藤原愛子の日常茶飯事

前稲城市議・藤原愛子のもろもろな日々

田中正造記念館でお世話になりました

2024年08月10日 | 足尾鉱毒事件・田中正造
 先週の土曜日、やっと再訪してきました「田中正造記念館」

 以前は駆け足状態で、足尾鉱毒被災地やその支援に入った女性たちに関する場所をみてまわったのですが、田中正造さんの生家や臨終の地となった庭田さんのお宅、旧谷中村跡、支援に尽力した潮田さんの碑など、盛りだくさんでしたので、今回は少し絞ってみてきました。

 田中正造記念館のボランティアさん(大塚さん)には心より感謝です!
炎天下なんと外気温38度!の中を朝から一日丁寧な案内をしていただきました。

 国に窮状を訴えようと、各被害地より村民3000人が集結した「雲竜寺」
まずそこで確認したかったのは、川俣で警官による暴力で検挙された67名方の名前が彫ってある記念碑です。
 父の生家である栃木県安蘇郡上野村字船津川の在の数名の方の名前がありました。
 その中にある「大月善平」
私の直接の親戚かとも思いましたが、私の旧姓は「大朏」です。
読み方は同じですが、多分どこかで枝分かれした姓ではないかと思います。

 でも、なんだかとても身近に感じます。

 雲竜寺にも田中さんのお墓はありますが、なにしろ数か所に分骨されております。
その一つ「田中霊嗣」にも連れて行ってもらいました。その周囲には、最後まで谷中村に残り、無言の抵抗をした六戸の人たちの子孫の方々が今も住んでおいでです。

 旧谷中村。足尾銅山から渡良瀬川に流出した鉱毒により、豊かであった漁と農の村が有毒の泥地となってしまった谷中村。
 時を経て今は渡良瀬遊水地となり、ラムサール条約に加盟した、鳥や花の生息地となりました。中を少し案内して頂き、コウノトリが飛ぶ姿も見かけました

 なんだか、複雑な心境になります。

 まだまだこれから機会を見て、足尾鉱毒事件に関することをいろいろな角度から学んで行くつもりです。

 



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連綿と続いている

2024年04月20日 | 足尾鉱毒事件・田中正造

 先日来、大阪・熊本・新潟と、水俣病の認定に関する地方裁判所の判決が続きました。

 原告の全員が認められた所と一部の人のみの所と、判決は分かれ、公式発見から60年経っても未だ肉体だけでなく精神的にも苦しむ人たちが大勢おいでだと気づきます。


 足尾鉱毒事件を調べていくと、いろいろな課題が出てきます。
  
 たとえば、川俣事件では、東京に訴えに行こうとした素手の人たちに対し、何故、警官がサーベルやこん棒で死亡者がでるほど暴力をふるったか。
 
 ここには時代の背景と共に、人間の中にある「差別意識」が存在していると思われます。

 また、広範囲に及ぶ環境破壊の実情を田中正造氏がいくら訴えても、何故、国は動かなかったか

 これは大企業の発展が日本の産業分野に大いに貢献し、この勢いを優先したからと思われます。

 更に、日本における最初の公害事件であろう足尾鉱毒の災禍に対し、何故、問題をそらすような「解決」としたか。
 鉱毒そのものの発生を止めずに鉱毒の「沈殿場所」をつくるという手法を誰が決めたのか。

 日本4大公害病と言われるのが
  *水俣病
  *新潟水俣病
  *四日市ぜんそく
  *イタイイタイ病    です。
 
 足尾鉱毒の被害はそれよりはるか前、今から150年も前にありました。

 先に書いた「水俣病」のように、地域や症状が違っても、大企業による環境汚染の被害に苦しむ人たちが絶えることが無いというのが現状です。


 「田中正造終焉の地」という石碑を見たのが多分10歳くらい。
そこから始まった課題を、今70過ぎた私が歩いています。
 
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川俣事件

2024年02月13日 | 足尾鉱毒事件・田中正造
 唐突ですが124年前の今日、歴史に残る「川俣事件」が起こりました。

 「??」「何?」・・とお思いの方が多いと思われますが、日本における初の公害事件と言われる「足尾鉱毒事件」の悲惨な歴史の中で起こった、弾圧と言ってよい事件です。

 明治時代、栃木県足尾の山にて銅の採掘が大規模に行われ、その鉱毒が渡良瀬川に流れ込み、下流一体が硫酸銅等により汚染されてしまったのです。
 漁業も農業も壊滅的となり、飲料水も汚染されたため、生活に窮し死産も頻繁になるという人たちや、空気汚染により鳥も死ぬという中で、村そのものが無くなるという悲惨な状況であったと言われます。

 このような中、生涯を鉱山廃止、生活再建に奔走したのが「田中正造」さんです。

 「川俣事件」は、その田中さんをはじめ多くの人たちや当事者の運動にも関わらず、国が問題を放置していることに対して、当事者である農民たちが直接国に意見をきいてもらおうと企画し、数千人が東京目指して行ったところ、群馬県川俣(当時)において数百人の警官が待ち構えており、蓑笠姿の何の武器も農具も持たない、素手の農夫に襲い掛かり、サーベルで殴るけるの暴行を働き、十数人を縛るという暴挙を行った事件です。殴られた20歳の青年が亡くなり、大勢がけがを負いました。

 足尾鉱毒や田中正造、日本の公害や国の対応等々について、これから徐々にお話ししたいと思いますが、何故ここにきてこの話?

 実は、この川俣事件に関わったうちの78人の名前が刻まれている「足尾鉱毒事件被告の碑」というのが当時の運動拠点であった「雲竜寺」さんにあり、その中の一人が私の遠い親戚にあたるかもしれないのです。

 栃木県で両親とも生まれ、父の生家が旧安蘇郡上野村字船津川という被害の激甚地で、私が10歳ころでしょうか田舎に遊びに行って土手に立っている「田中正造終焉の地」という石碑をみつけました。その時の情景は今でも鮮明に覚えています。

そんなことから時間ができた今、いろいろ調べてみようかな、と思った次第です。
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