アフガン・イラク・北朝鮮と日本

黙って野垂れ死ぬな やられたらやり返せ 万国のプレカリアート団結せよ!

国全体がやらせ・格差社会の北朝鮮

2006年12月29日 23時31分57秒 | 北朝鮮・中国人権問題
 昨日18時半から日本テレビ系列で放送された緊急特集番組「お前は誰だ 金正日が怖れる男・・・リ・ジュン」を見ました。

 私、実を言うと、もう最近は「北朝鮮モノ」番組には辟易していました。何故かと言うと、最近のこの手の番組と言うのはもう、視聴率稼ぎのお涙頂戴か、興味本位でヘイトスピーチ・戦争扇動の北朝鮮・在日バッシングか、安倍・ネオコンの提灯持ち番組か、ばかりだったので。特に命令放送以後はNHKのニュースも心持ちそんな報道ばかりがやたらと目に付き出して。その裏で、教育基本法"やらせ改悪"のニュースは大手全国紙でも準三面記事扱いで、Yahoo!ニュースでもトップページに約30分間流しただけで後は直ぐに他の話題と差し替えられていた。この間そういう情報操作を露骨に見せ付けられていたので、最初にこの番組の見出しを見た時も、どうせ安倍官邸筋の息のかかった「やらせ・準国策」番組だろうとタカをくくっていたのです。

 しかし、番組のソースがアジアプレスの石丸次郎氏で、拉致板界隈だけでなく拙ブログ周辺界隈でも話題に上りだしたので、俄然興味が湧いてきて急遽見る事にしました。近頃跋扈しているその手のキワモノ番組とは異なり、非常に良い番組でした。

 妻や娘を飢餓で亡くし決死の想いで国境の豆満江を渡って中国に脱北したリ・ジュン(仮名)が、現地で脱北者取材を続けていた石丸次郎氏と出会い、石丸氏からビデオ撮影の技術を学んで再び北朝鮮に潜入し、北朝鮮の内情をビデオ撮影。ここに、史上初の北朝鮮人国内反体制ジャーナリストが誕生しました。

 北朝鮮の内情については、今までもRENKなどが撮影したビデオがあるのですが、如何せん、それらは脱北の様子や国内反体制ビラの隠し撮りまでが精一杯で、その反体制ビラにしても、それがどれだけの裾野を持って北朝鮮国内で流通しているのかが、イマイチよく分りませんでした。

 それに対してリ・ジュンのビデオは、名も無き民衆の実際の生活の様子を、克明にしかも広範囲に捉えていて、非常に説得力がありました。移動中の鉄道車内で通行許可証を持たない親子が乗務員につまみ出されている様子、電力供給が滞り度々臨時停車を余儀なくされた車内の乗客が外に出て女性も化粧直しに余念が無い様子、金目のものと交換する為に肥料の積み込み現場で貨物列車に群がり落ちこぼれた肥料をかき集めている群衆の様子などが撮影されていました。

 また、それを統制強化で乗り切ろうとしている様子や、その統制が全然機能しなくなっている様子も。糾察隊の腕章をつけた女性が街中を練り歩いたりしているのですが、民衆はもうそんな奴らの言う事など馬耳東風で好き勝手な事をしています。
 清津(チョンチン)では、製鉄所の職員がもうずっと給料が支払われないので職場全体で工場をホッポリ出して屑拾いに専念していたり、コッチェビ(ホームレスの孤児)の存在を尻目に真昼間から川原でバーベキュー大会をしている男女が大勢いて派手な歌舞音曲に興じて糾察隊もお手上げの状況だったり。その横で先軍政治で優遇されている筈の人民軍兵士が腹をすかせて寝そべっていた。鉄道車内でも、帰郷中の若者兵士が栄養失調の余り食べ物を一切受け付けなくなって横たわっていた。
 
