アフガン・イラク・北朝鮮と日本

黙って野垂れ死ぬな やられたらやり返せ 万国のプレカリアート団結せよ!

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 アフガン・イラク戦争も金正日もNO!!搾取・抑圧のない世界を目指して、万国のプレカリアート団結せよ!

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震災被災地の企業を応援しよう!

2024年01月31日 21時08分00秒 | なにわB級グルメ探訪

相模屋の「おだしがしみたきざみあげ」という商品があります。味付けされたフリーズドライの刻み揚げが、チャックシールの袋に入れられ、各地のスーパーで売られていました。私もこの商品を重宝していました。今住んでいるワンルームには、IH一口コンロのミニキッチンと、ワンドアタイプの小型冷蔵庫しかありません。他にあるのは電子レンジと電気ケトルだけです。これでは簡単な調理しか出来ません。そんな中でも、この商品なら包丁要らずで簡単に調理できるので助かっていました。常温で長期保存できるのも魅力でした。

確かに味だけなら、もっと美味しいお揚げさんも一杯あります。例えば同じ相模屋の「焼いておいしい絹厚揚げ」など。でも、そういう美味しいお揚げは、脂肪分も半端なく多いので、味噌汁の具として使う為に包丁で切っていると、手が油でベトベト、テカテカになってしまいます。それに対して、「おだし~」は既にカットされているので、手がベトベトにならずに済みます。

ところが、最近どこにも売っていないので、不思議に思い、商品の包材でメーカー名を確認したら、何と能登半島地震被災地のメーカーでした。メーカー名は石川サニーフーズ株式会社。石川県の中能登町に本社と工場があります。同社で製造された商品を相模屋が各地のスーパーに卸していました。その同社が今回の地震で被災し、操業停止に追い込まれていました。その為に、近所のスーパーからも商品が撤去され、代替品に置き換えられていました。

でも、このまま撤去されてしまうには、余りにも惜しい商品です。この商品が誕生するまでの経緯を知ると、石川サニーフーズもうちの会社と全く同じ問題を抱えていた事が分かりました。その問題を乗り越える中で、同社は新商品の開発に成功し、会社の危機を乗り越える事が出来たのです。以下、相模屋の社長さんの言葉をそのまま紹介します。

「相模屋に、『おだしがしみたきざみあげ』というのがあるんですけれど(中略)これをつくっている石川サニーフーズは、実は、“あの”カップうどんのお揚げを納めて会社で(中略)、そのカップうどんのメーカーさんが、お揚げを内製化するということになりまして、それで需要がなくなって、石川サニーフーズの親会社さんからうちにお話が来ました。(中略)

私どもが行ったときには、こちらの会社は『別のカップうどんの取引先を探さないと』という雰囲気だったのですけれど、ふと、工場の片隅を見たら、裁断機があったんですね。納品先の規格に合わないお揚げをカットして、違う商品で使うための。(中略)めったに使われないらしくて、放置されていたんですが、『これで最初から刻んで売ろうよ、常温で保存できて、包丁を使わずに、すぐ料理に入れるから、喜ばれるよ』と(提案しました)。

刻んで食べたときにおいしくなるように、だしがしっかりしみたお揚げをつくって、カットして、使いやすいように袋にチャックも付けて。おかげさまで、これが売れて売れて。今は専用の生産設備をどんどん入れています。(中略)考えてみると、この会社は社員数90人前後なのに、いわゆる大企業病にかかっていたんですよね。(中略)大企業病の症状は、『他人の判断基準にひたすら従って、自分では考えない』ことですから、規模は関係ないです。

大きなクライアントの規格、基準、数字に沿うことが最優先事項で、やりたいことがあっても簡単には通らないし、お伺いを立てないと、物事が動かない。そうなればどうしても、言われたことだけを黙々とやる。ロボットみたいな仕事になるわけです。まずは皆さんに自我に目覚めてもうらおうと。やりたいことに気づいて、そのために働いていただこうと。『手持ちの商品で、こんなヒットが出せたじゃないか』が、その気持ちの大きな支えになります」

(以上、六角明雄「中小企業も大企業病にかかることがある」より引用)

言われた事しかしない。上の言う事しか聞かない。それをそのまま下に押し付けてくるだけ。そんな「大企業病」におかされた「社畜の奴隷根性」の弊風を打ち破って生まれてきた商品である事を知り、ますます親しみを覚えた私は、さっそく近所のスーパーに出向き、店内に備え付けのアンケート用紙に、この商品を再び店頭に並べてもらうよう書きました。そして、某スーパーの物流センター業務を請け負っている今の勤務先企業のホームページにも、以下の要望を投稿しました。

相模屋の「おだしがしみたきざみあげ」。味付けきざみ揚げがチャックシールの袋に入れられ各地のスーパーで売られていました。包丁要らずでそのまま鍋に入れるだけなので非常に重宝していました。常温で長期保存出来るのも魅力でした。

製造元は石川県の能登半島にある石川サニーフーズという会社です。ここは元々カップ麺に載せる揚げの製造メーカーでした。しかし、そのカップ麺の取引も終了し、新たな取引先を探さなければならなくなった時に、使われなくなった揚げの裁断機が相模屋社長の目に留まり。
 
