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過剰な整列、隊列の軍隊的行動様式は継承され続ける

2005-09-24 11:40:16 | 子ども・子育て・保育
 80年代半ばのことだ。ある町の保育を他園の保育者も見て、それをめぐって午後討論するという研修に、かかわる機会があった。
 小学校などの授業研究は、実際を見てそれをめぐって討論するのが当たり前だが、保育園ではめずらしい研修の取り組みである。それから10年余りかかわったが、わたしにとっては、保育をニュートラルに見られるようになったという意味では、貴重な研究の場であった。

 さて最初に見た保育は、印象深かいものだった。3歳児が、遊戯室へいって活動するものである。子どもたちが整列して、その隊列を崩さず移動した。その際10分ほどの時間を要して、遊戯室での活動は15分あまりであった。遊戯室では広い空間のため子どもたちが分散して、担任が集中させるのに苦労していた。保育室へもどるときは、子どもたちの賑わいから整列に切り替えるのは無理と判断したのか、おおよその固まりで歩いた。担任は整然とした行動をさせることを重視し、その状態をつくるのに腐心していた。
 3歳児であっても「遊戯室へ行くよ」という呼びかけで行動できるし、その方がむしろ遊戯室での活動に集中するのに、と思ったのだった。
 保育は日常の生活文化そのものでもあるから、地域によって違いがあるものだ。そのため遊戯室での活動より、移動に力を注いでいたことは、指摘しなかった。

 それから数年後、私立幼稚園に保育を見て改善点を指摘してほしいという依頼で、数カ月かかわったことがあった。
 あるとき5歳児が、トイレにはクラス一斉に、男女別に背の小さいほうから順に並んでいく場面があった。わたしはいささか驚いて、それについて指摘した。トイレは個人の生理的欲求なのに、一斉に行くのはいかがなものか。整列を男女別に背の順に並ばせることに、問題はないか、と。若い担任に「他にどんな方法があるのか」とまじめに問われた。わたしは、その人の学校体験が色濃く反映しているのではないか、と推察した。
 トイレは、日常の体を維持するための生理的欲求であり、個人の行動である。3歳児ぐらいまでは行きたいときいくのが大事で、徐々に行動の前に事を済ますことを覚えるだろう。仮に活動の中に行きたいときは、がまんをしないで済ませる。排泄は体にとって大事なことなので、子どもが肯定的にとらえられるようにする。
 集合や歩くといった集団行動を、常に整列するということ自体個人の独立性というよりは同調を求めることである。しかもそのことにこだわるあまり、肝心の活動への関心が弱くなる。整列が必要とする場合でも、男女別にする理由はあるだろうか。2列にさせたいために採用しているのだろうが、男女という二分法を暗黙のうちに教えていることになる。背の小さいほうから大きい方へということは、暗黙のうちに体の特徴によって行動条件を決められるのである。しかも結果として序列的なメッセージを、子どもに示していないだろうか。背の小さい子どもにとっては、将来にわたってコンプレックスになりかねない。背の小さい子どもは大きい子どもに対して、どうにもならない力のようなものを感じるものである。自分ではどうにもならない体の特徴で行動が決められることは、子どもに自己肯定間を育むには、小さくない問題なのである。

 最近、ある園の話を聞く機会があった。子どもの個性を大事に秩序の許容量が大きい、ゆるやかな保育をしている幼稚園がある。早教育的教育や競争を強いることに批判的で、なによりも園長が子どもと遊ぶことに象徴されるように、たしかな理念を持っている園である。運動会は長期間ではなく、2週間の取り組みで終わりにするということだ。
 しかし整列は、男女別で背の順番とのことである。その整列のさせ方が子どもにとって不自然であり、軍隊的行動様式ではないかと園長と話してみたくなった。きっと理解して、集団行動や整列の仕方を変えるのではないだろうか、と思うのだ。
 日本の「学校文化」は、何気なく見過ごされ継承されていくものである。それを子どものために断ち切ることは、理念と子どもの行動レベルの結びつけることが必要である。行動のさせ方などは、一見平凡なこととして見過ごされがちである。しかしそのなかに保育の本質につながることが、含まれているのである。

 80年代前半の、ある研究会でのことだった。運動会の練習が始まったら、フランス人の子どもが欠席しだした。理由は、「わたしの子どもを、フランスの軍隊でもしないような軍隊式行動をさせたくない」とのことだった。フランス人から見れば、日本の運動会の整列、隊列行動は、軍隊の様式なのであった。
 またある幼稚園への見学者が、その園では日常的である些細と思われることに驚いた。5歳児のクラスの子どもが外に集まったとき、先生を囲んで説明を聞いて活動が始まった。いつもの保育だったが、どうして整列しないのか、整列しなくてもスムースに子どもが活動に入る保育に、見学者は驚いていたのだった。整列をしないからこそ、子どもは活動を理解し集中するのだ。

 日本の「学校文化」の整列が、日本人の行動の秩序正しさをつくっている側面もあるだろう。ただし外国旅行では、常に集団行動を取る日本人として、世界に認知されてしまったが。
 運動会シーズンである。走るより子どもを見るよりは、整列、隊列行動が整っているかに目を奪われて、その良し悪しの判定者にならないようせねばならないのではないだろうか。


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