 北朝鮮では職場の出勤状況を逐一警察に報告しなければならないのだそうですが、その一方で食う為、生きる為の職場放棄があちこちで広がっている。この様子では警察の方も、適当な報告をでっち上げて後は自分たちも屑拾いに出掛けていっているのではないか、そういう気がします。国内統制という点では戦時中の日本も同じ様なものでしたが、北朝鮮の場合はもう配給網自体が完全に崩壊してしまっています。この様な状況では、如何に軍国青年・乙女と言えども、生き抜く為には職場を放棄するしか他に方法がない。
 その中でもとりわけ興味を引いたのが朝鮮労働党地方幹部へのインタビュー。党・政府が掲げている「強盛大国」のスローガンが、豊かな国を意味するのではなく、ただただ核保有だけを意味していた事を上の方から初めて聞かされて、「俺は今まで騙されていた」と地方幹部が思わず漏らしてしまうくだりです。先の飢えた人民軍兵士の映像と言いこの幹部の発言と言い、金正日体制は既に中間支配層からも見捨てられつつあるのではないか。

 ただ一つ疑問に思うのは、リ・ジュンが何故こんなにビデオ取材やインタビューまでやってのける事が出来るのか、という事です。「決死の覚悟で取材敢行」という割には、余りにも手際が良すぎるというか。番組では「最近北朝鮮では結婚式をビデオに録画しておく事が流行している」という話が紹介されていたので、ビデオ取材も別段物珍しいものではなくなってきているという事なのでしょうか。ビデオ自体も、庶民にとっては相変わらず高嶺の花ではあっても、一昔みたいに「見た事も触った事も無い」状況では無くなってきているのかも。事実、平壌の上層市民の間では携帯電話も使われ始めていると言うし。仮にも石丸次郎プロデュース・アジアプレス責任編集の特集番組と銘打つ以上は、他のヤラセ紛いの興味本位なワイドショー番組とは一線を画しているとは思っていますが。

 この番組が他の北朝鮮モノと決定的に違うのは、北朝鮮国内現地の住民生活や民衆の息吹が直に伝えられている点です。他の北朝鮮モノ番組が、やれ金ファミリーの後継者がどうたら「喜び組」がこうたら、金正日やブッシュや安倍がどう言ったこう言ったとかいう事ばかりを興味本位に垂れ流しているだけなのに対して、この番組はそうではなく、「国内現地の民衆がどう考えているか、情報をどう受け止めているか」という一番肝心な事を伝えてくれている点です。それも「民衆の解放」という立場にしっかり視点を据えて。金正日批判ビラが国内で蒔かれたとか、そういう情報も従来から在るには在りましたが、今までは断片的な情報に止まり、それが国内で実際にどれだけ大衆的な広がりを有しているかという一番肝心な事がよく分りませんでした。そういう情報は全て「脱北者の伝言」という形でしか得られませんでした。ところが今回、それがこういう形で伝えられました。

 勿論、今回伝えられた「民衆の息吹」も、敢えて穿った見方をすれば、確かに北朝鮮国内の一断面にしか過ぎないのかも知れません。また、革命情勢(民衆生活の困窮)が自動的に革命に結びつく訳でも勿論ありません。当該番組の中でもコメンテーターの一人が、「民衆は強かだが、動物的な生存要求のレベルに止まっている(そのままでは政治変革には直結しない)」という意味の事を言っていました。但しそれは日本でも同じ事です。日本にもワーキング・プアだけでなくヒルズ族や安倍・小泉・石原支持者もゴマンと居ます。
 問題は、そのどちらかより本質的・根源的で、取り上げられなければならない事柄かという事です。NHKのワーキング・プア特集番組の編集者に対して「ド貧民が、必死だな」というメールを送りつけて来るような"人間のクズ"と心性を同じくする輩が、さも尤もらしく北朝鮮の格差・階級社会を批判しても、そんなモノが人の心に響く事はありません。それに対して、「民衆の解放」を視座に据え、その息吹を伝えた取材こそが、真に人の心に迫ってくるのです。今回はそういう意味では、稀に見る良質の取材番組でした。リ・ジュンが起爆剤となって、更に多くの北朝鮮国内反体制ジャーナリストが後に続く事を祈って。

・緊急生SP「お前は誰だ」公式HP(日本テレビ)
 http://www.ntv.co.jp/sunday/scoop/
・同上番組の案内ページ(アジアプレス)
 http://asiapress.org/