揚げをカップ麺の規格に合わせる為に、この裁断機で揚げを切っていました。でも、そんな事するよりも、この機械で味付け刻み揚げを作り、新商品として売り出す方がヒットするのではないかと。それでこの商品が誕生したのだそうです。
 
今までの延長でしか仕事を捉えられず、自分の頭で物を考えなくなったら、改善も工夫もしなくなり、思考停止で知能も退化して「生ける屍」みたいな社員ばかりになってしまいます。
 
この石川サニーフーズですが、今回の能登半島地震で被災し、操業停止に追い込まれていました。先程、相模屋のホームページで確認したら、1月31日から操業再開目指して頑張っているそうです。是非××(業務請負先のスーパー)でも取り扱って貰えるようにして欲しいです。(以上、勤務先企業ホームページへの投稿終了)
 
スーパー・ライフ(左)とイズミヤ(右)店舗のお客様アンケートに書いて出した私の要望書
 
今、能登半島の被災地では、各所で道路網が寸断され、孤立集落もまだ多く残っています。本当はボランティアに猫の手も借りたいのが被災地の本音なのでしょうが、そのボランティアを受け入れる余裕すらありません。個人が支援物資を送っても、現地まで届けられる人もいないのが現状です。その中で自分が出来る支援は何なのか?その一つとして、上記の呼びかけをしてみました。
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藤森神社と伏見稲荷

2024年01月25日 20時23分03秒 | 身辺雑記・ちょいまじ鉄ネタ

今年の元旦に、競馬にゆかりのある京都の藤森(ふじのもり)神社に初詣に行ったら、その後、京都金杯・日経新春杯・東海ステークスと競馬が三連続的中したので、そのお礼と更なる的中祈願の為に、昨日の公休日に再び参拝に行きました。そのついでに、近くの伏見稲荷にも足を延ばしました。

藤森神社では宝物殿の展示が無料公開されていました。元々この神社は戦勝祈願の為に建立された関係で、馬具や馬術、刀剣にまつわる展示が数多くあります。それらの品々が公開されていました。宝物殿の中は撮影禁止区域と許可区域に分けられていて、許可区域の展示品のみ撮影して来ました。許可区域では刀剣ゆかりの四社巡りの御朱印と、鶴丸と呼ばれる平安時代の名刀の写し(模造品?)、それを象ったネットゲームのキャラクター「鶴丸国永」のフィギア、バッジ、サイン色紙、扇子などが展示されていました。

それらを見た後、絵馬を買い、三連続的中のお礼と更なる的中祈願のお願いを書き、神社に奉納しました。その後、境内にある不二(ふじ)の泉(湧き水)、新馬像、歴代GⅠ馬の絵が奉納された絵馬殿、境内にある末社、競馬のファンファーレが鳴る飲料自販機などを観て来ました。

絵馬殿の全景と歴代GⅠ馬の絵馬。左からトウカイテイオー、ナリタブライアン、ファレノプシス。

左上:飲料を買うと「パンパカパーン、パンパンパン、パンパカパーン、幸運に恵まれますように♪」と声の出るダイドードリンコの自販機。右上:藤棚(今は冬なので枯れている)と和歌の碑。境内には紫陽花の花壇もあり、梅雨の季節にはきれいな花が咲くそうです。

そして、藤森神社最寄り駅の京阪電車墨染駅から三駅京都寄りにある伏見稲荷駅で下りて、伏見稲荷もついでに参拝して来ました。私は今まで伏見稲荷には一度も行った事がなく、有名な千本鳥居も一度見て来たかったので、立ち寄って来ました。

左上:伏見大社の大鳥居。右上:千本鳥居。参拝路は右から上って左から下りて来る。

稲荷大社なので破魔矢や絵馬も狐の顔を象っている。絵馬の願い事も多言語で国際色豊か。

伏見稲荷の名物。左:雀と鶉(うずら)の焼き鳥。右:稲荷寿司。いずれも五穀豊穣を願って供えたのが始まりだそうです。でも私は(特に焼き鳥の方は余りにも鳥の姿がリアルなので)余り食べる気がしませんでした。

参道の土産物。左上:韓国で人気の10円パン500円。右上:肉巻きおにぎり600円(高w)。下:伏見稲荷Tシャツ。

藤森神社も平日の割には参拝客が割と多くいましたが、伏見稲荷はその比ではありません。平日でも初詣並みの大混雑です。でも、そのほとんどは中国人観光客です。参道には縁日の屋台も一杯出ていましたが、こちらも総じて「ぼったくり価格」の店ばかりで、到底買う気になれませんでした。

それに加えて、当日は寒波襲来で雪も散らつき出したので、もう奥山の御膳谷(稲荷山)には行かずに、本殿だけの参拝に留めました。観光地としての知名度や、文化財の値打ちで比較すると、確かに藤森神社よりも伏見稲荷の方がはるかに「格上」ですが、私個人としては、後者よりも前者の方がはるかに庶民的で、より親しみを感じました。

伏見稲荷の本殿の横には住吉大社末社の大歳社にあるような「おもかる石」もありました。この石を持ち上げた時に軽いと感じたら願いが叶い、重いと感じたらもっと努力しなければならないと言われています。私も持ち上げてみましたが、意外と重く感じたので、藤森神社の御利益もそろそろ賞味期限が尽きる頃に来ているのかも知れません。

