藤原愛子の日常茶飯事

前稲城市議・藤原愛子のもろもろな日々

考えてみると

2012年04月30日 | 雑感
 まだ右手が腫れていて、使いすぎると痛くなる。

 いやあねえ・・。ハタチ過ぎると治りが遅いわねえ。

 
 言葉について。

 子どもの頃母親に、私の手足はよそ様に比べて5センチは短い、と言われ、ずっとそのことを気にしていました。
 大人になってからもずっと思っていまして、ごく最近、やっと「そんなでもない」と思うようになりました。(実際はわかりませんが)

 言葉の持つ威力、と言いましょうか、重みと言いましょうか、良くも悪くも物事を左右する力が、「言葉」にはあると思います。

 原発が動かないと電気が不足するんだぞ。

 電気が不足すると、日常生活に支障をきたすし、だいたい経済が成り立たない。

 日本という国が成り立たなくなってしまうんだぞ。

 だから、多少の不安があろうが原発は必要なんだぞ。

 ・・・というように「言葉」に、思考が絡め捕られてしまうようなことがあります。


 沖縄に米軍の基地がなくなると、日本を攻めてくる国があるんだぞ。

 だから、一番適した場所に米軍基地を整備してるんだ。ってのもそんなところ。


 最近は、自然エネルギーの買取料金を設定して、その支払いのために電気料金を値上げします。・・・って。


 よく、というかちょっと考えると、その「言葉」の組み立て(論法ともいうのかしら)はヘンだな、と気がつくんだけど、あまりよく考えないで聞くと「言葉の魔術」にやられちゃうのよ。
 
 小さいころ母にいわれました。私はひねくれていると。

 今でもそう思っているけれど、少しひねくれて考えるくらいじゃないと、まんまとひっかかっちゃうことがイッパイあるのですよね。

 よく「若くみえますね!」と言われて、その言葉にひっかかっちゃって調子に乗って、
それでころんで捻挫しちゃった私・・・。

 言葉の魔術にひっかかって、へらへらしてたらいけないね!
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「ガレキ」と言われているけれど Ⅱ・・・右手捻挫・・・。

2012年04月22日 | 雑感
 先日朝、駅の階段でコケて右手を捻挫してしまった・・・。

 あんまり腫れて痛いので、骨が折れたかと思いましたが。

 どうやら少し良くなってきました。


 ガレキの続きを・・・。

 今、野田総理は「消費税増税法案に政治生命をかける」と言っておりますが、どうして国民が安心できる生活に命かけると言わないのかしら。
 福島原発の原因も究明されていないうちに、大飯原発オーケイと言うような状況だから、どうも物事の本質や何が重要かが判断できないとおもわれても仕方ない。
 
 こんな中、私達は「言葉の魔術」にかかってはいけませんよ。

 「がれき」と言うと、「災害で壊れてしまった品々」ではなくて、「早く処分するもの」になってしまう。でもって、「ガレキが処分できないから復興が遅れる」という言い訳になってしまって、「ガレキを受け入れない人間は、自己中心的なヤツだ」みたいな発想になっていくのではないかしら。


 何故、膨大な運送費をかけて全国に分けていくのか。「放射能汚染は大丈夫」という言葉も信頼できないくらい、国は情報の隠匿やいいかげんなことをやってきてしまっています。
 私達は、自己中で言っているのではないのです。国の言っている事が、信用できなくなっちゃったのです。
 本当に被災した人達に向かい合って、生活の建て直しに尽力する考えを国が持っているなら、「ガレキを処理する」という言い方はせんでしょうし、何故日本中で「焼却処理」をするのか、放射能はどうなのかという不安や疑問にきちんと説明ができるはずです。

 
 あらあ~、なかなか右手がうまく動かんなあ・・・打つのに時間がかかりよる。

 階段でこけるなんて、はずかしいねえ・・・。

 「言葉の魔術」について、次回書きますね!

 
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「ガレキ」と言われているけれど

2012年04月11日 | 雑感
 今、各自治体で重大な問題になっているもののひとつに、被災地の「ガレキ」を焼却すること、があります。

 「ガレキ」と呼ばれていますが、私のつれあいは、「ガレキと呼ぶな!」といいます。

 それらは、家だったり、工場だったり、また愛車や机、記念に買った生活の品々などだったもので、無残に壊れてしまったけれど、けっして「ガレキ」などと呼ばれる筋合いのものではない、生活の歴史や思い出の品なんだぞ、と。

 私もその気持ちは十分に感じていますが、申し訳ないけれど、ここでは「ガレキ」と書かせてもらいます。


 この「ガレキ処理」について、様々な意見があります。

 被災地の痛みをみんなで分けよう。復興の妨げになっているわけだから、全国でガレキを受け入れるべきだ。と、いう意見。

 いやいや、放射能を日本中にばらまくことになるから、被災地内で処理すべきだ。と、いう意見。


 マスコミは、受け入れる、と受け入れないの、二者択一の書き方をしているケースが多いですね。専門家の意見も分かれているのがいろいろ載ったりしています。

 これは原発でもそう。

 原発再開か、脱原発かの二者択一。

 私はどうもこのふたつのどっちかに意見を割ってもめさせることで、本来責任をとるべきところへの追求から関心をそらす手をとっている気がするんです。

 
 なぜ、2300万トンはあろうという「ガレキ」のうち、わずか20パーセントの400万トンだけ、全国の自治体で「燃やせ」と言っているのか。それだけでいい根拠が分からないし、被災地のガレキがまだ5パーセントしか片付いていないのと、どう結びついているのかわからない。

 あ、続きを書きたいけれど、本日ちょっと夜会議がありますんで、続きは、また!
コメント (4)
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