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「声が生まれる」 話すことへ その4 竹内 敏晴

2016年12月24日 00時18分41秒 | 朗読・発声
 「声が生まれる」聞く力・話す力  竹内 敏晴  中公新書  2007年

 話すことへ――つかまり立ち その4 P-31

 息を吐かない人々③――アルコール依存症の人たちへのレッスン

 息の浅さは若い女の人ばかりではない。
 アルコール依存症の人たちになん年かレッスンをしてみて意外に思ったことは、男性、それも中年の力仕事――たとえば大工、トラック運送、建築現場(昔で言えばとび職)――をやってきた人たちで、上半身は驚くほどたくましく筋骨隆々としているのに、案外にハラに力が入らず腰が弱い人が多いことだった。つまりハラで息をしていない。大声は出すが、胸だけの息なので瞬発的で長く続かない。話しことばも、短いセンテンスで息をつぐのでせわしなかったり途切れたり、一般化するにはデータが少なすぎるけれども、男性は一般にハラで息をしているものと決めてかかっていると見当が違うようだと教えられたことだった。

 昔は田んぼの向こうの道をゆく人に呼びかける野良声とか、舟の上で波風の音に負けずに怒鳴る胴間声とか呼ばれる話し声があった。若い頃東北の農村で、家からやっこらしょと出てきた腰の曲がったお婆さんが、いきなり谷をへだてた向かいの崖に「ナニシテルダ、バカモン!ハヤクオリロ!」と怒鳴りつけた声にたまげたことがあった。孫息子が柿の木にのぼっていたのだった。柿の木は折れやすい、アブナイ!と見て取ったとたんに飛び出した大喝だった。その凄まじさ。谷向こうの孫息子はびっくりしてそろりそろりと降り始め、わたしは感嘆したまま婆さまの顔を見つめていた。こういう息の強さで人々は生きていたのだ。「話す」とは、声によって人に働きかけ、相手の行動=存在の仕方を変えることだ。とすれば、まっすぐ歯を開けて息を吐かなくては、声を生み出せず、ことばが芽生えるからだの内なる動きを外への流れへ作り出すことができない。ことばが相手に届く力を生み出せないことになる。

 ことばとは、まず自分の中で生まれるけれども、相手のからだ=存在の地点に至って、はじめて成り立つものだから。

 息が外へ、そして相手に向かっていかなければ話しことばは成り立たない。まっすぐ歯を開けて息を吐いた時、ここに「わたし」が現れるのだ(自分を露わにしないために歯を開けないという姿は先に見た通りだ)

 竹内敏晴 1925年(大正14年)、東京に生まれる。東京大学文学部卒業。演出家。劇団ぶどうの会、代々木小劇場を経て、1972年竹内演劇研究所を開設。教育に携わる一方、「からだとことばのレッスン」(竹内レッスン)にもとづく演劇創造、人間関係の気づきと変容、障害者教育に打ち込む。


 

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