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よみがえれ!のと鉄道

2024年01月18日 21時46分59秒 | 身辺雑記・ちょいまじ鉄ネタ
【#能登半島地震復興支援】のと鉄道 穴水~蛸島間廃止前の全線最後の風景【本編フル公開】
 
 
能登半島地域の震災からの復興を願って、かつて能登半島を走った列車の動画を紹介します。
 
能登半島にはJR七尾線(津幡〜輪島)とJR能登線(穴水〜蛸島)の2路線の鉄道が存在し、「能登路」などの急行列車も走っていました。
 
しかし、能登半島の道路環境が改善され、輪島や珠洲から金沢に出るには車に乗った方がはるかに早い事から、鉄道利用客は年々減少。
 
1987年にはJR能登線が第三セクターの「のと鉄道」に移管され、後に七尾線津幡〜和倉温泉間の電化と引き換えに、残りの和倉温泉〜輪島間も「のと鉄道」に移管。
 
確かに和倉温泉まで電化された事で、金沢から電車特急が直接乗り入れられる様になり、同駅以南の区間は賑わうようになりました。
 
しかし、そこから輪島までと、途中の穴水から蛸島までの区間は、非電化で単線のままJRから切り離され、逆に余計不便になりました。
 
その為に、乗客は年々減少→相次ぐ減便・運賃値上げで、ますます地域の衰退に拍車がかかる事に。
 
その結果、2001年には輪島〜穴水の約20キロが、2005年には蛸島〜穴水の約61キロが廃止になり、鉄道は穴水〜和倉温泉の約33キロ区間だけになってしまいました。
 
そのわずかに残った33キロ区間も、駅は7つしかないのに運賃は片道850円もします。これでは乗客が減るのは当然です。
 
この動画が撮影された時は、既に輪島〜穴水は廃線となっていましたが、蛸島〜穴水の間はまだ列車が走っていました。
 
当時走っていた列車はNT100形で、現在の「のと鉄道」のNT200形(普通車)、NT300形(のと里山里海号)とはデザインが異なります。
 
動画では、次々と現れるトンネルに、最初の穴水隧道には「い」、次の麦ヶ浦隧道には「ろ」という様に、順番に「いろは」の略記号が付けられている事が分かります。こうする事で、事故や災害発生時に自分の居場所が分かる様にしたのだそうです。
 
また、駅名にも特徴がある事が分かります。まず「藤波」「松波」などの○波という名前の駅名(地名)が多い事です。その事から、この鉄道が能登湾の漁村を縫う様に敷かれた事が分かります。
 
入り組んだ海岸線を縫う様に鉄道が敷かれた為に、自動車と比べて時間がかかり、バスやマイカーに乗客を奪われる様になってしまったのです。そして今回の震災でも、津波や土砂崩れで線路が寸断される事になってしまったのです。
 
逆に昔の繁栄ぶりも駅名(地名)から推し量る事が出来ます。「鵜川」「鵜島」「鵜飼」など鵜○という駅名が多い事から、鳥が集まるほどの漁場が沿岸にあった事が分かり、当時の漁村の繁栄ぶりが偲ばれます。
 
また、和倉温泉〜穴水間の駅全てが相対式のホームになっている事も驚きでした。普通列車しか停まらない単線の駅なのに。これは、能登線の列車だけでなく七尾線の列車も通さなければならなかったので、各駅で行き違いが出来る様にしたのだと思います。
 
それほどまでに繁栄していた路線が、なぜ次々と廃線に追い込まれてしまったのか?その活性化策も講じないまま、安易に「赤字だから鉄道を廃止してバスに変えてしまえ」だけで本当に問題は解決するのか?
 
鉄道から代替バスに変わった所はどこも衰退に拍車がかかり、遂にはバスも廃止にされてしまう事は、北海道の天北線を見れば明らかです。
 
しかも能登半島の場合、JRは採算の取れる和倉温泉以南を電化しています。いわば儲かる部分だけちゃっかり奪い取り、儲からない部分(同駅以北)だけ沿線の自治体・住民に押し付けるという身勝手な対応を取っています。これでは地域が衰退するのは当たり前です。
 
大まかに言えば、この40年間で人口が30%以上減少し、65歳以上の高齢化率が38%を超え、15歳以上30歳未満の人口が11%以下の地域が「過疎地域」として認定されます(実際にはもっと細かな定義がありますが)。石川県の場合、「過疎地域」は全て能登半島の自治体で占められます。この様に、金沢周辺地域との南北の経済格差が長年に渡り放置されて来ました。
 
幾ら道路だけ整備しても、地域の産業が寂れたままでは、逆に人口流出を招くだけです。そこに2007年や2020年以降の群発地震の影響で、地域が疲弊していた所に、今年元旦の地震が起こりました。
 
地震そのものは天災で避ける事は出来ませんが、その影響を最小限に食い止めるのは政治の役割です。その政治が全然機能しなかった為に、今回ここまで被害が大きくなってしまったのです。県内の南北格差が放置されて来た為に。そういう意味では、今回の震災被害は100%政治の怠慢、不作為による人災です。
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ガメ・オベールさんの少し長いつぶやき

