世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

●吉田松陰の国学・復古神道かぶれが、日本の心を消滅させた

2015年04月14日 | 日記
明治の海舟とアジア
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●吉田松陰の国学・復古神道かぶれが、日本の心を消滅させた

松下村塾の流行り病にはウンザリだが、長州の田舎侍らの欧米かぶれが、日本文化の破壊者であった歴史上の事実が、以下の魚住氏のコラムは暗示している。勝海舟、江戸っ子の心意気こそが、当時の日本の正論であったに違いない。歴史は、この「国学・復古神道」に誑かされた田舎侍の群れに跳梁跋扈されたと言っても過言ではないだろう。もしかすると、鳩山由紀夫の「東アジア共同体構想」も原点は、此処にあった可能性もある。西郷は、欧米人に対して「あんな野蛮な連中」と云う言葉を、何度となく語っているが、まさに、そういう事なのである。

当時の歴史の謎は、完全に解けてはいないのだが、勝の「日本・朝鮮・清国の三国同盟を結び、欧米列強の圧力に対抗すること」は、現代の東アジア共同体と趣旨を同じくしている。これに田舎侍の癖に、男気がなく、ヘタレな西洋かぶれが、欧米列強国に、恐れをなして、ただ唯々諾々と屈したに過ぎない。明治維新こそが、日本の歴史の歯車が狂ったターニングポイントであって、明治維新時代の産業が、世界遺産になるなど、噴飯ものなのである。ネトウヨも、安倍晋三も、勝海舟、西郷隆盛の日本人的血脈を思い偲んでから、己の意見を語るが宜しかろう(笑)。

産経の記者だった司馬遼太郎の本が売れだしたこと、明治以降の日本軍賛美がヒットしたこと、この辺には、メディアコントロールの技が駆使されたのに違いない。司馬と立花隆は同じ臭いがする。明治維新以降、悲哀を味わった政治家や言論人、学者などの書物や研究などを紐解き、白日に晒し、「ここが変だよ、明治維新」と云う発想で、歴史を見直す必要があるのだと思う。筆者も、魚住氏のコラムに触発され、あらためて、国学的過ぎて、オカルトっぽかった吉田松陰を怪しい奴として観察し直す必要が出てきたようである。伊藤博文、木戸孝允など、糞の糞かもしれない(笑)。筆者は、感覚的に、明治維新の立役者、こいつ等は怪しいと云う思い込み論で強弁していたが、幾分筋道が見えて来た(笑)。

このような視線で、現在の長州藩の末裔ツラしている安倍などは、日本の道を最も誤らせた長州の人間である。此の地から「国学・復古神道」の原点があり、安倍政権は、その道に向かってひた走っているのだ。首相が一番多く輩出しているのだから、日本がドンドン悪くなるのは、当然の帰結と言えるのだろう。今や「国学・復古神道」の総本山が靖国神社になっているのも“むべなるかな”である。明治天皇はじめ大正、昭和、今上天皇と「反目」する勢力が、明治維新を成就させた英雄たちであると云う事実は、現在の安倍ら勢力の政治的方向性を観察していると、そっくりなのだ。意味なく強がり、アメリカに傅く、変だろう?我々、日本人は、勝や西郷に関して、もっと学び、解析すべきテーマのようである。

 ≪ 西郷隆盛と勝海舟のナゾ
 歴史家の松浦玲著『明治の海舟とアジア』(岩波書店刊)によると、勝はこのころ明治天皇の側近だった吉井らと連携し、西郷復権に向けて精力的に動いている。

 その第一歩が西郷の遺児・寅太郎を明治天皇に会わせることだった。勝の働きかけをきっかけに明治17(1884)年4月、寅太郎の宮中参内が許された。寅太郎は天皇から<ドイツ留学、留学中一ヵ年金千二百円下賜>の達しを受け、翌年、ドイツへ旅立つ。

 勝は寅太郎の宮中参内を機に西郷の赦免も得ようとしたが、これは伊藤博文宮内卿に阻まれた。再びチャンスが巡ってきたのは、5年後の明治22(1889)年2月、憲法発布の時だった。

  発布1ヵ月前、勝は西郷の赦免を天皇に提案する手紙を書く。勝の希望は叶えられ、天皇の特旨で西郷の賊名が解かれ、正三位が追贈された。西郷復権で世間は安心し、改めて彼をたたえ始めた。

 その直後から勝は西郷=征韓論者説を打ち消す文章を書き<西郷が征韓論と云ふは嘘><朝鮮を征伐して、西郷の志を継ぐなどゝ云ふことが、何処にあるェ>などという発言を繰り返すようになる。

 松浦は<西郷隆盛崇拝者の中には西郷が征韓論者だと信じて(中略)西郷の遺志を継ぐなどと称している手合いが多数いる。それでは西郷隆盛復権が朝鮮侵略、アジア侵略につながってしまう。海舟の真意に反するのである>と言う。

 では、勝の真意とは何か。松浦によると、日本・朝鮮・清国の三国同盟を結び、欧米列強の圧力に対抗することだった。幕末に神戸海軍操練所を開設した時から、この構想は生涯変わらなかった。

 彼は清国・朝鮮の政治家と交流し、両国との友好関係の大事さを説きつづけた。明治27(1894)年の日清戦争に対しても<兄弟喧嘩だもの犬も喰わないヂャないか。たとえ日本が勝ってもドーなる。(中略)支那の実力が分ったら最後、欧米からドシドシ押し掛けて来る>と異を唱えた。

 10年後の日露戦争では非戦論を主張する内村鑑三ですら、この時は賛成に回った。勝は日清戦争に反対したほとんど唯一の要人だった。彼の胸には、清国や朝鮮は同じ文化の<兄弟>だという思いと、三国同盟の戦略があった。

 一方、明治政府の主導権を握る旧尊王攘夷派の志士たちは対等な同盟論を受け付けない。なぜなら彼らの頭には、日本は特別な神の国だという国学・復古神道の教義が染みついているからだ。

 幕末長州の尊王攘夷運動の指導者だった吉田松陰はロシアの外圧にさらされたとき「取り易き朝鮮・満洲・支那を切り随へ、交易にて魯国に失ふ所は又土地にて鮮満に償ふべし」、貿易でロシアに取られた分は朝鮮・満州を占領して取り返せと主張した。

  極端な言い方をすれば、近代日本とアジアの不幸な関係は、吉田の神がかりの侵略思想が木戸孝允ら明治政府の主流派に受け継がれたことに端を発している。朝鮮が無礼だから征伐せよという明治6(1873)年の征韓論の高まりは、その最初の表れだった。

 征韓論と三国同盟論。幕末~明治初期の日本には相反する二つの潮流があった。勝の系譜の先輩格だった横井小楠(肥後藩)は明治2(1869)年に暗殺され、勝や横井と親しかった坂本龍馬も慶応3(1867)年に暗殺された。

 問題は、維新最大の功労者と言われた西郷隆盛である。彼は征韓論と三国同盟論のどちらを唱えたのか。そこに、近代史の謎を解くカギが潜んでいる。

*参考:『西郷隆盛』(井上清著・中公新書)、『新訂 海舟座談』(厳本善治編・岩波文庫)、『氷川清話』(勝海舟著・講談社学術文庫) ≫(現代ビジネス・メディアと教養:魚住昭の誌上デモ「わき道をゆく」連載第124回-『週刊現代』2015年4月11日号より)

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