(番外編)
・しょこたん☆ぶろぐ
 確か中川翔子も上記番組にコメンテーターの一人として出ていて、ブログに番組の感想を載せるとかいう話も出てなかったっけ・・・(半分・怒)。
 http://yaplog.jp/strawberry2/
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13 コメント

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頭が不自由な人たち (まじへん)
2006-12-30 18:26:16
北朝鮮は生産と破壊がひどくアンバランスで、国家を挙げて破壊にいそしんでいる。たったそれだけの、子供でも分ることが-なぜ大人になると分からなくなる。

日本は「収支のバランスが大切」とCMで皮肉られるお粗末だし

中国は書かない方が良いけど、人口の多さに見合った幸せのイメージがあれば随分違うと思うんですけど。
日テレの北朝鮮特番 (まこと)
2006-12-31 10:21:25
まだ観ていませんが、録画はしてありますので近日中に視聴します。

それでは、社会主義者さんも、皆さんもよいお年を。
原 良一 (映像ライブラリーの紹介&皆さん、よいお年を)
2006-12-31 22:24:17
皆様お久しぶりです。
当該番組は
檀君 WHO's WHO
http://kamomiya.ddo.jp/index0.html
の中の
News Library
http://kamomiya.ddo.jp/index0.html
で収録されているので見ることができます。
 ただし順次新番組が入ると、古い番組から削除されてしまうのでお早めに視聴又は保存ください。
 私は、30日に休みになった途端、風邪で38度5分の発熱でダウン。今夜やっと楽になってきましたが、まだ年賀状も未着手です(汗)。
 皆様もくれぐれもお体お大事に、良いお年を。
2006年12月31日22時25分記
原良一さん (まこと)
2007-01-01 08:00:03
原良一さん、あけおめ&お久しぶりです。

プロレタリアート(汗)たるもの、カラダが資本ですよね、お互い。

お体をお大事にしてください。


窮乏なんて世界史的には珍しくもないが (むじな)
2007-01-01 12:11:53
>北朝鮮は生産と破壊がひどくアンバランスで、

人類史のなかでは、そんなことは珍しいことではありませんでしたよ。そんなことと、

>国家を挙げて破壊にいそしんでいる。

は直結しないことは歴史が証明しています。

第一、人類なんて産業革命以前には一貫して窮乏状態にあったのであって、18世紀までの欧州なんて、毎冬ごとに餓死者が出て、そりゃひどいもんですよ。いまでもアフリカでは餓死が大量に発生しています。それに比べれば北朝鮮は大したことはありません。

また、北朝鮮の「窮乏」なるものは、今になって始まったものではなくて、あの国は日帝の遺産がまだあった60年代までならともかく、少なくとも個人崇拝体制が完成した72年以降は一貫して窮乏状態にあったわけで、また窮乏状態こそが個人崇拝体制を作りだしたともいえるわけで、それが33年ももっているんだから、今になってそれが崩壊するというのは、だったらどうしてこれまで持ちこたえてきたのかを説明しないと、単なる「希望的観測」になってしまいます。

それに「北朝鮮はすぐにもつぶれる」論は、日本で北朝鮮が俄かに関心の対象になってからこのかた数年以上もいわれ続けていまだに実現しておりませんw。

今回、日本にも帰国して、それからソウルにも行ってきたんですが、最後の日に寒波が来て、すごく寒かったです。
台湾に戻る日の明け方ソウルの宿を出たときにはなんと氷点下12度。38度線以北の韓国領の鉄原は氷点下21度と報じられていました。
てことは、北朝鮮はほぼ全域にわたって氷点下10度以下で場所によっては30度以下のところもあるわけで、緯度の割りには酷寒だということです。
しかも氷点下10度くらいの寒さだとむしろ頭が働くなるもので、つまり北朝鮮はもともと自然条件や環境がそんなに良くないところだし、頭も働かないだろうから、ああいうけったいな体制をやっているしかないんだろうと思いました。

日本にいる人は、とかく日本の気候風土を基準にして物を考えがちw。
だから、イラクやアフガンのような砂漠・山岳地帯、タイのような熱帯モンスーン、北朝鮮のような緯度の割りにものすごく寒くなる冷帯気候の地域についての「理解」ができないのです。

北朝鮮はどんな体制になろうが、どうせ同じようなことしかできません。あそこの自然風土は劣悪すぎるのですから。
半島よりもはるかに温暖な気候にある日本にいる人間には、あの半島北部の環境を想像できないだけではないのか?

