「語りの力と教育」 その4 高橋郁子
「昔話を語った人々」
水沢謙一氏によると昔話の語られる時期は、
秋の収穫の終わった祝いの秋餅の頃から冬の夜の夜なべ仕事の時に最も語られていたという。
ハルガタリといわれる正月の語りは1年で最も多く語られる機会であったという
(水沢1 家庭で語られる昔話には、子ども時代の家族の思い出とともに人の胸に刻まれる。)
「中静さ(瞽女の名)は、母親の昔話をきちんと覚えており、その昔話を口にすると涙していた。
金子さは、中静さよりたくさんの昔話を聞かされたらしい。
つぎからつぎに話しているうちに、やはり涙を流した。
四歳、三歳で光を失った二人にとって、あたたかい肉親の思いやり、
それにもまして母親から聞かされる昔話は最大のよろこびであったろう(村田P78」
「(笠原政雄さんは)お母さんから聞いた昔話を語っていると、
それがお母さんの思い出につながって、涙ぐまれたこともしばしばであった。
(略)お母さんが冬の夜なべ仕事のかたわら、子供たちはいろりの火にあたりながら聞いた。
大きな子供はお母さんの手伝いをしながら聞いていたし、小さな子供はやがて眠ってしまう。
笠原さんは、子供の親となり子供の顔を見るに及んで、
しぜん、昔話を思い出して語るようになったという。
このように、昔話には温かい思い出が寄り添い、
自分がその年齢に達すると自らも語らずにはおれなかった。
また、昔話は家庭以外にも語られる場所があり、
ザトウ、ゴゼ、富山の薬屋、旅アキンド、旅職人、山伏、
旅の風来坊など家族以外のものからも聞くことがあった。
(水沢2 中でも瞽女の存在は重要であった。)
「五体満足な芸人に比べ、ごぜさに対する同情は、山深い村々の人たちにとって、
ごぜさを世話することが、
ご先祖様への供養になるとも考えられていた。(村田P43」
瞽女が宿泊し、唄を披露する家を瞽女宿といい、そこでの語りもあった。
瞽女に対し、人々はどのような思いを抱いていたのであろうか。
村田潤三郎氏が収集した瞽女日記から考えてみる。
「ごぜさんの長い間の苦労に心うたれ、眼に熱いものがこみあげてくるのを禁じえない次第です。
細くなった手で三味線をひく姿、一生懸命に唄う姿に見とれてしまうのです。
ごぜさんを見るたびに、私たちは幸福すぎて自分のしなければならないことも、
しないでいることを恥じます。(刈羽村・藤田峯樹)(村田P79」
「ごぜさんを泊めるようになって、ごぜさんの立居振舞、人に対する接し方をみて、
長岡ごぜさんの本当のすばらしさがわかった。
ごぜさんの人柄のよさ、私に無言で何かを教えてくれるものがある。
ご飯のときでも、一つぶのごはんも落とさない。
おかずも残すようなことは決してせず、おいしい、おいしいと言って食べてくれる。
孫たちは小学校三年生と一年生だが、この二人に生きた教育になっている。(塩沢町・須藤寅一)
瞽女唄は娯楽の少ない時代には貴重なものであったのだが、意外にも瞽女の存在は、
芸能を楽しむためだけではなく、子供たちへの教育効果や、
世話をする人が人としての優しさを再認識するということにも貢献していたのである。
「昔話を語った人々」
水沢謙一氏によると昔話の語られる時期は、
秋の収穫の終わった祝いの秋餅の頃から冬の夜の夜なべ仕事の時に最も語られていたという。
ハルガタリといわれる正月の語りは1年で最も多く語られる機会であったという
(水沢1 家庭で語られる昔話には、子ども時代の家族の思い出とともに人の胸に刻まれる。)
「中静さ(瞽女の名)は、母親の昔話をきちんと覚えており、その昔話を口にすると涙していた。
金子さは、中静さよりたくさんの昔話を聞かされたらしい。
つぎからつぎに話しているうちに、やはり涙を流した。
四歳、三歳で光を失った二人にとって、あたたかい肉親の思いやり、
それにもまして母親から聞かされる昔話は最大のよろこびであったろう(村田P78」
「(笠原政雄さんは)お母さんから聞いた昔話を語っていると、
それがお母さんの思い出につながって、涙ぐまれたこともしばしばであった。
(略)お母さんが冬の夜なべ仕事のかたわら、子供たちはいろりの火にあたりながら聞いた。
大きな子供はお母さんの手伝いをしながら聞いていたし、小さな子供はやがて眠ってしまう。
笠原さんは、子供の親となり子供の顔を見るに及んで、
しぜん、昔話を思い出して語るようになったという。
このように、昔話には温かい思い出が寄り添い、
自分がその年齢に達すると自らも語らずにはおれなかった。
また、昔話は家庭以外にも語られる場所があり、
ザトウ、ゴゼ、富山の薬屋、旅アキンド、旅職人、山伏、
旅の風来坊など家族以外のものからも聞くことがあった。
(水沢2 中でも瞽女の存在は重要であった。)
「五体満足な芸人に比べ、ごぜさに対する同情は、山深い村々の人たちにとって、
ごぜさを世話することが、
ご先祖様への供養になるとも考えられていた。(村田P43」
瞽女が宿泊し、唄を披露する家を瞽女宿といい、そこでの語りもあった。
瞽女に対し、人々はどのような思いを抱いていたのであろうか。
村田潤三郎氏が収集した瞽女日記から考えてみる。
「ごぜさんの長い間の苦労に心うたれ、眼に熱いものがこみあげてくるのを禁じえない次第です。
細くなった手で三味線をひく姿、一生懸命に唄う姿に見とれてしまうのです。
ごぜさんを見るたびに、私たちは幸福すぎて自分のしなければならないことも、
しないでいることを恥じます。(刈羽村・藤田峯樹)(村田P79」
「ごぜさんを泊めるようになって、ごぜさんの立居振舞、人に対する接し方をみて、
長岡ごぜさんの本当のすばらしさがわかった。
ごぜさんの人柄のよさ、私に無言で何かを教えてくれるものがある。
ご飯のときでも、一つぶのごはんも落とさない。
おかずも残すようなことは決してせず、おいしい、おいしいと言って食べてくれる。
孫たちは小学校三年生と一年生だが、この二人に生きた教育になっている。(塩沢町・須藤寅一)
瞽女唄は娯楽の少ない時代には貴重なものであったのだが、意外にも瞽女の存在は、
芸能を楽しむためだけではなく、子供たちへの教育効果や、
世話をする人が人としての優しさを再認識するということにも貢献していたのである。