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「中高年のための文章読本」その14 梅田 卓夫

2014年11月17日 01時05分50秒 | 文章読本(作法)
 「中高年のための文章読本」その14 梅田 卓夫 著  ちくま学芸文庫 書き下ろし 2003年

 「ギクシャクを楽しむ」 P-217

 文章を勉強するとき理想とするのは、やはり「珠玉の短編」とか「神品」とか、あるいは「非のうちどころのない完成作でしょうか。
どうしても、中高年の人々にはその傾向があります。
無意識のうちに、そういったことをめざしてしまうのです。

 そして構成や文体の「粗削り」とか「ギクシャク」などということを嫌う。

 しかし、それでは、文章の「かたち」にばかり目がいってしまいます。
欠点がないことへ注意力が奪われ、発想が保守的になってしまいます。
「かたち」に収まりそうなことしか書けなくなってしまうのです。

 ほんとうに大切なことは、なによりも自分の<発想>を生かすことです。
メモや走り書きのことばとして書きとめられた<発想>の鮮度を、いじくりまわしているうちに、落としてしまわないことです。

 そのためには、既成の形式にたよらない、むしろ外れても仕方がない、くらいの気楽な(?)気分で、新しい一歩を踏み出したいものです。
場合によっては、思わぬ新形式が実現することだってあるのです。

 文章は<断片>から作られます。
<発想>として浮かんできたイメージや記憶、あるいは思考の<断片>がことばとしてつなげられてできてくるものです。
当然、ギクシャクしながら進んでいくものです。
かえって、あまりスムーズにつながるときは、疑ったほうがいい。
こんなに単純に進んでいっていいものか、と。

 新しい発想、未知の領域へ踏み込もうとしている思考、自由に羽ばたく想像力の産物、それらが<ことば>として書きとめられるとき、既成の日本語の文脈(一般常識・先入観)とのあいだに軋轢を生じます。
それがギクシャクとしてあらわれてくるわけです。

 ギクシャクは人を(読者を)たち止らせます。
不整合の部分が、<ひっかかり>の感覚を呼ぶのです。
ときには不快感や反発として。
ときには、謎、興味、好奇心へとつながり、読者のこころをかきまわし、そそのかし、惹きつける要素とさえなります。

 つまり「退屈」の正反対のものを与えてくれるのです。