それより、今回、韓国で中道与党から左派の民労党の連中と意見交換して改めて発見したことは、韓国が北朝鮮に宥和的なのは、決して北朝鮮に操縦されているからでも、北朝鮮が好きなわけでもなく、単に地政学の戦略的理由から、北朝鮮を中国の植民地にされたくないために、韓国としても主体的に関わっていかなければいけない、という悲鳴にも似たものだということでした。
これは、私が従来から主張してきた問題意識と合致します。
北朝鮮の背後には中国が控えています。ということは、ヘタに金正日政権を打倒したり、北朝鮮に経済制裁を加えたりしていると、北朝鮮は好きでもない中国にどんどん依存せざるをえなくなり、北朝鮮は中国の植民地になってしまう、ということです。
それが嫌だから、韓国はあそこまで北朝鮮との宥和に執着しているのです。

日本人は北朝鮮をアジアの国際関係の中で考えないで、まして中国との関係の中で考えないで、北朝鮮という「異常な閉鎖独裁体制」にだけ注目しすぎです。

しょせん、北朝鮮は金正日がいなくても独裁体制を維持せざるをえない。そういう気候条件なのです。
それなら、中国の植民地化に抵抗している金正日を助けたほうがマシ、というのが韓国の中道から左派にかけての戦略判断なのです。

そうした戦略判断が日本人には左派にも、さらに右派にすらも欠けているのが問題でしょう。日本人は日本の気候風土から派生するものや日本の基準だけがすべてになっていて、国際関係などの視野がまったくないのが問題です。

自分の文化にたって基準で外国を見るのはやめませう。
中国の問題が報道されないのは、メディアが抱き込まれているから (むじな)
2007-01-01 12:16:09
>中国は書かない方が良いけど、人口の多さに見合った幸せのイメージがあれば随分違うと思うんですけど。

中国の貧困層や貧富格差の問題は深刻です。なまじ経済的改革開放で富裕層が増えて目立つだけに、相対的剥奪感はすさまじいものがあります。

ところが、日本のメディアは中国共産党の抱き込み工作を受けているので、それを伝えようとしないだけです。だから、みんな中国の問題は北朝鮮のそれより小さいと考え勝ちですが、ところがどっこい、中国の問題のほうがはるかに深刻でタチが悪いんですよ。

メディアが伝えないから、問題がないと思ってしまう人のほうが、頭が不自由だと思います。
まして中国は北朝鮮と同様の情報統制、一党独裁国家だということをお忘れなく。
チベットで、今も多くの人々が串刺しにされて殺されていることもお忘れなく。
「チャンネル桜」で中国の人権弾圧の実態を伝える特番を放送 (まこと)
2007-01-02 01:15:36
1月3日の夜9時~深夜0時、スカパー(110度CSじゃない方)Ch.767の右翼TV局「チャンネル桜」で中国の人権弾圧の実態を伝える特番を放送します。青蔵鉄道のレポートや魏京生氏のインタビューなどが放送されます。

http://www.ch-sakura.jp/weeklypg/program.html?yymmdd=20070103

この日はノースクランブル無料放送期間中なので、スカパーの受信機器を持っている人なら誰でも視聴できます。もし宜しければ。
脱北者の証言-耀徳収容所での3年その1 (原 良一)
2007-01-02 02:32:42
 熱が下がって体調が回復したかなと思ったら、元旦の午後から頭痛と吐き気にひどくなり、遂に昼食を吐いてしまいました。横になっても痛みと悪感で寝付けませんでしたが、いつしか眠り込み少し前に目が覚めました。
 寝ている間にむじなこと酒井亨センセェがロクでもないことを書き込んでいるので、反論の意味も込めて、RENKというより守る会(北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会)の韓国のカウンターパートである北韓人権市民連合の機関誌に掲載された脱北者の証言を紹介します。
 原文は三浦さんから内輪向けに回ってきた論考ですが、一部が三浦さんによって沢村板に公開されており、当ブログで公開しても支障はないだろうとの判断です。
 なお転載に当たって、一部の誤字や一般的ではないカナ遣い、長すぎる段落の改行を投稿者の文責によって校正しています。コメント欄は5000字までとの表示が出たので、3回に分けています。

