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●「国益を損ねる」権力側が言えば 「都合が悪い」という証拠
「国益を損ねる」は、筆者もたまに使ってしまう表現だ。比較的語呂がよく、歯切れも良いので、ついつい使う。田原氏が、最後の部分で触れているが、政府の意に反することを言う時、それを口にした人々に対して「国益を損ねる」は、言論封殺的で、独裁主義的だ。しかし、筆者は、田原氏は触れていないが、弱者側に、その言葉は許されると考えている。権力側も、反権力側も、同じレベルで規制を受ければ、それでなくても弱者である側は、倍々ゲームで不利になる。
つまり、権力側と、反権力側の言論には、ハンデをつけて当然なわけで、それでこそフェアは保たれる。そういう意味で、反権力側の言論は「傍証」でも、真実のように語る権利があり、権力側には、客観的証明が求められる。権力側と反権力側には、99対1どころか、990対1くらいの差があるのだから、フェアであるためには、異なる土俵が必要と云うことだ。弱者には、自己弁護や自己の正当性を主張する権利を認め、下駄を履かせるのが、デモクラシー的ものの考え方なのである。そういう意味では、欧米の移民やカラードに対して、競争上ハンデを持たせていることでフェアを確保している。いずれにせよ、政府や権力者、そしてその金魚の糞らが「国益を損ねる」と云った時は、「都合が悪いので」と云う枕詞が着くのである。
田原氏のコラムとは関係ないが、日米同時株安相場が生まれそうな機運だ。しばらく注視する必要がある。AIIB不参加のインパクトは、想像以上に企業活動を縛りつけ、日米企業がハンデを背負わされた格好だ。これは、誰かに課されたハンデではなく、自ら選んだ重石なのだから、自己責任の問題で、フェアとは関係ない。単なる、外交上KYなだけと云うことだ。昨日の東京市場など、死に物狂いの公的資金の投信買いで介入したが、プラスに転じることは出来なかった。水面下では、年金積立金の危機だと云う本音も漏れ聞こえてくる。どうするのだろう?大失敗のアベノミクスは?(笑)。
≪「国益を損ねる」論評は民主主義の否定ではないか
このところ「国益」という言葉をよく聞くが、その使われ方がとても気になる。
■鳩山氏がクリミア訪問、「いまだに国益を害している」
ウクライナの一部だったクリミア半島が昨年3月、住民投票でロシアへの編入の是非を問い、その結果、ロシアが一方的にクリミアの編入を決定した。現在、親ロシア政府の「クリミア共和国」が存在するかたちになっている。
このクリミア編入について、欧米や日本はロシアを強く批判した。日本政府もロシアによるクリミア編入を「国際法違反」として認めていない。
そのクリミアを、鳩山由紀夫氏が今年3月10日に訪問した。事前にその情報をキャッチした岸田文雄外務相は、鳩山氏に訪問しないように働きかけ、「仮に訪問するようなことがあれば、政府の立場と相いれず、遺憾に思う」と牽制した。
にもかかわらず鳩山氏はクリミアを訪れたため、自民党の高村正彦副総裁は「民主党が首相にしたことが在任中だけでなく、いまだに国益を害している。少しは責任を感じてもらいたい」と述べた。
■朝日新聞の慰安婦報道も日本人人質事件も「国益を損ねた」
鳩山氏はクリミアの中心都市シンフェロポリで記者会見し、編入の是非を問う住民投票について「ウクライナの憲法にのっとって平和裏に、民主的に行われた」と述べた。
こうした鳩山氏のクリミア訪問について、自民党だけでなく、民主党の岡田克也代表も「日本の国益から見たら、大きなマイナスだ」と批判している。
「国益を損ねた」事件と言えば、朝日新聞の慰安婦報道問題が指摘されるだろう。
朝日新聞は1982年、吉田清治氏(故人)が「朝鮮人女性を強制連行した加害者」であることを証言したという内容の記事を掲載した。しかし、昨年8月、 その報道が誤りだったとする検証記事が掲載された。朝日新聞は「読者のみなさまへ」と題し、「吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと 判断し、記事を取り消します」とした。
この慰安婦報道問題でも、朝日新聞は日本国内だけでなく世界に向けて誤った情報を発信したことにより、「国益を損ねた」と厳しく批判された。
さらに今年1月に発生した過激派組織「イスラム国」(IS)による日本人人質事件でも、人質となった後藤健二さんと湯川遥菜さんの2人の行動が「国益を損ねた」という批判の声もあがった。
■「国益」を安易に口にするのは危険
この「国益を損ねる」という言い方は、とても嫌な表現である。
「国益」とは、国家やその国民にとっての利益のことだ。今では政治、経済、外交、文化などさまざま活動において、主に対外的な利益に関して用いられる言葉だろう。
しかし、この「国益」という言葉は、そう簡単に発するものではないのではないか。
1941年(昭和16年)12月8日、ハワイ・オアフ島の真珠湾攻撃によって日本はアメリカとの太平洋戦争に突入した。あの戦争に勝てる見込みはなく、 戦争を始めたことこそが「国益を損ねる」ものであり、本来ならば戦争に反対することが「国益」に適うものだったはずだ。しかし、当時は戦争反対を唱えると 監獄に投じられたのである。
私は、「国益」を安易に口にすることは危険だと考える。
最近、ある新聞が「沖縄が国益を損ねている」という論評を掲載した。政府が沖縄の米軍普天間基地(宜野湾市)を辺野古(名護市)に移設することを、前の 仲井真弘多知事は了解していたが、現在の翁長雄志知事が「あらゆる手段を用いて移設を阻止する」としている。それは、著しく「国益を損ねる」行為だというのである。
■政府の方針に反することが「国益を損ねる」か
そうした論評を、私は危険だと感じる。
国の方針と自治体、つまり県民の思いが相反するとき、相手に対してお互いに説明を尽くし、わかり合おうとする努力が必要になる。
ところが、そのときに「国益」という言葉を使って一方を押さえ込むようなことになれば、むしろ民主主義の否定になるのではないか。
政府の方針に反するような行為について、「国益を損ねる」という表現が使われるようだとしたら、私はそこに危なさを感じる。
このところ「国益」という言葉を簡単に持ち出して批判することが多くないだろうか。もう一度、「国益」とは何かをじっくり考える必要がある。 ≫(日経ビジネス:田原総一朗の政財界「ここだけの話」)
下中彌三郎: アジア主義から世界連邦運動へ | |
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