2024年01月13日 20時23分00秒 | 一人も自殺者の出ない世の中を
 
日本の社会は災害に強いことで有名だが、今回は、遠くから見ていて、「あれ?」とおもうことが多かった。
 
阪神淡路大震災のとき、ニュース(英語)でも「自衛隊の内々の出動打診を首相が反自衛隊の立場から断った」と説明されていたのを憶えているが、あとで、これはどうやら当時の自社さ連立政権に対立していた勢力が流した嘘だった、ということになったようでした。
 
政府に対立する人たちが強く問題にした「初動の遅れ」が、では、どの程度だったのかとおもっていま調べて見ると
 
1.緊急救助活動、すなわち、救助隊や消防、警察などの緊急救助活動の開始は、ほぼ即時始まっている。
2.自衛隊による救助活動は、震災発生後の同日中に始まっている。
初めの部隊が活動を始めるのは、震災発生後、だいたい3時間です。
「白い眉毛が長くてかわいい」というので、当時、英語社会の女の人たちに人気が出た村山富市の社会党政府は震災発生後約3時間で災害派遣を決定し、自衛隊が動員されている。
どうも自民党?が流した虚偽と後で訂正された「自衛隊の打診を断った」というのはレスポンスタイムの点から言っても、ほんとうではなさそうです。
3.今回、台湾政府からの申し出を「必要ありません」と断って、おお、日本政府は救助に自信を持っているのだな、あんまりたいしたことないんだ、では、ほっといて大丈夫だね、と海外の国の官民を安心させた海外からの救助の申し出は、救助隊のいちばん乗りがスイスで、発生後3日で到着、ただちに活動を開始しています。そのあと陸続と国際救助隊がやってきた。
 
復興のおおきなパワーのひとつは一日平均2万人以上、延べ117万人(!)を数えたボランティアの力であったことは、当時の記事や震災復興を描いた本(例:「神戸震災日記」)を読むとよく判ります。
 
ずっと後年になって、オウム真理教のサリン事件と並んで子供の時に大ショックを受けた神戸震災がどんなものだったかお温習いするために(日本語で)読んだときに考えたのは、自分の善意だけを頼りに日本全国から三々五々集まった「ボランティア」のひとびとと被災地の住民、自衛隊、行政が、話し合いを繰り返して、なんとか力をあわせて、それこそ瓦礫を掻き分けるように必死に協力しあって復興していく姿で、2009年と2011年2月のクライストチャーチ地震のときも、どうすればボランティアの善意を実際の復興作業に活かせるか、という難しい問題などを考えるために参考にされていた。
 
駆けつけたボランティアのひとたちの姿を見ることは、被災者のひとびとの最大の心の支えであったように見えました。
 
村山政権は朝野をあげて初動対応の遅れを糾弾され、無能の烙印を捺されて、半年後、内閣は瓦解します。
 
こうやって書いていくと、「あれ?」の内容が、判るでしょう?
まるで異なる国のようです。
 
ボランティアが全国から駆けつけるどころか、ボランティアは邪魔でしかないんだから引っ込んでいてくれ、ということになり、災害援助を丸投げにされた消防士、医療従事者、自衛隊員たちは疲労の色が濃く、昨日などは若い研修医のひとが「過疎地を復興するのは国力の無駄だから、やめてしまおう」と提案して、それがSNS上で支持されていたりして、30年で、ずいぶん冷たい、人間性を欠いた国になったものだなあ、と、気が滅入ってしまった。
 
この十数年、「なにごとにも冷徹で理性を失わないクールなおれ」という、英語社会ではあまりの幼稚なナルシシスムに吹き出されて終わりになるに違いない態度の、しかも40代を過ぎたひとたちを観て、大丈夫なんだろうか、と考えてきた、日本のいまの、どうやら日本語ネット上のインフルエンサーを淵源とするらしいトレンドが、そのまま現実になって眼前に現れる結果になった。
 
天然全体主義と呼びたくなるほど、自分の観点を持たず、必ず政府や社会の観点から個人を見下ろすように思考を始める日本の人の奇妙な癖/反応は十分に心得ていたはずなのに、どうしても自分が住む個人重視の自由社会と混同する癖がまだ抜けきっていなくて、ボランティアが受け入れられない理屈は判ったけど、せめて、体育館の雑魚寝は解消しないと被災地の人はたまらないのではないか、と述べたら、案の定「なぜ出来ないか」の陳弁が並んで、
「そんなこと出来るわけがないでしょう。日本人が懸命にやっていることを、どうか判ってください」と、言われてしまって、その結果は、嫌な事をいうようだが、またぞろ海外の人間から「これに耐えられるから日本人は災害に強いんだね」と異星人を観るような目で賛嘆される体育館での雑魚寝で、もっと嫌な事をいうと、度重なる災害で学習したはずの、いまならコロナなどの感染症の蔓延、思いつくだけでも災害には付きもののcrush syndrome、雑魚寝を強いられることからくる深部静脈血栓症・肺塞栓症、臓器のなかでもストレスの影響を強く受ける子宮が引き起こす腟炎・外陰炎症、子宮附属器炎,骨盤腹膜炎、月経不順、続発無月経、文明国並の災害救済が受けられないことからくる、さまざまな病変に、被災したひとびとが耐えられるものかどうか。
 
