や再話本は印刷されて販売されてしまうので、
自己修正はきかないし、読者による予防検閲もできません。

 ストーリー・テラーとよばれるいわゆる現代の語り手たちも、
再話本から昔話を覚えてそれをそのまま語るので、自己修正はまったくきかないわけではありませんが、
口伝えの場合のようにはいかないのです。
現在の日本はそのような状況にあります。(小澤P352~353」

 小澤氏は、再話された話が語りのもととなり語る人を音響体、発信源として
子どもに届けられるのであるから、再話された昔話の出版物は
「音符」の役割を果たしているとしている。
確かに、それはそのとおりであるが、民俗学の視点ではどうか。

「民間伝承というのは、そのように文字に書き記された文書、記録ではない。(中略)
それは、村や町に住む人々が、祖先から受け継ぎ、
またその子孫へ伝達するという形で遺されたものである。
いわば生活事実をつたえる伝承的な遺習資料、つまり伝承資料である。
このなかにこそ、われわれの先祖のなまなましい、
しかも土の香りゆたかな生活の歴史が物語られているの
である。(桜井P20)

 生活環境がこれだけ変わってしまった中、伝統的な昔話を残すということは、不可能である。
口承伝承、それを文学と考えるならば、活字化された昔話集で昔話の心を伝えることはできる。
それでは囲炉裏端での語りは、どうなるのであろうか。

 次に昔話の語りを離れ、「語る」ということを考えてみたい。

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