藤原愛子の日常茶飯事

前稲城市議・藤原愛子のもろもろな日々

「ただちに影響は無い」と、いうことは・・・

2011年05月31日 | 雑感
 福島原発で作業にあたっている東電社員さんが、限度をこえた被爆をしていた、という記事が。

 「ただちに体に影響は無い」と。

 これは、つまり、

 「将来的にはわからない」もしくは「将来的には影響が出る」ということとイコール。

 
 友人が原発に関する本を送ってきてくれました。
その裏表紙に、恐ろしい図があります。

 日本列島には、今54基の原発があり、その原子炉からと、再処理施設から150キロの範囲が線で囲ってある図なんですが、北海道の北よりを除いて、日本列島全てがその範囲内に入っているのです。
 日本国土の大きさから言って、そうだな、とは思っていましたが、実際に見ると恐ろしいです。もう逃げようがありません。
 今、原発を辞めて自然エネルギーへシフトすべきだと言っている人達に対して、いろいろな<反論>を述べて「だから原発は辞められないんだ」理論を展開しているケースがありますが、私は思う。

 あと100年も生きられない<あなた>はそれで済むかもしれないけれど、これからの人達に、事故があったら牙をむくような施設と、安全な処理方法の無い核のゴミが延々と出るような状態を背負わせて良いのか、と。

 確かにまだ自然エネルギーは研究途上だけれど、それもこれも<国策>で原子力エネルギーを推進してきたからであって、私はまだいくらでも自然に可能性はあると思うし、本来人間は自然の恩恵の中で生息するものだと思うのです。

 
 いままで原発反対を、いろんな活動の後ろの方にまわしていた私。ブローチみたいに扱ってた反省から、キチンと取り組んでいきます。


 これから学習会や、何をしたら良いか、どう生活したらよいかなどなど、発信していきますんで。

 あ、勿論、原発だけじゃないですよ~。

 これからますます、「南山」!いろんな要素を含んだ問題なので、いろんな展開、していきますよ!!
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本当に 有り難うございました。

2011年05月28日 | その他
 「南山市民問題連絡会」の二代目代表、安澤さんが逝去されました。

 残念です。

 まだ69歳という年齢でした。

 現役時代はバリバリと仕事をなさっておられて、時間ができるようになられてから、市民活動に熱心に取り組んでおられました。

 南山区画整理組合との話し合いの中核になり、南山市民問題連絡会の屋台骨でいらした方です。

 私の選挙にも力を貸してくださった。

 「これは余談だけれどね・・・。」と、足を組んで、独特の話しっぷりをされていた姿が浮かびます。

 
 安澤さん、有り難うございました。
私達はキチンと活動を続けていきますよ。

 残されたご家族の皆様も、いつか立ち上がっていくことと思います。友達でいることに変わりはありません。

 彼岸は此岸と紙一重、安澤さんのパワーを、私達に送り続けてもらいます。

 これからも、よろしくお願いしますね!

 
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五年ぶりだね!

2011年05月24日 | その他
 私が卒業した、世田谷区立松澤中学校。
 
 同期には気が良いのが多くて、毎年クラス会。五年毎に同期会をやってます。

 そして、先日の土曜日に、その「還暦同期会」がありました。

 私は、クラス会も同期会も<万年幹事>でして、でも、今回は市長選にでたこともあって、オンブに抱っこの幹事でした。

 さて、入念にお化粧して出かけたけど、21日は真夏の暑さで、付く頃には汗で大半流れた状況。


 ベビーブームからは少しずれているけれど、それでも6クラスという時代でした。
 そのうち出席者はおよそ三分の一というのは好成績では?何と言ったって卒業してから45年ですからね。


 思ったんだけど、全然変わらない人と、ゼッタイ本人じゃないよな、というくらい変化著しい人がいるのね。
 大抵は、話しているうちに昔の面影が浮き出てきますが、中には全く浮き出てこない人もいる。ほんと、個人差があって面白いもんですな。

 私?

 私は 「ぜんぜえん、変わんないね!」って、言われます。

 それって、嬉しい反面、昔から老けていたってことかしら・・・。(‘‘;)?

