藤原愛子の日常茶飯事

前稲城市議・藤原愛子のもろもろな日々

死者は多くのことを生者に教えてくれる

2017年06月30日 | その他
 
 今日、六月議会が閉会しました。  

 明日からは、六月議会の報告の通信作成や、議会中に時間がとれなかった様々な集まりや学習会などの参加、それから母の新盆を迎えます。

 
 こうして一年の半分が、過ぎました。 速い!!


 議会が終盤になって、時間にゆとりが生まれたころ、乳がんと戦っていた小林真央さんの訃報を知りました。

 もちろん、お会いしたこともなければ特にフアンということもなかったですが、母の死からあまり日にちが経っていないので、「死」というものに少し敏感になっています。


 そして、胸によみがえってきたのは、26年前、になりますか、私の親友の死です。

 二人の幼い子を残して、30代の若さで逝った彼女は、乳がんでした。 まったく同じケースですね。


 彼女はとても聡明で、気が強く見えても実に繊細な神経の持ち主でした。


 彼女が元気だったらきっと、私ではなく彼女がまず市議会議員になっていたと思います。

 
 自身の死を悟り、ご自宅のベッドに友人が集まって、「これが最後の食事会ね」と彼女が言って、みんなでみつ豆をたべたっけ。

 そして自ら葬儀用の写真を選びました。私も一緒に、「これがいいわね」なんて。

 
 私は何もできませんでしたが、ただひとつ、時々彼女を思い出す。そして決して忘れない。

 

 彼女と私の関係だけでなく、最近旅立った私の母や昔死別した父だけでなく、この世にいなくなった人たちが語りかけてくることがあります。

 「ちゃんと生きてる?」って。


 

 
 


 
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もう紫陽花の季節なんですね

2017年06月17日 | その他


 前回、このブログを書いてからはや二か月が経過しました。

 もうあちこちで紫陽花が咲く季節になりましたね。


 前回ブログを書いた日から、母の様態の悪化が顕著になり、それこそ24時間体制に入りました。

 孫たちも入れ替わり立ち代わりお見舞いに訪れて、日々様態の変わるおばあちゃんに会い、苦しそうな日もあり平気そうな日もありと感想や様子を話たりしていました。


 けれど、ついに一週間後の4月26日、母は旅立っていきました。


 毎日接していると、「ああ、明日あたりかな・・・」と感じて、私が仕事をガンガン終わらせて、伸びてしまった髪の毛を切りにいっている間に、看護師さんと話をしつつ、まるで苦しむ様子なく逝ったそうです。

 
 92歳の生涯でした。

 46年前に51歳で旅立った夫と再会したかしら。


 母は、慈母や賢母というより、なんというか少女っぽいところがある人で、娘の私にはけっこう辛辣な物言いや態度をとる人でした。

 もしかしたら本当の母親ではないのかしら、と小説みたいに思ったこともありましたが、あまりに顔がソックリなので、私の妄想はそこでストップしていました。

 
 介護される生活に入って、最近のことを忘れてしまうことが増え、体が自由に動かないことが増え、それでもイライラせずにだんだん角が無くなって
、感謝の言葉がでるようになった母でしたので、なるべく喜ぶようなことをしてあげたいと殊勝な考えを持った私。


 家族と親戚で行った葬儀も、孫たちひ孫たちに囲まれてほっこりにぎやかに行えました。


 正直、仕事をしながらの介護はそう簡単なものではなかったです。

 でも、本当に多くの人たちの協力や支えを頂いて毎日を送ることができました。

 皆様と家族に心から感謝です。


 何故か、母が亡くなった翌日から連日、若い姿の母が夢に登場しました。

 大抵ニコニコ何か話ながら料理していたり、テーブルの前に座っていたり。そう、買い物に出て行ったりしてました。


 私が小さい時にはあまり向けてくれなかった笑顔で。

 何か救われた感じがしました。


 
 情けないことに介護と仕事の両立は二年くらいだったのに、生活ペースが変わったせいか私の体が不調になり、49日を前にした十日間ほどは全身の蕁麻疹・発熱・吐き気なんぞでフラフラ状態に。



 でも。

 今は六月議会に突入して、お仏壇に入った母に「じゃ、行って来ます」と声をかけて出る日々となりました。

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