藤原愛子の日常茶飯事

前稲城市議・藤原愛子のもろもろな日々

川俣事件

2024年02月13日 | 足尾鉱毒事件・田中正造
 唐突ですが124年前の今日、歴史に残る「川俣事件」が起こりました。

 「??」「何?」・・とお思いの方が多いと思われますが、日本における初の公害事件と言われる「足尾鉱毒事件」の悲惨な歴史の中で起こった、弾圧と言ってよい事件です。

 明治時代、栃木県足尾の山にて銅の採掘が大規模に行われ、その鉱毒が渡良瀬川に流れ込み、下流一体が硫酸銅等により汚染されてしまったのです。
 漁業も農業も壊滅的となり、飲料水も汚染されたため、生活に窮し死産も頻繁になるという人たちや、空気汚染により鳥も死ぬという中で、村そのものが無くなるという悲惨な状況であったと言われます。

 このような中、生涯を鉱山廃止、生活再建に奔走したのが「田中正造」さんです。

 「川俣事件」は、その田中さんをはじめ多くの人たちや当事者の運動にも関わらず、国が問題を放置していることに対して、当事者である農民たちが直接国に意見をきいてもらおうと企画し、数千人が東京目指して行ったところ、群馬県川俣(当時)において数百人の警官が待ち構えており、蓑笠姿の何の武器も農具も持たない、素手の農夫に襲い掛かり、サーベルで殴るけるの暴行を働き、十数人を縛るという暴挙を行った事件です。殴られた20歳の青年が亡くなり、大勢がけがを負いました。

 足尾鉱毒や田中正造、日本の公害や国の対応等々について、これから徐々にお話ししたいと思いますが、何故ここにきてこの話?

 実は、この川俣事件に関わったうちの78人の名前が刻まれている「足尾鉱毒事件被告の碑」というのが当時の運動拠点であった「雲竜寺」さんにあり、その中の一人が私の遠い親戚にあたるかもしれないのです。

 栃木県で両親とも生まれ、父の生家が旧安蘇郡上野村字船津川という被害の激甚地で、私が10歳ころでしょうか田舎に遊びに行って土手に立っている「田中正造終焉の地」という石碑をみつけました。その時の情景は今でも鮮明に覚えています。

そんなことから時間ができた今、いろいろ調べてみようかな、と思った次第です。
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