*******(以下、転載)************************

北韓人権市民連合の「生命と人権」41号に掲載された記事の翻訳です
痛ましい話ですが、ご一読ください、三浦

証言
強制送還後、耀徳収容所での3年
                   金ウンチョル
              ・2006年3月入国、耀徳第15号管理所経験者
              ・2000年7人脱北者強制送還事件生存者

 1999年11月10日、私を含めた脱北者7名が、中国でロシア国境を越えたところ、ロシア国境警備隊に捕まった。最初は、私たちを逮捕して3日目に中国に送り返すといった。そこで、私たちは「中国に送られたら、北韓に引き渡されるのは明白なので、国連と話したい」と言った。すると、ロシアでは、国連から来た人々に会えるようにしてくれた。一人当たり10分くらいずつインタビュ-をし、私たちは続けて、韓国に送ってくれと頼んだ。すると、彼らは「あなた方の要求を聞き入れた」と言いながら、写真を撮って帰っていった。記者会見をして3日が過ぎると、北韓大使がやってきた。ロシア人が私たちに、会うかと聞いたので断った。すると、紙に書けと言った。そして、私たちは、北韓大使と会えば、私たちは捕まり、殺されるのが明白なのだから、会いたくないと書いた。しかし、私たちの思い通りにならなかった。
 結局、北韓大使に会わざるを得ず、彼は「同志は、将軍の配慮に何故背いて祖国に反逆したのか?」と訊ねた。直接、会ってみると、とても恐ろしくなった。やはり、雰囲気が悪く流れているようだった。そして、じっくり考えてみると、どんなに国連の人々に会っても、北韓に送られるのではないかという思いになり、“では、北韓に戻ったらどうなるのか?”と聞いてみた。彼は“将軍の配慮で罪科によって処罰されるだろう”と言った。

 1999年12月30日、中国辺境外事課(調査課)から人がやってきて、ロシア軍人たちは、私たちを中国に引き渡した。中国から来た人々は、私たちにロシアにいた時、満足な待遇を受けたかと聞いたりもした。私たちが連れて行かれた所は、中国の密山という場所だった。殴られなかったが、わずかなパンとジャガイモ粥が与えられ、氷柱で洗面をしながら過ごした。その時、私たちは外事課の建物で調査を受け、夜には公安局の建物に護送され休んだが、2000年1月2日、いつものように公安局に護送される時、車が止まり、皆降りろと言った時、皆同時に逃亡した。後で知ったのだが、他の人々は3~4時間後に皆捕まり、私だけが成功した。逃亡出来ないように、靴を奪われ裸足だったために、一歩踏み出すたびに転び続けながらも逃げ続けた。逃走を計画する前に、皆成功したら、中国延吉教会で再会することにした。
 一人で逃亡しながら考えてみると、朝鮮族旅館や教会を訪ねて行けば、検問をしているようなので、裸足で降りしきる雪の中を2時間以上さまよい、密山のある村で肉を売る店を見つけ、とにかく入っていった。中国人店員が、私の状況をすぐに理解し、気の毒に思ったのか手を握って家に連れていき、湯で足を温めてくれ、食べ物もくれた。しばらくすると、話を聞いたのか、店の社長がやってきた。それで、私は朝鮮の地図を描き、教会を意味する十字架を描いた。すると、社長は私を病院に連れていった。十字架を病院と錯覚したようだった。

