絵本と児童文学

絵本と児童文学、子ども、保育、サッカーなどの情報を発信する

おやじが怖い分、学校で羽目を外した-舞の海秀平

2003-12-28 17:50:34 | 子ども・子育て・保育
おやじが怖い分、学校で羽目を外した―舞の海秀平の場合 (2003年12月28日 (日) 17時50分)

 朝日新聞の日曜日連載「おやじのせなか」は、各界の人が自分の父親のことを短く語るコラムである。12月7日は、大相撲解説者の舞の海秀平氏が、父親を語っていた。
「子どもの頃、おやじがほんとうに怖かった。ふるさとの青森県鯵ヶ沢町は背丈ほども雪が積もることがある。悪さをした兄貴が、ランドセルごと雪の中にぶん投げられるのを見て、震え上がった。」
「おやじが怖い分、学校ではずいぶんと羽目を外した。悪ガキのリーダーで、けんかは朝飯前。いじめた子の親や先生がよく家に苦情を言って来た。そんなとき、おやじは一言。『やらかしたこと、よく考えろ』。縮み上がったねえ。めったに手は出さなかったけど、あの威厳だけで、悪さにもブレーキがかかったのかな」
 子どもの時には怖い存在だったおやじが、角界入りや結婚など成人してからの人生の選択については、寛大に本人にゆだねたという。
 舞の海秀平氏の語りで読み取れたことは、家庭で怖い親父で窮屈なため外でうっぷんを晴らすように羽目を外したこと。羽目を外すのは、家庭のあり方と関係する場合があるということである。
 それに「子どもの悪さ」に対して、怖いおやじとして家庭で親として必要な教育をし、成人したら本人の自己選択にゆだねる。親の子どもへの教育の原則ともいえるほど重要なことである。
 ここでの父親は家父長制のなごりをのこした、いわゆる「かみなりおやじ」である。父性とも言われるものである。母親がどうだったかはふれられていないので想像するしかないが、父親と同じような波長で対応したとは考えにくい。父親が社会的規範を提示して子どもを突き放すに対して、受容的だったのではないだろうか。
 もしそうだとしたら、両親の質的違う対応がいつの間にか子どもの内面に同居しながら蓄積し、子どもが育っただろうと想像できる。
 これらの両親の質の違う対応は、夫婦関係を反映することでもあり、大方の両親ができるわけではない。父親と母親が役割のもとに一本調子なることがよいわけではないが、社会的規範と示す部分と受容的対応してくれることがあった方が、子どもにとってはラクな家族関係の中で生活できることはたしかであろう。

コメントを投稿