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「中高年のための文章読本」その12 梅田 卓夫

2014年11月13日 00時36分40秒 | 文章読本(作法)
 「中高年のための文章読本」その12 梅田 卓夫 著  ちくま学芸文庫 書き下ろし 2003年

 「<思ったこと>より<見たこと>を」 P-176

 「<頭>で書かれる文章の退屈」

 中高年の人は、知識も見聞もひととおり持ちあわせているから、どのような状況を描こうとしても、それを抽象的な概念で集約し、説明できてしまうのです。
なまじっかことばを知っている(語彙が豊富である)から、個々の断片的な対象をとらえるよりもまえに、一般概念をあらわすことばで「まとめ」てしまうのです。

 集約とか概念的把握というと高度なことのように聞こえるけれども、認識の段階からいうと、これは低次元にとどまった認識です。

 例えばある人が、サッカーの試合を見て「おもしろい」といい、テレビを見て「おもしろい」という。
本を読んでも「おもしろい」という。
この「おもしろい」が大まかな概念的把握です。
対象は、これによってほとんど区別されません。
けれどもなんとなくわかったような気がする。
ふつう、私たちの認識はこの概念的把握から対象に迫っていくのです。
努力しなければ、そこで留まってしまいます。

 この「おもしろい」が語彙の豊富な人になると「すごい」「感動した」「感銘を受けた」「永久に忘れない」などとモッタイぶった表現になりますが、本質は変わりません。

 中高年の人々の文章の退屈さのひとつの典型です。