 逃亡当時の私の服装では検問を受けるだろうと思い、病院の隣のベッドで寝ていた中国の乞食のような人と服を取り替えて寝た。翌日、朝から待っていてもその社長がもう来ないのではないか、だんだん不安になり病院からも逃げ出した。幸い、道で朝鮮語を少し理解する女性二人に会った。それでも、私が漢族の言葉(中国語)を知らず、言葉がよく通じないと、中国の金9元をくれた。バスに乗って市外に抜け出した。農村を訪ねようと思って無意識に歩いていたところ、遠くに大きな家が見えたので、助けを求めようと訪ねて行ったら寺だった。中国人のお婆さんがいたが、言葉が通じなかった。するとお婆さんは、朝鮮族一人を連れてきてくれた。一部始終を話して助けを求めてきたといったら、寺の幹部は会議中だが、少ししたらやってきて助けてくれるだろうと言った。その寺は、法輪功をする人々が隠れている場所のようだった。幹部たちがやってきて話をしたが、少しずつ金を集め、中国の金398元を私にくれた。百元は靴下に、残りは別のところに突っ込みながら、「ここも検査がとても厳しいので、どこに行っても絶対ここにいたことは、生涯言うな」と託した。
脱北者の証言-耀徳収容所での3年その2 (原 良一)
2007-01-02 02:34:26
 タクシーに乗って密山市内に戻って来た。まず、散髪した後、100元程度で衣服を買って着て、食べ物も買って駅に行ったところ、私を捕まえに来たような中国公安が遠くに見えた。幸い、市場で買ったサングラスをかけていたためか、私を見つけられなかった。3元程度で牡丹江行き列車の切符を買った後、遠くで隠れて待った。出発時間が近づき、外にいた公安たちが駅内に入って行くような雰囲気だった。そして、本当に出発時間になると公安たちが駅前に机を置いて、人々を検査し始めた。しかしとにかく密山から逃げ出したいために放棄出来なかった。そこで、塀を越えて、列車の化粧室に入り40分くらい隠れていた。出発して4時間後に牡丹江に到着し、汽車を乗り換えて延吉に入って行った。ロシアに渡る前に延吉教会で助けられた長老を訪ねていった。長老は、私たちがロシアで記者会見したのを見ながら、‘うまくいった。無事に韓国に送られるだろう’幸いだと思っていたが、私が逃亡したのを見てひどく驚いた。

 逃亡して3日の間、密山辺境隊で捕まらないと、密山公安30余名が延吉まで捕まえにきたことを知った。延吉にもはや留まれる状況ではなくなり、これ以上逃げて行くところも定かでないので、再び朝鮮に戻ることにした。静かに隠れて過ごせば分からないだろうと思った。和龍市徳華鎮を通って薄氷を這って豆満江を渡った。知っている家に入って一夜を過ごし、茂山に入った。すぐに家に行かず、知り合いの家を訪ねた。延吉教会で貰った500ウォンで米を少し買い与えたので、匿ってくれた。父への連絡を頼んだ。やってきた父に米を少し買ってあげて、数日その家に隠れていた。
 2000年1月16日、満月が明るく浮かんだ。再び中国に行かなくてはと決心して、最後に一度だけ家に行きたいという思いが切々とした。数日の間に中国から茂山まで私の情報が知られるようになろうとは思っても見なかった。しかし、家の中に入った瞬間、見えなかった安全員たちが瞬く間に押し寄せた。いつ公文書が渡ってきたのか、私の家に監視、待ち伏せが張り込んだのだった。拳銃で頭を殴られ、私が倒れると30分の間、息もつけないほどメチャクチャに殴った。靴紐で足を縛ったまま地面を引き摺って行った。

 連れて行かれた所は、茂山郡安全部だった。私は、保衛部扱い対象者だったので、安全部では大怪我はしなかった。しかし、茂山郡保衛部に移された時は違った。6カ月の間、太い角材をふくらはぎの裏側に挟んだまま、放熱板上に跪き、記憶出来ないほど多く打たれた。時間構わず毎日打たれたが、絶対、中国に行ったことは無いと言い張りながら十日程度は頑張った。しかし、すぐに中国公安から私の写真と書類等調査した全ての資料が送られてきた。目の前で全て見せられたので、これ以上、言い張る術が無かった。「中国に行ってキリスト教に会ったか?全て言え!」私は教会に行ったことは最後まで言わなかった。ロシアに行き、記者会見をしたことは認めた。
 しかし、「もう死ぬんだ」と思うようになり、だんだん全てのことを放棄するようになった。手足全て四方に縛られ、空中に吊るされたままにされると、自分という人間に対し全て放棄せざるを得なかった。紙を100枚ほど与えられ、無条件で埋めろと言った。言われるまま無条件に書けというのだが、したこと、しないこと問われるままに、こう書け、ああ書け、要求するままに全てやったと書いた。2カ月間、毎日、向かい合って取り調べ(調査)を受けた後は、拘留場で4カ月余、座して引き渡されるのを待った。拘留場だからといって、楽な場所ではなかった。警護員たちが執拗で放って置かず、続けて殴った。