現地の惨状が隠蔽しようがなくなったときに自治体と政府が取りそうな政策は二次避難で、全国ホテルチェーン(例:アパホテル)などに要請して、全国に被災者をばら撒くことだが、能登がある加賀・越前は、一向宗の「百姓の持ちたる国」の伝統で、日本のなかでも取り分けコミュニティが強い土地柄だと聞いている。
 
限界村落だの、役立たずの年寄り村だのと言われながら、人口がみるみる老化減少して、若い研修医に「諦めろ」と言われるような土地に住んでいるのは、その自分が安心立命できるコミュニティのなかで、死んでいきたかったからでしょう。
そこから老人たちを引き剥がすことは、生木を裂くどころではなくて、生き身をふたつに切り分けることに似ている。
 
今回は、日本政府そのものが「たいしたことありませんので、どうかお気遣いなく」と言わんばかりの対応で、言い換えれば「余計な手助けなんていらないから、やらないでください」と言われて、海外では初めから災害規模からすると、びっくりするくらい関心の低さを反映した報道の扱いだったが、だいたいアメリカ合衆国の大統領選レースの始まりくらいとともに、もうすでに忘れられた地震になる徴候が見えていて、自信たっぷりの日本政府の面々の顔を眺めながら、
そんなら、もういいね、ということになっている。
 
あれやこれや。
ニュースを読んでいると、気が付かないうちに鬱々とした気持ちになるが、目の前の現実が、いまの日本語社会の現実になってしまったのだから、現実を認めなければ仕方がないといえば仕方がないのだけど、
日本って、こんな国だったっけ?と、去年くらいからなんども味わった訝しい気持ちを、ふたたび、さらに強烈な形で味わっているところです。
 
能登のひとたち、これから生きていけるのだろうか?
そんな心配、余計だし、くだらない、と日本の人たちは笑うだろうけれど。(以上)
 
↑ガメさんの言う通りです。私も、JRAからスマッピーやUMACAカードを作った際に貰った新品ブランケットの類があり、被災者にカンパしたいと思っていたのですが、「個人が勝手な事するな」の大合唱を前に気持ちが萎えてしまっていました。この投稿を是非ブログに転載させて下さい…という事で、そのまま転載させてもらいました。
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競馬神社に初詣に行ったら早速的中!

2024年01月07日 20時38分14秒 | 身辺雑記・ちょいまじ鉄ネタ
 
 
「競馬の神様」で名高い京都の藤森神社に初詣に行ったら、早速、今週土曜日開催のGⅢ京都金杯で馬券が的中!200円×12点=合計2400円の馬券購入額に対し、7910円×200円/100円=15820円の払い戻しで、差し引き13420円の儲け!
 
このレースは年明けGⅢのハンデ戦で毎回荒れます。競馬歴ウン十年の私も今まで一度も的中した事がありませんでした。それで今回は馬の成績よりも騎手との相性を重視。それに枠順・ハンデ・調教成績を加味して下記の印を打ちました。
 
◎④トゥードジボン(京都マイル2勝、斤量減、騎手と相性良好、内枠で得点最多)
○⑰フリームファクシ(騎手と相性良好、GⅢ勝ち有、好調教)
▲②コレペティトール(イン突き得意な騎手とペアで内枠に)
★⑮ドーブネ(騎手と相性良好で前2走連勝、GⅡ3着有、但し斤量増で割引)
△⑩アンドヴァラナウト(名手武豊に乗り替わり、好調教)
△⑪セッション(騎手と相性良好、持時計優秀)
△⑭アルナシーム(前走速いタイムで勝つ)
 
馬券は三連複で◎ー○▲★ー○▲★△のフォーメーションで200円ずつ12点で流しました。でも、ただでさえ当てるのが難しいレースなのに、昨年不調だった私が当たる訳ないと、もう自宅に帰ってテレビでレースを観戦していたら…。▲②コレペティトール1着、△⑪セッション2着、◎④トゥードジボン3着で、三連複②④⑪7910円と、私にとっては久々の高額配当で的中!
 
逆に、翌日の日曜日はどうも気乗りがせず、競馬は予想だけして馬券購入は見送りました。GⅢとは名ばかりのショボいレース(フェアリーS)で、出走馬のレベルも低く、混戦で展開も読めず。その割には、私の買い目ではそんなに儲かりそうもなく。そんなレースの予想に時間を費やすのがもうバカらしくなり、見送ったらこちらは見事に外していましたw。この馬券購入見送りも、ひょっとしたら神のお告げかもw。
 
私は今まで神なぞ信じませんでしたが、今年はゲン担ぎで「競馬神社」として名高い京都の藤森神社に初詣。競馬的中はそのご利益かもしれません。
 
思えば、4年前の旅行で、福井県の東尋坊近くにある雄島という心霊スポットにある大湊神社の絵馬に、コロナ退散・腰痛快癒と並んで安倍政権退陣の願いを書いて奉納したら、昨年安倍が統一教会絡みのトラブルで凶弾に倒れ、それを機に安倍の悪事が次々と露呈。その後も、職場のトラブルメーカーの退散を願い、一昨年の初詣で住吉大社の絵馬に、冗談半分でその事を書いたら、春の人事異動でその人は本当に他部署へ転勤に。
 
私は元々、唯物論者で神なぞ信じませんでした。むしろ「宗教なぞアヘンだ」とするマルクスの教えの方を信奉していました。だから、一連の心霊スポット訪問も、心霊スポットの嘘や、統一教会なぞの霊感商法の化けの皮を引ん剝くつもりで、チャラかしや皮肉まじり、ブログネタ提供のつもりで行って来ました。
 