 
 でも、思う。

 みんな、ゴヤゴヤしゃべって笑ってさざめいているのを見ると、みい~んな一生懸命生きてきたんだなあって。
 様々な人生を送りながら、今も生きてこうして巡り逢っている。ありがたいよね。

 震災で、一瞬にして命や人生を失った方達が大勢いる。

 でも、私達はこうして生かされて今、お互いの無事を確かめ合い、笑いあっている。

 震災にあった方達に言うんじゃなくて、自分に言おう「がんばろう!」って。

 けんかした人、いつもつるんでいた人、幼馴染み、交際した人、みんな、今度は5年後だって!!
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TちゃんSちゃん

2011年05月18日 | 雑感
 今、仕事を探している期間で時間があります。

 そんな時、息子の連れ合いさんのTちゃんの具合が悪くなってしまい、孫のSちゃんもいることで、様子を見に夫婦で行ってみました。

 Tちゃんは明るくて気さくな、気配りもある子で、家の息子にはピッタリ。いつもは元気なのです。

 
 12月に生まれた孫は、Tちゃんの実家でしばらくみてもらっていたし、私も仕事で忙しくしていて、なかなかゆっくりとかまえなかったのですが、まとめて抱っこしてきました。
 Tちゃんもだんだんと回復してきたし、Sちゃんは元気だし、私も少しだけだけど、ばあちゃんらしい事、できたかな。

 
 福島原発の惨事は取り返しがつかないほどの被害を後世まで引きずっていきます。
現場で作業されている方達の必死の取り組みには心からの感謝と、なんとか頑張ってください、のお願いしかできませんが、東電や保安院の隠匿体質や<原発研究者>の発言には怒りがこみ上げてきます。

 チェルノブイリの事故と同じ「レベル7」ということは、生易しいことではありません。
 今後、子ども達に<甲状腺がん>が発症する率が高くなるのでは、と考えています。もちろん、大人も、ですが。しかも発症するのは何十年後か不明で、その時には<原発事故との関連は不明>とされる可能性が高い。
 これは、福島県の子ども達に限定された話ではありません。まして地震大国の日本です、浜岡原発のみならず、日本中で考えられる<原発事故>と<命>の問題です。

 
 自分が起きられないほど具合が悪い中で子どもの心配をしているTちゃんと、きゃっきゃと元気にしているSちゃんを見るにつけ、私達の責任は重いと感じます。
 
 お逢いしたことも無いのに脳裏に浮かぶ「かきの種」をくださった、おばあちゃんの瞳。そして今、私のひざの上で私を見つめる孫の瞳。

 私はやはり、沢山のことをやらなければいけないです。皆さんも、共に!
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夫が被災地から帰ってきて

2011年05月10日 | 雑感
 震災から2ヶ月がたとうとしています。

 夫は仕事の関係の団体経由で、N市にボラに行ってました。障害者の安否確認が担当です。

 私はその間、今までの仕事の資料を片付けたりしてましたが、この震災と人災を自分の中にとどめようと、写真や本を買って読んでました。

 そうしたら、時々夢の中に出てくる「私の心地よい場所」の景色が被害にあってしまっていました!
 暖かい日差しのきらめく川を渡り、土手で遊ぶ子ども達を見ながら、象の彫刻のある階段を下りてなだらかな坂を歩いていくと、いつもはそんなことは無いのに、道がわからなくなって、暗く柱が倒れたりして足元にもいろいろな物が散乱している所に迷いこんでしまったり、狭い半分になった小屋の中を通って、やっといつもの道に出て、そして見た景色は・・・。

 一面の瓦礫。見渡す限り、破壊された景色。

 夢から覚めてもしばらく動けなかったです。


 そして、夫が帰ってきました。

 夫が見た景色は、私の夢より数倍も悲惨だったようです。

 「言葉を無くす」とは、こういう状況だ、と言ってました。

 N市の障害者安否確認は、困難を極めたそうですが、それでも他市より良い状況だったそうです。行政の職員さん個人の頑張りや機転で決まるのだと思いました。

 300人を超える方のうち、260人強の安否がわかったようですが、もちろん、亡くなられてしまった方も多くいらしたそうです。
 車椅子のお子さん(といっても、もう大分のお年)が、地震のショックで食事をとらなくなってしまったという相談など、連携して一人ひとりを支援していく作業をしてきた夫は、一回り小さく痩せたみたいです。

 被災された障害者のご家族の話を聴いて回っていくうちに、その過酷な状況にいる方の気持ちに沿うあまりに、自分自身の気持ちが重くなってしまって、会議で報告をしているうちに自然に涙が流れてしまったと語る夫の話をきいている私も、気がつけば、涙が流れてて。

 深い悲しみの時、声を上げて泣く、というよりも、体の奥から無意識のうちに涙が湧いてきて、両のほっぺたから無意識のうちに流れ落ちるようです。

 夫が 訪問した先で、そこのおばあちゃんが「よく来てくれて・・・」と、お礼に小さな<柿の種>の袋菓子をくださったそうです。ありとあらゆる物が無い中なのにその気遣いがありがたくて、食べられないです。


 私がもしも市長だったら、市の職員の希望をとって、被災地の自治体に2年位送り込みます。そして、稲城市として、被災したどこかの自治体と姉妹関係になって長いスパンの支援をしていくな。それは必ず、一方的な<支援>ではなくなって、<お互い様>になると思うんです。
 
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