 ある日、父親が面会に来て餅を置いていってくれたのだが、側で他の人々が少しだけくれとどんなに訴えても、警護員たちは与えないようにした。そして、少し見張っていない時、渡そうとしたところ、そのまま引っ掛かってしまった。警護員は、罰として頭を壁に続けて打付けろと言った。大声で打付けろと叱り付けたために、ガンガン音が響くほどに頭を壁に打ち付けた。額に血が噴き出始めると、皆、見ているところなのでそうしたのか、化粧室に連れていった。そして、化粧室の便器に続けて頭を打付けろと言った。あまりに腹立たしく、辛くて、歯を食い縛り、いっそ、こうやって死のうという思いで、狂ったように頭を打付けた。血がだらだら噴き出し血塗れになった。このことがあってから、だいぶ経った時、担当指導員がやってきて、何故そうなったのか訊ねた。事実のままに言っては、後が恐いのでそのまま何事もないと言い繕ったが、指導員が続けて聞くので、結局、話したところ、清通片(漢方薬)を磨り潰し塗ってくれた。少しずつ暑くなり始める6月からは、よりきつい罰を与えられた。罪囚たちで溢れた集結所で、刺すような暑さの中で毛布を被らせて、座ったり立ったりを繰り返さなくてはならないポンプを500回ずつやらされると、人間がそれこそ犬になる。十分に乾いてなく、シラミがうようよし、埃が積もった毛布を被って汗をだらだら流しぼろぼろになると、これ以上、人間らしい面を探し出せなくなる。
脱北者の証言-耀徳収容所での3年その3 (原 良一)
2007-01-02 02:35:50
 2000年6月30日、耀徳収容所(第15号管理所)に送られた。19歳の時だった。耀徳が何処かも全く知らず、永遠に出られないところに行くのかという程度にしか考えられなかった。私たち家族は、私が何処に送られたのか知る方法がなく、村では私がスパイ嫌疑で保衛部に銃殺され、筵(むしろ)袋に入れて棄てられたという噂が流れたそうだ。耀徳収容所内には、ちょうど旧邑里地域に革命化区域が作られ、中央党系統、安全部、保衛部、検察側の人間も革命化教育を受けていた。初日、入って行ったところは、外来者収容所という場所だった。初めて来た人々は、調査過程で、身体の状態が非常に悪く、激しい労働で鍛練出来ない人々であるため、飯は与えられ、仕事の強度は一般基本中隊より少し軽い方だった。半月ほど過ぎて、管理所政治部長という人物が訪れ、談話することができ、その時に私が反逆罪で3年刑を受けたことを初めて聞いた。壮健な人々は、7~10日目ぐらいで中隊に送られたが、私は幼く見てくれたのか、一ヵ月ほどそこにいて、基本中隊に送られた。