でも、こうトントン拍子に当たると、私も神を信じざるを得なくなるかも。でも、そんな事言ってしまったら、全て「神頼み」になってしまい、人間は全然努力しなくなってしまいます。それに、「神」や「信仰」をかさに着て、悪だくみを働く人が出て来ないとも限りません。統一教会なんてその良い例です。そう思うと、やはり「宗教はアヘン」です。今回の競馬的中は、あくまでも私の研究成果によるものですw。
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年末年始も普段通りの食生活で

2024年01月07日 08時10分25秒 | なにわB級グルメ探訪
遅くなりましたが、近所のスーパーが閉店していた正月三ヶ日前後の自炊献立の写真をここに公開します。年末年始の自炊奮闘記として来年の参考にする為に。

12/30日夕食。いわしうま煮、冷奴、粕汁。粕汁は具沢山だったので他には何も入れず。

12月31日の今日は、私にとっては普通の公休日の日曜だが、世間では大晦日。そこでお昼は年越し蕎麦とミニ太巻きに。蕎麦に入れる安い蒲鉾が手に入らなかった時の為に、乾物の海老天も買っておいたが、その心配は無用だった。では、もう今年も後僅かになりましたが、良いお年を。
 
12月31日夕食。焼豚、豆腐・オクラ・ブナシメジの味噌汁。幾ら一人暮らしだからと言っても、味噌汁を1杯分の水だけで作る事なぞ出来ない。そんな事したら鍋が空焚きになってしまう。だから、どうしても余分に作らざるを得ない。写真の味噌汁もお椀で3杯お代わり。もう味噌汁だけで体が温まる。冬だからと言って必ず鍋料理にする必要は全くない。普段の食生活でも充分栄養が取れる。
 
1月1日元旦の夕食。人参のかき玉味噌汁と扇形ソーセージ。人参はスライスして絹さやと煮て、人参のアクが出て来たら卵を落として出来上がり。こうすると人参も生臭さが消えて甘く美味しくなる。
 
同じ様にカボチャも本当は鍋で煮たかったのだが、カボチャは一旦カットしてしまったら日持ちがしなくなるので、その日のうちに使い切らなくてはならないと、スーパーの店員に言われて購入を諦めざるを得なかった。
 
かと言って、カボチャを丸ごと1玉買ってしまったら、種を取ったり一口サイズにカットしたりしなければならない。それでなくても調理に時間がかかるのに、今更そんなドデカカボチャなぞ買う訳にはいかない。
 
副菜を扇形ソーセージにしたのも、少しでも調理時間を短縮する為。ソーセージが加工肉で食品添加物の塊である事は百も承知。それでもスーパー休業の年末年始を巣篭もりで乗り切るなら、そんな添加物の塊でも頼らざるを得ない。だから、同じソーセージでも、少しでも良質な信州ハムの扇形ソーセージにした。
 
1月2日の夕食。スープ餃子、ネギ入り卵焼き、年越しそばで使った残りの蒲鉾を添えて。スープ餃子には絹さやとブナシメジを入れて。
 
1月3日の朝食は買い置きのパンが切れたのでご飯に。高野豆腐に蒲鉾と絹さやを入れて、卵を鍋に割り入れ。蒲鉾は年越しそばに入れた残りを回す。それと鰯しょうが煮の惣菜と。今日はまだ公休日なので調理の時間が確保出来たが、明日は出勤日なのでそんなに時間は取れない。一瞬パンにしようか迷ったが、まだ食材が余っているので、何とかご飯の朝食を作ってみる。
 
1月3日の夕食はスープ餃子と焼豚丼。スープ餃子に絹さや入れて。大晦日の夕食も焼豚にしたが、大晦日との違いは、焼豚をご飯の上に載せて丼にした点。刻み葱の残りも全て焼豚と一緒に混ぜて丼の具に。こうすれば余りがちの刻み葱も早めに消化出来る。
 
1月4日の朝食。絹さや・ブナシメジ・乾燥揚げの味噌汁、冷奴、信州ハムの扇形ソーセージ。冷奴があるなら刻み葱は昨日全部使ってしまわず少し残しておけば良かったw。調味料は味噌と鰹節しか使わなかったので調理と後片付けも簡単に済んだ。平日の出勤日の朝も、いつもより10〜15分早起きすれば、朝食をパンからご飯に切り替える事が出来る。その早起きの時間が半端ない(午前4時w)ので、切り替えの判断がいまだつかないのだが。
 
1月4日。本日からまた近所のスーパーが開店。夕方、仕事帰りにスーパーに立ち寄ったら、普段は在庫豊富な絹ごし豆腐が品切れになっていた。夕食はカレーにした。
 
材料
玉葱1/2玉、メークイン1個、人参1/2本、絹さや6房、粗挽ポークウインナー1/2袋、カレールゥ1/4枚。全て年末にスーパーで買った分。
 
レシピ
①人参・メークインを電子レンジで10分間加熱。
②玉葱・絹さやを電子レンジで5分間加熱。
③鍋に水コップ1杯分とカレールゥ、人参・メークイン・玉葱・絹さや・粗挽ポークウインナーを入れ、中火で10分間コトコト煮る。
④電子レンジでチンしたパックご飯も鍋に投入して③の材料とかき混ぜる。⑤お皿に盛り付ける。
 
