藤原愛子の日常茶飯事

前稲城市議・藤原愛子のもろもろな日々

上級国民一般国民

2019年11月25日 | 雑感

 母の部屋を少しづつ片付けています。

 抽斗の中には、張り薬や小さな鉛筆、年金通知などなどが入っています。洋裁が好きだったので、ボタン類がフイルムケースにまとまっていたりします。旅行写真などもあって、いつのかな・・などと眺めたりしています。

 読書好きでもあったので、歴史ものや好みだった女流作家の文庫本などがけっこうあります。まあ小さな活字の文庫本をよく読んでいたなあ、と感心します。私なぞ目がすぐに疲労してしまうのに。

 本日は母の持ち物だったマッサージ器をきれいに拭いて、粗大ごみとして持って行ってもらいました。

 そして、休憩にして、珍しく文庫本の篠田節子氏作品を少し読もうと・・目が疲れるので、少しだけね、と思いつつ・・。

 結局終わりまで読んでしまった・・!篠田さんの小説、好きなんです。後で目薬をさしました。

 
 目薬をさして、フト今朝の新聞に目が。

 そこには芸能人の結婚の記事がありました。

 
 そこで、思ったのです。


 よく芸能人の方の結婚記事に「お相手は一般女性(あるいは男性)」と、あります。

 きっと「芸能関係じゃない人がお相手よ」の意だと思いますが、なんだろこの違和感は。

 <一般>があれば<特別>がある。


 そこでさらに思ったのです。

 四月に池袋で、小さな女の子さんとお母さんが、車の暴走に巻き込まれて亡くなりましたね。

 運転していたのは<旧通産省工業技術院元院長の>という長い肩書がついた高齢の男性でした。

 アクセルとブレーキの踏み間違いだったそうですが、二人の方が亡くなり十人の方がけがをされた事故で、その現場の様子と、亡くなった親子さんの写真を見て、猛烈に胸が痛くなりました。

 と、同時に、「なぜ運転操作を誤った事故の張本人に長ったらしい経歴をつけるのか」という腹立たしい疑問が湧きましたね。

 「上級国民」だそうです。

 なんやらわからない。

 <上級>があれば<下級>があるのか。

 ちょっと調べましたら、<上級国民>と<一般国民>という対の言葉があるそうで。


 冗談じゃない。

 そういう言葉の存在自体、私はどうかと思うけれど、事故の報道をするメディアがなにも長々しい肩書をくっつけて流すのは如何なものか。

 四月の事故に、遅い反応だな、と言われるかもしれませんが、それはここにきてやっと書類送検になって(入院されていたようで)
言った言葉が「高齢者が安心して運転できる車の開発をしてくれ」だそうで!その感覚、自分がおこした事故に対する麻痺さ加減にひっくり返ってしまい、改めて<一般><上級>の言葉を考えたからなのです。

 麻生さんが、初めて衆議院選挙で当選した時、支援してくれた人たちへの第一声に
「下々のみなさま」と言って、次に言い直して「平民のみなさま」と言った有名な話がありますが、こんな感覚?と思ってしまいました。


 憲法第十四条にはこうあります。

 「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的または社会的関係において差別されない(後略)」

 十月の台風時、ホームレスさんを避難所に入れなかった某区の対応も、これに抵触。


 私たちの何気ない日常の中に、無意識であれ、差別が混在していることに気が付けること。何が差別となるか、きちんとわかる人間であることがとっても大切だと思います。






















































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未来の私に見られてる

2019年11月11日 | 雑感

 あらあら、もう11月も半ばに近づいて・・・。

 週に三日働いて、他の日は家事やったり読書したり・・という計画だったけど、けっこういろいろな予定が入ってきて仕事がない日も埋まっています。
 今日は夕方までお休み。

 仕事も慣れてきましたが、けっこう動きっぱなしでお陰様で足の筋肉がしっかりしてます。

 作業内容はダイレクトメールの封入だったり、紙袋の取っ手付けだったりなんですが、運んだり束ねたりの力仕事でもあり、運動になります。

 あと、自宅に届く様々なダイレクトメールも「どっかの作業所で詰めたかも」と思い、丁寧に開けてみるようになりました。


 さてさて、ヘンなタイトルですが。

 小学五年生の時にフト思いました。

 「今の私は実は夢の中にいて、いずれ目が覚める時がくるんじゃないか」と。

 そして言います「お母さま、私夢を見ていました」と。その「お母さま」は今の母とは違う人。

 
 まあ、<目が覚めない>まま、この歳になりましたけど。


 それでも時々この感覚がやってきて、そう、それがタイトルにした

 「未来の私」つまりもう生きているかあの世にいるかわからないのですが、年寄りらしき「私」が、今の私を「見ている」
または今「未来の私」に「見られてる」不思議な感覚・・。

 こりゃ単なる<現実逃避>かな?

 それとも、何かをしようとしたり、決めたりしようとする時の無意識な客観的判断の現れ?

 「ボ~っと生きてんじゃないよ!」というチコちゃん的なツッコミ?!・・かも。

 

 
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