 配置された場所は、建設小隊2中隊3小隊だった。この時から、昼夜無く続けて働かなくてはならなかった。夏は午前4時30分起床。農場小隊支援、肥料を運び、耕作し、7時に幕舎に戻り、朝食を食べた。7時30分に基本建設をし、基礎を掘り、セメントを手で直接練って、保安所を新しく建てて拡張することが初の課題だった。私が建設小隊にいた3年の間、他にも鶏舎、山羊舎、牛舎、外来倉庫等、6棟の施設を作った。物資も無い状況で16人程度にしかならない小隊人員で多くのものを全て作らなくてはならなかったのだから、どれほど仕事を多くしたか。
 昼食は、午前に食堂から持ってきたもので、外で作って食べた。周辺の山菜を採って真鍮鉢に入れて食べたが、量を増やすためだった。5時間働いて30分休むのが基本で、作業能率を見て休むようにした。通常は、午後6~7時まで働くが、能率が上がらないといって、よく夜間作業をさせられた。夜間作業がある期間には、6人ずつ3組、または8人ずつ2組に分かれ、初めの組が午後5時から深夜1時まで、次の組が1時から明け方5~6時まで、最後の組がまた交代する方式で働くために一日24時間絶え間無く作業は続けられるのである。
 殴打は保衛部や拘留場よりは相対的に少ないが無くはなかった。目端がきき、拳が少し強ければ殴られず、働く、働かないによって、一緒に働く他の罪囚が打たれたりする。つまらぬことを見たり、知ったりして、死ぬ場合も多く、罪囚の中にも先生のスパイが大勢いるために、失言をして引っ掛かれば、耀徳収容所内にもある別の拘留場に連れて行く。一食10グラム程度しか与えられないために、1カ月いても虚弱(栄養失調)になって死ぬか、生きても這うようになる。身長が170㎝になる人間も一旦ここに入れば、完全に子供になって這うようになり、普通3日もせずに死ぬ。

 人が死ねば、基本的に建設小隊が死体を処理する。埋葬をするため、それでも良い方といえるが、板で簡単に棺を組んで死体をそのまま入れようとすれば、横から早くしろと急き立てるなかで、何であろうと手当たり次第つかんで釘を打つ。牛車に乗せて運ぶのだが、石に躓(つまず)くと棺が割れて隙間が出来て死体が外に飛び出てくる。私は主に牛車を引く方だったが、棺の外に飛び出た死体に視線が行けば、無条件に生き残らなければということ以外何も考えなかった。埋める場所は‘墓の谷’と呼ばれたが、主に夜に死体を埋めに行くために、大雑把に掘って急いで埋めて、闇に紛れてトウモロコシでも取って皮をむしって焼いて食べたりした。

 私を含めてロシアに一緒に入って行き、耀徳に連れて来られた5名の中の方ヨンシルという女性は、本当に気の毒に死んだ。一緒に捕まった方ヨンシルの夫・許ヨンイルという男性は、何処にこんな男がいるのかと思うほど良い人間だった。他の男であれば、妻がどうのといっている間に、自分の生命が往来する状況では知らん顔するだろうに、名節に出た少しの肉でさえも食べずに、隠して持っていって食べさせ、作業が終わって戻ると、すぐに駆けて行き、一時間ずつ女の側にいって身体を洗ってやったりした。最後には、しもの世話までし、誠心誠意面倒を見たが、これほどしたのに方ヨンシルは遂に不幸に死んだ。生死苦楽を共にした私たちが、彼女を埋葬したが本当に悲しかった。

 2003年7月、刑期を終えて遂に耀徳収容所から出る時、誓約書を書いて拇印を押した。「外に出て、ここの秘密を流布した時は死刑に処される」という内容だった。出る時は、途中で食べる物を持って出たが、該当区域の保衛部に連れて行かれた。保衛部で書類を確認処理し、軍団労働部に行き、書類手続きをして新しい職場を得た。私は茂山郡新谷〈セコル〉農場に配置された。働いている間は常に監視された。班長は何も言わなくても24時間私を見ていた。村人たちも「中国へ行く兆候があったり、行動が怪しかったりしたら即時通報せよ」と教育されていた。それでも同じ村の人々なので、普段は私を遠ざけたりしなかった。むしろ銃殺されたと思ったのに、どうして生きて戻って来たのか心配して尋ねた人々もいた。誓約書を書いたために話すことも出来ず、ただ何処そこへ行って働いて来たと言い繕った。出来ることなら、口を縫っている方がよかった。それで、兄と姉は今でも私が何をしていたのか知らない。後日、中国に再び脱出して双子の弟に会った時に初めて聞かせたのだが、こうして話した後も誰かが聞いていて捕まえに来るのではないかと怖くなり、内心不安で、二度と誰にも話さないと誓ったりもした。

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