ご飯を鍋の中でかき混ぜたので、おじやみたいなカレーになったが、味はむしろこちらの方が、カレーがご飯に染み込み、難波自由軒のカレーみたいに美味しかった。
 
食費の集計
大晦日前に買い溜めしたスーパー領収書の合計額¥10,406(A)
上記のうち調味料・雑貨品・1月4日以降に持ち越し分¥2,988(B)
実際に買い置きが必要だった正月三が日分の食費¥7,418(A-B)
 
1月4日からは近所のスーパーも開店したので、またパンとコーヒーの朝食に戻しました。普段でも朝4時起きなのに、その上更に毎日早起きするのは辛いです。私の場合は正月も通常通り勤務で、生活も普段と変わらないので、おせち料理もお餅も一切買いませんでした。ただ年越しそばだけは買いましたが、そばに入れる蒲鉾の確保には苦労しました。年末になるとスーパーの売り場には1個数千円もする迎春蒲鉾しか並ばなくなるので。野菜もくわいやゆり根や金時人参ばかりとなり、普段買う野菜は片隅に押しやられて探すのに苦労しました。
 
それでも、「働き方改革」でスーパーの正月休みが広がった関係で、いつもは大忙しの元旦作業が幾分暇になり、私の勤務先のような下請け業者も、おこぼれで元旦休みが取れるようになりました。その分、元旦出勤手当がもらえなくなりましたが。しかし、いくら正月休みを増やしても、正月だけしか休めないのでは、休み明けに仕事量が増えて、余計にしんどい想いをするだけです。それよりも、自由にいつでも有休取れるようにしてくれた方が、よっぽど有難いです。
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今年の初詣は少し遠出して京都の藤森神社に

2024年01月03日 10時51分28秒 | 身辺雑記・ちょいまじ鉄ネタ

今年の元旦は、まずコスモタワーで初日の出を見た後、自宅に帰ってその様子をブログに書きました。その後、初詣に行く事にしましたが、今年はいつも行っている近くの住吉大社ではなく、今まで行ったことのない所に行こうと、ネットで調べていたら・・・面白い所を見つけました。

京都市伏見区にある藤森(ふじのもり)神社です。絵馬殿に歴代競走馬の絵が掲げられていて、競馬の関係者やファンがよくお参りする神社という事で、私もお参りする事に。最寄り駅は京阪本線の墨染です。大阪・淀屋橋から特急に乗り、丹波橋で普通電車に乗り換えて一つ目の駅です。駅を降りて踏切を渡り、最初の角を左に折れ、藤森小学校の角を右に進んだら神社の看板が見えて来ます。

墨染駅に着いたら12時前だったので、近くのラーメン屋でお昼にしました。京都では割と有名な神社らしく、参拝する人が大勢います。その為に、飲食店も元旦から営業している所がチラホラ。そのうちの一軒「拉麺へんてこ」にお邪魔して、一番人気の「魚介へんてこッラーメン」とミニチャーシュー丼をいただきました。「へんてこ」な名前の店でしたが、味は抜群でした。ラーメンの上に載っている魚の形をしたミニあられが面白かったです。店内の壁に藤森神社のお札が貼られていました。

「勝運 馬の社 藤森神社」と書かれた看板の前を左に折れ、神社の鳥居をくぐると、拝殿まで続く参道には、既に順番待ちの参拝客が大勢並んでいました。駐車場の入口には「車は右、人・馬は左」の案内板(馬も参拝?)、駐車場の中にも「トウカイテイオー」「ウマ娘」のステッカーが貼られた車が。参拝まで約1時間の順番待ちの間も、色々楽しませていただきました。

参拝の後はいよいよ絵馬殿へ。ここに掲げられている歴代優勝馬は、最近の物は余りなく、90年代から2000年代初めにかけて活躍した馬の絵が中心でした。最近競馬をやり始めたファンには余り馴染みのない馬ばかりです。逆に、私の様に競馬歴20年(年数だけは一丁前w)のファンにとっては、ちょうど競馬をやり始めた頃に活躍した馬ばかりで、しばし当時の思い出にひたる事が出来て幸せでした。

絵馬殿に掲げられた歴代GI馬の絵より。左上から右下へ順に、④マチカネフクキタル(1997年菊花賞)、⑫ナリタトップロード(1999年菊花賞)、⑨ファレノプシス(下記参照)、⑮ダイタクヤマト(2000年スプリンターズS)。

その中でも特に印象に残ったのがファレノプシス。1998年の桜花賞優勝馬で、その後、秋華賞や2000年のエリザベス女王杯も勝っています。ファレノプシスとは胡蝶蘭の学名です。翌日のスポーツ紙には「胡蝶蘭咲く」の見出しが躍りました。

私が初めて馬券を買ったのも、この桜花賞でした。レースの数日前に、同僚と飲んだ時に、同僚が楽しそうに競馬を話をしていたので、私も試しに馬券を買ってみる事にしたのです。ところが予想紙を読んでも、数字や競馬用語の意味が分からずチンプンカンプン。同僚や勤務先で荷物を積み込んでいたドライバーに、用語の意味や馬券の買い方を聞き回っていた当時の事を思い出しました。

このレースでは上位数頭に人気が集まっていました。当時はまだ単勝・複勝・枠連・馬連の4種類の馬券しかありませんでした。私は、ファレノプシス・ロンドンブリッジ・ダンツシリウス・(残り1頭不詳)の4頭を馬連ボックスで500円ずつ買い、馬連2010円の配当を手にする事が出来ました。

では何故、この神社が競馬と縁が深いのか?神社のホームページ等によると、西暦203年に神功皇后(じんぐうこうごう)が朝鮮半島征服の戦いから帰って来た時に、ここに勝利の旗を立てたのを記念して、スサノオノミコトなどを祀るようになったのが始まりなのだそうです。旗を立てたとされる台(旗塚)も神社の境内の中にあります。しかし、西暦203年と言えば邪馬台国の卑弥呼が活躍したとされる頃です。当時の日本はまだ弥生時代の後期です。そもそも神功皇后や歴代天皇自体も、第15代の仁徳天皇以前は実在したかどうかも定かではない伝説上の人物です。

でも戦前の日本では、伝説上の神話がまるで歴史上の史実であるかの様に教えられ、「日本には神風が吹く」と煽られ、侵略戦争の道に突き進んで行きました。その中で、競馬も軍馬育成の一環として開催されました。春・秋の天皇賞に天皇が観戦しに来るのも、昔の「帝室御賞典競争」のなごりです。競馬にはそんなきな臭い「負の歴史」もあるのです。もう二度とこんな過ちを繰り返してはいけません。今はもう21世紀です。この国の主権者は国民であって天皇ではありません。それが民主主義と言う物です。競馬も戦後は純粋に庶民の娯楽として定着して行きました。ギャンブル依存症になるリスクはあるものの。お酒も「百薬の長」と呼ばれるように、ほどほどに楽しめば良いのです。

神社では奉納太鼓が披露され、餅つきも始まりました。搗き立てのお餅が参拝者にも振舞われます。私は既に昼食のラーメンでお腹一杯だったので遠慮しましたが。境内にはかつての競走馬もいて、参拝客から与えられた人参を美味そうに食べていました。競走馬の名前は二ホンピロナッシュ(牡馬6歳)。競争成績は正直余りパッとしませんでしたw。多分おとなしい性格なのでしょう。だから、子どもの遊び相手にここに連れて来られたのかも。

境内には神馬の像も建っていました。像を撫でている人の中には「10万馬券が当たるますように」とつぶやいている人も。私はこれを見て例の「ワイド10万男」を思い出しましたw。飲料の自販機にも馬の絵が描かれ、お金を入れると競馬のファンファーレが鳴る仕掛けになっています。私は境内をしばらく散策した後、絵馬を買って帰途に就きました。絵馬に書く願い事は、自宅に帰ってから、絵馬の表面にテープを張り、サインペンのインクがにじまない様にしてから書きました。

藤森神社は競馬以外にも紫陽花(あじさい)の名所としても有名です。また菖蒲の節句(5月5日の端午の節句)発祥の地としても有名です。5月には駆け馬神事、6月には紫陽花祭りが開催されます。境内には「不二の水」という清水も湧き出していて、名水を汲みに来る人が後を絶ちません。次は春になったらまた来ようと思います。

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謹賀新年2024

2024年01月01日 09時47分35秒 | 身辺雑記・ちょいまじ鉄ネタ
 
新年明けましておめでとうございます。2024年の元旦にコスモタワー展望台で初日の出を堪能して来ました。
 
住之江公園からニュートラムの始発電車に乗りトレードセンター前で下車。通常使う連絡通路はまだ閉鎖中で、駅からは外の歩道でコスモタワー入口へ。ウェブで予約購入した3千円(高w)チケットのスマホ画面をカウンターで提示して入場。午前7時過ぎの日の出まで展望台で待機。
 
 
既に展望台の東側は人で一杯だったので撮影を諦め、北東側の海遊館・USJ方向から撮影開始。海遊館の後ろにある天保山の大観覧車を目印に。まだ暗い中で、観覧車の円弧に沿って点灯する5つの赤い灯火が分かるでしょうか?
 
やがて陽が上り始め周囲が明るくなって来ましたが、あいにく曇り空で陽の光は認識出来ず。それでも大観覧車が朝日の中で鮮明に姿を現し始めるのが分かると思います。
 
 
但し、展望台はガラス越しの撮影となるので、ガラス面に後ろの背景などの余計な物が写り込んでしまい、撮影には苦労しました。
 
3千円の初日の出観覧チケットには土産代も含まれていると案内されましたが、その土産もしょぼいブランケット1枚のみ。ある程度予想はしていましたが、まさにボッタクリそのものでした。
 
展望台の喫茶店も元旦特別営業でオープンしていましたが、どこでも売っているケーキやプリンしかなかったので、私は帰りにタワー1階にあるローソン(開店は6時から)で、コーヒーと宇治抹茶バウムを買って、1階ロビーの休憩コーナーでモーニング。
 
バウムのボリューム感が意外と凄くて、これ2つで充分朝食の代用になります。これでコーヒーと合わせて300円。展望台の喫茶店のケーキよりこちらの方がよっぽどお得w。それでは今年も宜しくお願い申し上げます。
 
 
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